嵐のあと

 演奏を終えて楽屋に戻ると、パキさんが救急箱を持って待ち構えていた。楽屋の入り口に置いたパイプ椅子にパキさんと向かい合って座らされ、額の傷の手当てをされる。

 手荒に消毒され、ガーゼを貼られた。おれはされるがままになりながらも、周囲に視線を走らせた。カナの姿が見えない。パキさんは咥え煙草のまま傷の手当てを終え、おれの目をジッと覗き込んだ。

「カナを探してるのか」

 おれは頷いた。パキさんが言葉を続ける。

「しかし、向こうっ気が強いな……あいつは。おまえにグラスを投げた奴に、飛び掛ろうとしたんだぜ……」

「カナを止めてくれて助かりました」

「ああ……なに、たまたま近くにいたからな。カナはな、休憩室で休んでる」

「休んでる?」

 椅子から腰を浮かせかけたおれを、パキさんが軽く手で制した。

「大丈夫だ……おまえにグラス投げた奴を捕まえたら、ちょっと事情がな」

「何かあったんですか」

「心配いらん。元気だ。ついて来い」

 パキさんは救急箱を持って立ち上がり、おれを促した。

 廊下の突き当たりにある『STAFF ONLY』と書かれた扉を開けて中に入り、物が所狭しと置いてある細長い通路を奥に進んでいく。通路の突き当たりにあるドアを乱暴にノックすると、ドアに向かって大声で言った。

「タカを連れて来た。傷は大した事ないから心配するな」

 パキさんはおれに救急箱を渡す。

「救急箱、棚に戻しとけ。部長には言っとくから、おまえもしばらく休んでろ」

 背中越しに手を振りながら歩き去るパキさんの後姿を見送り、おれはノックしてドアを開けた。

 畳の匂い。

 小学校の校務員室を思い出させる、六畳ほどの和室になっている。奥を覗き込むと、隅のほう、壁に寄りかかって、カナが座っていた。

「よう……」

 おれが声をかけても、カナは何も言わずに、大きな目でおれをじっと見つめている。目の周りが、心なしか少し赤くなっているように見えた。

 おれは靴を脱ぎながら扉を閉めて中に入る。棚を見回すと、空きスペースがあった。そこに救急箱を置き、カナの前にあぐらをかいて座った。

 カナはようやく口を開いた。

「よう、じゃないよ……いっぱい血が出てたんだよ……」

 怒ったようにそう言うと、堰を切ったように、カナの目から大粒の涙がこぼれ落ちる。

 おれは手を伸ばし、親指でカナの頬の涙をそっと拭いた。

「泣くなよカナ……おまえが泣くことないだろ……」

「だって、あたしのせいだもん……」

 カナのせい?

「どうした? 何があった?」

 カナは涙を拭きながら、小さな声で話し始めた。

「……あたし、見たの……グラス投げた奴。捕まえようとしたけど、パキさんに止められた」

「見えてたよ……もう少しで名前呼ぶトコだった。パキさんが近くにいてくれて助かった」

 カナはこくりと頷き、先を続けた。

「そいつは……ボンさんたちが捕まえてくれた。よく、ムスタングを観に来てくれてた男の子。あんたを狙ったんだって……ちょっと前に、あたしとあんたが一緒に手つないで歩いてるの見かけて、腹が立ったって……他の連中が物投げてるの見て、便乗してやったって……」

 最後のほうは涙声だった。長いまつ毛を濡らして、おれをじっと見つめるカナの真剣な顔が間近にあった。

「なるほど……わかった。じゃあ、やっぱりおまえのせいじゃない。悪いの、そいつじゃないか。それにそいつの気持ち、おれわからなくもないよ……」

「わからなくもない? グラスを投げたんだよ? あんたに……」

「男と手をつないで歩くおまえを見たら、おれだってやりかねない。許してやろう……そいつの心の痛みは、きっとグラスが当たった痛みどころじゃない」

「目にでも当たったら、そんな事言ってる場合じゃなかったんだから……」

 大粒の涙がまたひとつ、カナの頬からこぼれて落ちた。

「気にする事ない。絶対に、おまえのせいなんかじゃない。グラスでケガしたより、そうやっておまえが気に病むことのほうが、おれにとって痛みになる」

 カナの表情は、まだ硬いままだった。おれは少し相好を崩して言った。

「それにしてもだ……」

「……何?」

「おまえにグラスを投げつける女の子がいないってことは、おれのファンはいない訳だな」

 おれの下手な冗談に、カナの顔がようやく少しほころんだ。

「もう泣くな。おまえはやっぱり、笑顔のほうがいい」

 そう言うおれを、はにかんだような表情でおれを見つめていたカナが、ふと思いついたように言った。

「もしあたしにグラスを投げつける女の子がいたらどうする……」

「死ぬより辛い目にあわせてやる……」

 おれは眉間に皺を寄せながら歯を剥いて見せた。

「こわいんだね……」

 カナの表情が、やっと少し和らいだ。おれの額の上に散った前髪に手を伸ばす。パキさんの手当てのあとをそっと触っていた。カナの手の温もりで、ライブと演奏中の騒動で固くなっていた気持ちが、少しずつほぐれていくのを感じる。

 おれは軽くため息をついた。

「よかったよ……おまえにケガがなくて……」

 カナはおれの髪を細い指で優しく梳きながら、黙っておれを見つめている。

「おれのファンが増えたら、おまえも気をつけろよ……」

 カナは穏やかな目で、おれを見つめたまま言った。

「あんたのファンは、あたしだけでいいよ……」

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