閉ざされた心
おれは一人、教室の隅で面白くもない授業を聞いていた。
講義が終わり、部室に向かう途中トイレに寄った。壁の落書きを何となく読みながら用を足す。
トイレの洗面台で手を洗っていると、誰かが慌ただしく駆け込んで来た。
「お、タカ、ちょうどよかった」
フジだ。顔に血の気が無い。
「タカ、悪いけど、これを部室に置いといてくれ」
おれの手にギターのソフトケースを預けると、個室に駆け込み、吐き始めた。
「フジ……おい、大丈夫か?」
おれは心配になって、個室のドアに向って声をかけた。
苦しそうな息遣いの中、フジは切れ切れに返事を寄こす。
「ああ……ギターを部室に……」
それ以上は言葉にならない。
おれは声をかけるのをやめ、フジのギターを左肩に担いで、洗面台の前で奴を待った。
背中でもさすってやりたかったが、フジはそれを望んではいない。かといって、フジの言う通りにそのまま立ち去ってしまうというのも薄情な気がした。だからその場で、ただ黙って突っ立っていた。
外の廊下を人が行き交う気配がする。だが不思議と誰も入って来ない。割と人通りの多い廊下だが、フジが個室に籠っている間、誰一人として入ってくる者はいなかった。
フジの呼吸が次第に穏やかになり、ペーパーを巻き取る音が聞こえる。何度か唾を吐き、しばらくするとトイレの水を流して出て来た。まだおれがトイレにいるのに気付くと、少し驚いたような顔をする。
「何だよ、ずっといたのか? 部室行っといてくれたらよかったのに」
洗面台の蛇口をひねり、二、三回うがいをして手と顔を洗った。ジーンズのヒップポケットからバンダナを取り出して顔を拭う。
「大丈夫かよ」
おれは鏡の中のフジの顔を見た。トイレに入って来た時と比べて、少し顔に赤みが差しているように見える。だが、まだ好調といえるような顔色ではない。
「心配かけたな。最近よくあるんだ。もう慣れた。吐き慣れだ」
フジはそう言って、鏡の中のおれに向って笑った。いつものフジの笑顔だ。
「ギター持って、部室に行くトコだったんだろ?」
「ああ、そうだよ」
お互いに、鏡の中の相手に向って話しかけていた。
「その前に、学食付き合えよ」
「さっき行ってきたトコだよ」
「出したろ、今、全部」
おれが個室のほうに頭を倒しながら言うと、フジはニヤリと笑った。
「まあな……でも、昼飯代を二回出すのも馬鹿らしい。おまえ持ちなら行くよ」
二人で学食に行き、おれは味噌ラーメンを選んだ。A定食を選んだフジは、おれに何やら言いたげな顔だ。
「何だよ」
「マサだろ」
フジはおれのトレイの上に乗った味噌ラーメンのどんぶりを見て意味ありげに笑っている。
「知ってたか、おまえも。うまいんだって?」
「初めて食うのか?」
おれは頷いた。フジはもっともらしい顔で頷いた。
「その辺のラーメン屋は逃げ出すぜ」
空いたテーブルを見つけて二人で座る。割り箸を割って、早速ひと口啜ってみた。期待以上の味に、思わず笑い出しそうになる。おれが食うのを興味深そうに見ていたフジが言った。
「どうだ?」
「うまい。何でだ? 学食のラーメンがこんなにうまいって聞いた事あるか?」
「キャンパスの奇跡だ」
おれは麺を吹き冷ますのもそこそこに食べ続けた。
「普通のラーメンは? 醤油ラーメンもうまいのか?」
食べながら質問すると、フジは険しい表情で首を振る。
「その辺のラーメン屋が怒り出すほどまずい。なぜか味噌ラーメンだけがうまいんだ」
「おかしな話だな」
「キャンパスの謎だ」
「謎といえば……なぜ吐くんだ?」
おれは本題を切り出した。
「なんだ?」
フジは定食の飯をかき込みながらしらばっくれる。
「さっき吐いてたろ、トイレで。慣れるほど吐いてる、って」
「ああ……まあ、心配ないよ」
おれに負けず劣らずの勢いで、フジも食べ続けている。ついさっき、顔面蒼白でトイレに駆け込んだ男とは、とても思えない食欲だ。
「医者に行けよ」
「行ったさ」
意外な返答だった。基本的にフジは滅多に医者に行くような男ではない。さすがのフジも、只事ではないと感じたらしい。
「ほう……で、医者は何て言ってる」
「それは……言わなきゃダメか」
フジはそう言いながら、テーブルの端に置いてある醤油さしを手に取ると、皿の上の焼き鮭に少しかけた。困ったような顔で、少し上目遣いにおれを見る。悪戯を咎められた少年のようなフジの表情に、おれは思わず笑ってしまった。
「言いたくないのかよ」
「うーん……まあ、そんなこともねえよ……」
おれは黙って味噌ラーメンを啜りながら、フジの言葉を待つ。
味噌ラーメンを三回啜り終えた頃に、フジが静かに言った。
「……医者から、カウンセラー的なものを紹介された」
思ってもみない返答だった。
「……的なもの?」
「心療内科ってやつさ」
おれはフジを見た。フジはごはん茶碗を口から離すと、軽く肩をすくめた。
「体そのものが悪いわけじゃねえってさ。それがわかったから、医者に行くのはやめた」
「メシの後は、いつも吐くのか?」
おれはあらかた食べ終えた味噌ラーメンのどんぶりを脇にどけた。
「いつもって訳じゃない。まあ、たまにさ」
フジの心に、吐くほどのダメージを与えた出来事。そいつは、聞かなくても分かっていた。穏やかに微笑むフジの表情は、笑みと呼ぶのが憚られるほど、どこか寂し気な微笑だった。
「続けられるのかよ」
おれがそう言うと、フジはもう一度肩をすくめる。
「平気さ。今までも平気だった。なら、これからも平気だ」
「今までとは違うだろ。おまえの隣では、リョウがギター弾いてる」
フジが定食を食べ終わり、トレイを脇に押しやりながらおれを見た。
「ふむ……知ってたのか」
「この前のライブの時、見かけたんだ」
「やっぱり来てたか、トモ……」
「気が付かなかったか?」
フジはニヤリとしながら、自分の目を指差した。
「見えなかった。コンタクトレンズをしなかったんだ。絶対リョウを観に来ると思ってさ。夏前のライブの時、コンタクトを忘れたポタ夫にヒントを得た」
「あきれたな」
おれたちは顔を見合わせて笑った。
「なあフジ……」
おれは真顔に戻って、フジに語りかけた。真剣な空気を察したフジが、それでも剽げたような表情を作り、おれに言葉の先を促すように眉をあげる。
おれは続けた。
「……おまえが辛かったら、解散したっていいんだぞ」
本気だった。バンドが今後も存在するのなら、フジは絶対に続けようとするだろう。バンドが跡形もなくなれば、フジはリョウと顔を合わせなくて済む。
「耐えられなければ抜けてるよ」
フジは静かに言った。湯飲みでお茶をひと口飲む。目顔で薬缶のお茶をおれにも勧めた。おれは首を振る。
「タカの気遣いはありがたいけどな……おれにとっては、バンドが無くなる方が耐え難い。リョウに対しても、思うところは特に無いしな」
「でも、愉快ではないよな?」
「そりゃあな。でも、逆じゃなくてよかったな、って思うよ」
今度はおれが眉を上げる。
「逆?」
「おれとリョウの立場が逆じゃなくてよかったって言ってるんだよ。リョウがおれの立場だったら、きっと吐くくらいじゃ済まねえぞ。このおれ様だからこのくらいで済んでんだ」
フジは自分の軽口に、声をたてて笑った。おれは少し安心する。
「じゃあ、二人に対しては特に……」
「何も無い。全く何も無いよ。明鏡止水、っての?」
「……そうか」
おれの心はまた沈み込む。安心も、つかの間だった。
「ああ、うまかった……」
フジは軽く伸びをした。
「……こんなにうまいメシを食ったのは久し振りだよ。タカのおかげだ。ありがとうな」
「そんな事はないよ。メシ代を払ったくらいさ」
おれがそう言うと、フジはニヤリと笑った。
「それがでかいじゃないか……人の金でメシ食うのは気分がいい……」
「吐かずに飯が食えるようになったら、今度はおまえにおごらせてやるよ」
フジに調子を合わせて、おれも冗談で応じた。
しかし、フジのひと言がおれの心に重くのしかかっていた。
リョウとトモちゃんに対して、フジは「全く何も無い」と言った。
おれの心にそこが引っ掛かった。恨み言の一つでも聞いた方がまだよかった。
無関心というのは、嫌うよりも、根深く、冷たく、暗い感情の表れのように思えてならなかった。
普段は明るいフジの、心の裏側。
どこまでも続く、底なしの闇のような自分の心の中に、フジは今、ひとりで閉じこもっているのだ。
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