早朝の電話
いつものリハーサルスタジオで、おれは壁の時計を見上げた。
開始時間をニ十分過ぎても、フジは現れない。
フジばかりではない。
今日は、リョウも来ていなかった。こんな事は初めてだった。
マサが難しい顔をして携帯を耳にあてていたが、やがて携帯の終話ボタンを押し、ひとつ息をついた。
「留守電になってた」
「今日、練習だってのは知ってるよな」
「まあ、そのうち来るだろ」
マサは携帯をポケットに入れ、スティックを握りなおす。
「先に始めるか? 叩いてくれよ」
マサに演奏を促すと、マサは眉間にシワを寄せる。
「ギターがないとつまらん」
「それ言っちゃおしまいだろ、リズムパートのおれらがさ」
おれのその言葉に返事を寄こす代わりに、マサはオーソドックスなエイトビートを叩き始めた。それに合わせ、おれは適当にベースラインを作っていく。
マサは時折テンポやリズムを変え、演奏にメリハリをつけた。
三十分ほどそうやって二人で練習していたが、フジとリョウはまだ来ない。黙々と叩いていたマサは、フィルの終わりにシンバルを一発叩いて演奏を止めた。
次は何だ? フォービートか、シャッフルか、テンポは?
おれは身構える。が、一向に叩き始める気配がない。
おれはしびれをきらせて言った。
「どうした、マサ」
マサは大きく腕を広げ、壁の時計に向かって首を倒した。
「どうしたっていうなら、あいつらだよ。時計見ろ。もう一時間近く経つ」
おれは時計を一瞥し、スタジオの重い扉に視線を移した。
『悪い悪い、遅くなっちまった』
そう言いながら扉を開けて入ってくる、フジとリョウの姿は、ない。
マサの大きなため息。
「もう……ダメかもしれねえな、おれたち」
そう言いながら、マサはフロア・タムの上に乱暴にスティックを投げ出した。タムが『どんがらりん』と、田舎の祭太鼓のような音をたてる。
おれもマサを真似るようにため息をつく。
「まったく……リョウのおかげでファンも増えたってのにな……」
おれはベースを下ろし、アンプの横に立てかけて、軽く伸びをする。
「ファンね……リョウ目当ての女だろ? はたして曲を聴いてんのかね……」
マサが半ば呆れたような声で言った。
「チケット一枚に変わりないよ……フジも言ってたろ。おれもその意見に賛成……どうした、マサ」
浮かない顔で目の前のシンバルを見つめていたマサの顔付きが変わったのが分かった。
「そうか……そうか女か……そうだ……」
マサは呟いていた。
「あ? 何が?」
疑問の声をあげるおれに、マサが苛立つように答える。
「この間のライブでおれらの邪魔したの、リョウのファンの女だよ……くそ、何で気付かなかった……女が首謀者だ……リョウに彼女が出来たのが気に入らないんだ……」
「あのなマサ、この間も言ったけどな、おまえの推理は荒唐無稽だよ」
そう言いながらも、おれは考えた。
なるほど。辻褄は合っている。一昔前のドラマなんかでもよくある話だ。
「あ……」
おれは思い出した。
おれがグラスで額を切ったあと、ガレージハウスの休憩室でカナが言った言葉。
「あたしにグラスを投げつける女の子がいたらどうする……?」
おれはマサを見た。マサもおれを見ていた。
おれたちは同じ事を考えていた。
「トモちゃんがヤバイかもしれん」
マサがポケットから携帯を取り出した。リョウに電話するつもりだ。
トモちゃんに危害を加えようとする女がいるかもしれん、気をつけろ、と。
だが、番号をプッシュするマサの手が止まった。
「どうした、マサ?」
「リョウは……おれたちがリョウとトモちゃんの事知ってるって知らないんだ……」
「知ってるって知らない……ややこしいな」
「おれの言う意味、わかるだろ……」
「わかる。でも……あれは既に、誰もが周知の事実だ。リョウもトモちゃんも、隠そうなんて気はもうさらさらないだろう」
マサはアドレス帳からリョウの番号を開き、考え込んでいた。
「マサ……電話したほうがいい。何かあってからじゃ遅いぜ」
「そうだな……ええい、ままよ……」
マサが発信ボタンを押した。
携帯は繋がらないままだったが、マサはリョウに伝言を残した。
フジもリョウも最後まで現れず、おれはマサと二人だけの練習を終え、家路についた。
途中でカナと待ち合わせ、おれはソフトケースを左肩に担いだまま、カナと一緒にスーパーで食材を買い込み、家に帰った。カナの手料理を食べた後、シャワーを浴び、長く甘い夜を、カナと過ごした。
そして翌朝、携帯の着信音で起こされた。
おれはベッドの上で体を起こした。隣で眠っているカナが、もぞもぞと身動きをする。カナの髪に軽くキスしながら、テーブルの上の携帯に手を伸ばした。
ディスプレイを確認する。マサからだ。通話ボタンを押した。
最後のライブの、始まりの合図だった。
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