舞い降りた天使

 翌日の夜。

 風呂からあがってテレビを見ていると電話が鳴った。

 画面を見る。カナからだ。

「よう。どうした?」

 おれが電話に出る時の決まり文句だ。

『よう。寝てた?』

 ラインの向こうで、カナがおれの口真似をする。

「いや。風呂からあがってテレビ見てた」

 言いながら、おれはテレビのボリュームを絞った。

『風呂上がりなんだ。もう着てる?』

「着てる。でも特別に想像してもいいぞ」

 ラインの向こうで、カナが笑う。

『けっこうでーす』

 二人の笑い声の後、カナの口調が心持ちあらたまる。

『あのさ……』

「ん?」

 カナは珍しく言いよどんだ後、少し声のトーンを落として言った。

『河口湖から戻って、何日か経つよね』

「うん。そうだな……」

『その……それっきり、特に誘ってもらってないんだけど』

 そうか。そう言えばそうだった。

「そうだな……どこか行くか?」

 カナの嬉しそうな様子が伝わってくる。

『うん!』

「そうだ。ウチ来るか?」

 カナ、無言。

「……あれ? 嫌か?」

『ううん、嫌じゃない。でも……』

「でも?」

 少しのの後で、カナは言った。

『二人きりになったら……タカ、へんなことするでしょ?』

「へんなこと? ああ、うん。するよ」

 カナがプッとふき出した。

『そこは否定するトコでしょう?』

 クスクスと楽しそうに笑うカナ。

「なんで? だっておれ、カナが好きだもん。好きなら触れ合っていたいし、触れ合っていれば、キスしたくなるし、キスすれば、それ以上の事もしたくなるだろ?」

 カナ、またもや無言。

「あれ? カナ? もしもーし……」

『ううー……恥ずかしくなったー……』

 消え入りそうなカナの声に、今度はおれがふき出した。

「オーケー。まあ、それはそのうちな。心配しなくても、おれはカナが『いや』って言うような事はしないよ」

『ほんとぉー?』

 わざと疑いの色を含ませたカナの声。

「ほんとさ」

『いやって言ったらしない?』

「しない」

『じゃあさ、ぁ……ぃゃ……とかだったら?』

「おまえな……」

 ラインに笑い声が交錯する。

「よし。そしたら明日学校で行き先を話し合うか?」

『うん。じゃあ考えとくよ。明日までに』

「オーケー。おれも考えておくよ」

『じゃあね。湯冷めしないように。おやすみ』

「ああ、おやすみ」

 電話が切れた。

 カナの電話は、いつもこんな感じだった。用件だけを伝えて、終わる。それはこの先も変わらなさそうだ。

 さて。

 カナのやつ、どこに行きたいって言うかな。おれも色々調べておくか。

 パソコンの電源を立ち上げ、『デートコース』で検索してみる。いくつか見ているうちに携帯にメールが着信した。

 画面を確認する。カナだ。早いな。もう決めたのか?

 カナのメールには短く、こう書いてあった。

『タカんちに行く』



 同じ週の土曜日。

 リハーサルをしながらも、おれの心は落ち着かなかった。

 いよいよ今日、カナがおれの部屋を訪れるのだ。

 今、ムスタング・ドライブも『ガレージハウス』に来ている。彼女たちのリハーサルは、おれたちよりも早く終わる予定だ。

 つまり、それだけカナを待たせてしまう。おれはベースを弾きながら、時折スタジオの壁に掛けられた時計を見上げた。

 リハーサルを終え、マサとフジは飲みに行く相談をしていた。リョウは用事があると、先にバイクで帰っていった。

「じゃあ、また来週な」

 そう言って笑いながら、マサとフジは駅のほうに消えていく。おれは軽く手を振りながら二人を見送り、ポケットから携帯を取り出した。

 カナからのメールが入っている。『例のバーガーショップにいるよ』とあった。『ガレージハウス』からそう遠くない、バーガーの牛肉の匂いが少し気になる、あの店だ。

 おれは走った。左肩に担いだソフトケースが体に当たる。ケースの中には、おれのギターと交換した、カナが使っていたベース。

 ひと足ごとに腰の辺りにリズミカルにぶつかってくる。まるでカナに「急げ、急げ」と尻を叩かれているようだ。

 バーガーショップの正面の信号は、ちょうど赤になった所だった。立ち止まって、乱れた息を整える。通りの向こう側にバーガーショップが見える。歩道に面した壁が全面ガラス張りになっていて、そのガラスに向かうようにカウンター席がいくつかある。

 カウンターの一番端、入り口から一番遠い席に、カナが座っていた。傍らにギターが入ったソフトケースを立て掛け、雑誌か何かを読んでいる。デニムのショートパンツの脚を組んで、黒のバッシュがビートを刻むように小さく揺れている。片方の耳にイヤホンを入れているようだ。

 同年代くらいの若い男が、カナに近付いて何か話しかけていた。カナはイヤホンを外してそいつの方を見ると、少し微笑んで何か言っている。男はカナのそばを離れ、店から出て行った。カナはイヤホンを耳に戻し、また雑誌を読み始める。カウンターの上に置いたカップを手に取り、ストローに口をつけると、カップをカウンターに戻す。

 信号が青になったのも気付かずに、おれはその場に立ち尽くしていた。

 視線はカナに釘付けだ。

 カナの一つ一つの仕草、雑誌のページをめくる指や、ストローをくわえる唇、ビートを刻む爪先、全てが愛らしく、可憐で、魅力的だった。

 後ろから追い抜いていくサラリーマンの肩がぶつかり、おれは我に返った。横断歩道を渡り、バーガーショップに近付いていく。カナは読んでいる音楽雑誌に夢中で、こちらには気付いていなかった。

 おれが横断歩道を渡り切った所で、また信号が変わった。おれは信号待ちの人々と背中合わせになりながら、カナのほうを向いてメールを送る。

『前を見な。驚くほどいい男がいる』

 送信。カウンターの上に置いたカナの携帯の画面が点灯するのが見える。カナはメールを確認すると、メールの文面どおり前を見た。おれと目が合うとニコッとして手招きをする。おれは店に入り、カナのいるカウンターに近付いた。

「悪い。待たせたな」

「いいよ。お疲れ。驚くほどいい男って、どこ?」

「ここ」

「ふむ」

 カナは楽しそうに笑いながら、おれの姿を色々な角度から眺めると、小首を傾げながら言った。

「驚くほどでもないよ。飲む?」

 カナは傍らに置いていたペーパーカップを差し出した。

「何を飲んでるんだ?」

 カナは答えない。おれは肩に担いでいたソフトケースを降ろし、カナの隣に座りながらカップを受け取ってひと口飲む。

 チョコシェイクだ。思わず頬が緩む。カナが楽しそうに笑いながら、おれの顔を覗き込んだ。

「あんた、チョコシェイク飲む時、ほんと幸せそうな顔するよね」

「そうか?」

「うん。『甘くておいしい』って顔する。かわいい」

「かわ……バカな事言ってんじゃないよ。横断歩道の向こう側からずっと見てたの、気付かなかったか?」

 おれはカナにカップを返した。

「ほんと? 全然気付かなかった」

「誰かに話しかけられてたけど、何だったんだ?」

「ん……『一緒にどっか行かない?』って」

 カナはおれからカップを受け取り、ストローをくわえてひと口飲む。

 なるほど。ナンパか。

「ふむ。で、何て答えたんだ?」

 唇にストローをあてたまま、カナがニヤッと笑った。いたずらっぽく輝く、10時10分のアーモンド。

「気になる?」

「そりゃあ気になるさ」

 カナの表情が満面の笑顔へ。

「この正直者めぇ……『待ち合わせしてるから、ゴメンネ』って言ったよ……」

「謝ったのか? 謝る必要なんかないんだよ……」

 おれはカナから視線を逸らして、カウンター前のガラスの向こうを眺めた。

 おれの横顔を、カナが愉快そうに覗き込む。

「あれ? やいてるの? タカ」

「別に」

「やいてるんでしょ、タカちゃ~ん」

 おれの肩の辺りを、人差し指で軽くつついた。

 おれは前を向いたまま答える。

「まあな」

 カナは嬉しそうに笑うと、おれの耳元に口を近付けた。

「ウソだよ……そんなふうに言ってない……」

「じゃあ本当は何て言ったんだ?」

 カナの声がよく聞こえるように、おれはカナのほうに軽く体を寄せる。

 カナは小声で囁くように言った。

「謝ったりなんかしてないよ……『彼氏と待ち合わせなの』って言った……」

「ん?」

「彼氏と待ち合わせなの、って」

「何と?」

「かれ……聞こえてるんでしょ!?」

「聞こえてる」

 おれが堪えきれずにふき出すと、カナはおれの腕を、拳で軽く殴った。

「もう! 正直なんだかウソつきなんだか……」

 チョコシェイクを飲みながら、頬をほんの少し赤く染めるカナ。

「悪い悪い……それ飲んだら出ようぜ。夕食おごるから……」

 カナは軽くストローをくわえたまま、おれを見た。

「ねえ……タカんち、キッチンはちゃん使えるの?」

「ああ、ほとんど使ってないけどな」

「調理器具とか、食器はある? ジャーは?」

「一応、ひと通りは」

 カナは頷き、カウンターの上にカップを置いた。

「じゃあ、あたしが作る。晩ごはん」

「えっ、いいの?」

 河口湖で食べたカレーで、カナの作る料理が美味しいのは分かっていたので、おれは嬉しくなった。

「もちろん。そのかわり、何曲か歌ってもらおうかな」

 おれは右手を胸にあて、軽く頭を下げた。

「歌う? お安い御用で……」

 おれがそう言うのを聞くと、カナは意地悪そうな顔をして笑った。

「言ったな……声なんか出なくなるまで歌わせてやるんだから……」



 おれのワンルームの狭いキッチンで、カナが手早く作ってくれた豚のしょうが焼きはとても美味しかった。

 食べながら、おれは向かいに座るカナに言う。

「カナ、おまえ、料理人になれるよ」

 茶碗と箸を持って、頷くカナ。

「なるつもりだよ」

「え、ほんと?」

「家庭料理人ね」

「なるほど。つまりそいつは、おれたちの家庭だな」

 おれはニヤリと笑って言ってみた。

「さあ、どうだかね~」

 カナもニヤリと笑い返す。

 ニッコリと、屈託なく笑うカナも好きだが、睨んだような目付きのままニヤリと笑うカナの笑顔も悪くない。生意気盛りの子供が、何か企んでいる時の表情だ。

 カナはいくつもの笑顔を持っている。もっとたくさん、カナの笑顔を引き出したい。ずっと、おれのそばで笑っていてほしい。

「ごちそうさま。うまかった」

 おれはカナに向かって両手を合わせた。

「おそまつさま」

 二人でキッチンに並んで後片付けをした。ボリュームを絞ったCDプレーヤーからは、ルー・リードが流れている。

「いいよ、あたしやるから」

 カナは腰をひねって、お尻をプリッと振るようにしておれにぶつけてきた。

「おまえこそ座ってろよ。後片付けくらいやらせろって」

「後片付けまでが、家庭料理人の仕事なのっ」

 カナがスポンジで食器を洗い、おれはその食器を無理矢理奪い取って、洗剤の泡を水で流して水切りに置く。そうしながら、しばらく二人で今日のリハーサルの話をしていた。互いのバンドの話が一段落すると、突然カナが思い出したように言った。

「フジもトモちゃんと二人で、お皿洗ったりするのかな……」

 そうか。カナはまだ知らないんだ。おれはカナに言っていなかった。フジとトモちゃんが別れたことを。

 おれは重い口を開いた。

「あのな、カナ。その……フジとトモちゃん、別れたんだって……」

「え……」

 カナの、皿を洗う手が止まった。おれは黙って頷く。

「いつ……」

「さあ……聞いたのは、この間の水曜、フジから」

「そう……フジ、平気なの?」

「どうかな……でも、ギターは弾けてるよ。いつも通り、いや、いつもよりも……かな。あいつにとって、音楽は興奮剤であると同時に、鎮静剤でもあるんだな……まるでギター弾く事で傷を癒すみたいな感じだったよ……」

「何だか、あいつらしいね……」

 カナは泡だらけの皿をおれに渡す。

 おれは空気を変えようと、つとめて明るく振る舞った。

「癒しで思い出した。シャンプーのラックに入浴剤があるから使いな。カナが来るから、いい匂いのヤツを買っといたんだ」

 おれの気持ちを察してか、カナも笑顔を見せる。

「あはは、気を遣わなくていいのに」

「カナ、先に入れよ……タオルと寝間着も用意しといたから」

「先いいの……」

「いいよ」



 食器を洗い終え、カナが先に風呂に入っていた。しばらくするとお湯の音が消え、浴室のドアを開ける音。何やら物音がしていたが、やがて楽しげに笑う声が聞こえてくる。

「タカ……おっきいよ、これ……」

 脱衣所の扉を開けて、おれのTシャツを着たカナが出て来た。胸にはラモーンズのロゴ。下はグレーのスウェットパンツ。上下とも、丈がかなり長い。パンツは脛のあたりで幾重にもたわんでいる。

「Tシャツはともかく、パンツは買わないとな……」

「次に来る時、あたし自分の部屋着持って来るよ……」

「アイスティーでいいか?」

 冷蔵庫を開けながら訊くおれに、カナは頷いた。ペットボトルを手渡してやる。

「ありがと。タカもお風呂行く?」

「うん」

 カナが意地悪そうに笑った。

「寝てたらごめんね」

「寝てたら襲うからな」

「きゃー、へんたーい」

 クスクスと楽しそうに笑っていた。



 カナはちゃんと入浴剤を使ったようだ。ピンク色になったお湯が、とてもよい香りを漂わせていた。

 風呂からあがると、カナはベッドの端にちょこんと座って、ギターを弾いていた。スタンドに立ててあったおれの安物のアコースティックギターを、近所迷惑にならないように、そっと小さな音で弾いている。

 おれは濡れた髪をタオルで拭きながら、カナの隣に腰掛けた。

 カナが顔を上げる。

「あんた、すごくいい匂いする」

「おまえも同じ匂いしてる。何か弾いてくれよ」

 カナは聞き慣れたイントロを弾き始めた。おれたち、ノー・ブレーキのいつもの一曲目、『Real Wild Child』だ。

「いつの間に覚えたんだ?」

 おれがそう訊ねると、カナはニッコリと笑った。

「タカ、歌ってよ」

 イントロが終わり、おれは歌を口ずさみながら、カナがこの曲を弾ける事に驚いていた。曲自体はスリーコードの、どちらかと言えば簡単な曲なので、弾けても不思議ではない。

 だが、不思議と弾き慣れている感じなのだ。今日からノー・ブレーキでギターを弾き始めたとしても、不自然ではないだろう。

 ツー・コーラス終わると、曲を変えてきた。今度はムスタング・ドライブのレパートリーだ。おれがそいつをツー・コーラス歌うと、今度はまたノー・ブレーキでよく演奏する曲。これも自分のものになっている。弾き終わると、カナはひと息ついてアイスレモンティーを飲んだ。

「おれのつたないボーカルには、ご満足いただいてるかな?」

「うん、いいね。でもちょっと声小さくない?」

「あまりでかい声で歌うと、ご近所がびっくりするからな……もうちょっと近くで歌うか……」

 おれはカナの後ろに座って、胸をカナの背中に付けるようにした。カナの顔の左側から、ギターを持つ手元を覗き込む。

「どうだ? 聞こえる?」

「うん、ちょうどいいよ」

 カナは次の曲を弾く。おれは内心驚きながら聴き入っていた。

 ジミ・ヘンドリックスの『エンジェル』だ。

 この曲は、おれたちもカナたちも、バンドで演奏した事がない。カナは一人で練習していたらしい。

 いい選曲だ。カナの好きな曲なのだろう。そして、おれの好みの曲でもあった。

「昨日、楽園から天使が舞い降りた」か。

 カナ、おまえはおれの天使だ。

 おれは小声で歌いながらカナの腰に腕を回した。天使が飛び去ってしまわないように、そっとつかまえる。耳元に唇を近付けると、カナは少し首をすくめた。

「タカ……だめだってば……耳元で……」

 ギターの弦を押さえる指先が、少しもつれた。

「どうした? 演奏、止まりそうだぞ?」

 おれは左手を、ネックを支えるカナの左手の上にそっと重ねた。

「ずるいよ……あんたの声……甘いんだから……」

 カナは続きを弾こうとするが、音は出てこない。

「おれの声が出なくなるまで、歌わせるんじゃなかったのか?」

「そう……だよ……」

 風呂上がりで艶めき、ほんのりと朱に染まった横顔。おれはカナの頬にキスをした。小鳥が果実をついばむように、頬から耳、首筋へと唇を動かしていった。

「タカ……」

 目を閉じて俯いていたカナが、小さな声で囁くように言った。

「なんだ……?」

「電気消して……」

 おれはカナが弾いていたギターをスタンドに置きながら部屋の灯りを消した。

 カナの隣に座り、唇にキスをした。カナが愛しいという気持ちをキスで表すように、深く、何度も。抱きしめたカナの体が、熱く火照ってくるのがわかる。

 右手でカナの頭を支えながら、胸でそっとカナの体を押して、ベッドの上に横たえた。風呂上がりの芳香と、カナ自身の香りに包まれて、おれの体から力が抜け、柔らかくとろけていく。か細い体に覆いかぶさるようにして、カナの目を間近に見た。いつものカナの目に、見慣れない、濡れたような輝きが宿る。そして、ほんの少しだけ不安の色も。

「タカ……あたし……」

「いいよ、何も言わなくて……」

「……やさしくして……」

「もちろん……」

 カナは目を閉じた。

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