ハートブレイカー
河口湖での合宿が終わってまもなく、おれたちは忙しくなった。
九月末のライブまで、残り約一ヶ月。
忙しくなってはいたが、慌てている訳ではない。リョウが加入し、バンドはますますパワフルになった。何も焦る事はない。演奏も日に日に良くなってきている。準備は完璧だった。
いつもの水曜日のリハーサル。『ガレージハウス』の前でリョウとマサにばったり出会い、三人で連れ立って受付に向かった。
受付で、スタッフのボンさんがおれたちの姿を見てニヤリと笑った。
「おう、おまえらか。十五分くらい前にフジが来て、受付済ませて入ってったぜ」
おれたち三人は顔を見合わせた。フジがこんなに早いのは、ここ最近では珍しい。
狭いスタジオの分厚い扉を開けると、フジが一人でギターを弾いていた。
顔を上げると、フジはニヤリと笑ってみせた。
「遅いぜ」
マサが扉を後ろ手に閉めながら言った。
「おれらは時間通りだよ。おまえがいつになく早いんだ。どうしたんだ? 今日は」
マサの言葉は、おれたち三人の気持ちを代弁した、率直な疑問の言葉だった。
「最近、急に暇になっちまったもんでね」
「暇? 何で?」
「別れた……トモと」
「え……嘘だろ……」
おれたちはそう言ったきり、黙り込んだ。準備をしていた手も止まり、脳細胞の活動さえも止まってしまったようだった。
かける言葉も見つからないおれたちに、フジは訥々と話し始めた。
「別れた……というか、おれが捨てられたって感じだ。一方的に『別れよう』って言われて、話し合う余地もないんだ」
「理由もわからないのか」
マサがようやく口を開く。フジが頷いた。
「そうなんだ……『男の子と付き合うよりも、やりたい事がある』とか『フジくんの事好きだけど、前ほどじゃなくなった』とか、話に一貫性がないんだよな……」
フジはかなり参っているように見えた。頬は若干こけ、顔色もよくない。
だが、手は動いている。フジお得意のルーズなブルースフレーズを爪弾きながら、アンプのレベルを調節し、軽くチューニングを合わせる。
おそらく無意識なのだろう。芯から染み込んだギタリストとしての本能が、フジの体を動かしているのだ。
「フジ、やれるのか」
おれがそう言うと、フジは当然というように頷いた。
「もちろんさ。やらなきゃしょうがないだろう。いつものから行こう」
おれはカウントした。一曲目はいつも同じ。『Real Wild Child』。フジのギターはいつもと変わらない。いや、逆にいつもよりいいくらいだ。
おれはフジに、昔のブルースマンの面影を重ねた。
彼らは、後世に数々の音楽的遺産ともいうべき秀逸な曲、素晴らしい演奏を残してくれた。
だがその業績とは裏腹に、彼らの多くは私生活では恵まれなかったという。
幾つもの名曲を残した者が、家族に見捨てられ、恋人に逃げられ、最終的には一人で寂しく、誰に看取られる事もなく人生を終えていったというのは、ブルースの世界では珍しい話ではない。
フジは顔色こそ悪いものの、いつものようにストラップを低くセットし、腰を屈めて弾いている。基本的に裏にアクセントを置くブギーなカッティング。リョウと絡みながら、ラフでありながらも、エッジの効いたタイトなサウンドを創りあげていく。
どんなに心を痛める出来事があったとしても、呼吸するのを忘れる奴はいない。フジにとって、ギターを弾くというのは、呼吸する事と同じなのかもしれない。そして、フジは心を痛めているからこそ、ここにギターを弾きに来たのだろう。
演奏を終え、フジは深く大きく息をついた。
「ふん……案外弾けてるじゃねえか……どうだった? タカ」
「え? あ、ああ。バッチリだ」
おれが慌てて答えると、フジが眉をスッと上げた。
「どうしたタカ。今の演奏を聴いての通り、おれは大丈夫だ。おまえがそんな顔するこたあない」
「なあフジ……」
リョウがフジに向かって何か言いかける。リョウの顔を見たフジは乾いた笑い声をあげた。
「なんだよ、どいつもこいつも……おれたち何だ? 仲良しサークルか? 違うだろ。さあ、やろうぜ」
フジの言葉に、マサが力強く頷いた。
「やる。もちろんやる。おれたち、これしか楽しみがねえもんな。やろう。いこうぜ、フジ」
まるでブルースマンのように、フジは日々の平穏と引き換えに、最高のプレイを手に入れている。
だがおれには、そのプレイに何の意味も見出せない。日々を犠牲にして手に入れる最高の音楽など、おれたちには必要ない。
しかし、今のフジを癒せるもの、それは間違いなく、音楽しかないのだ。
音楽というのは不思議なものだ。聴く連中も弾く連中も、時には心をかきたてられ、そして時には癒される事もある。
「タカ、カウントだ」
フジがおれを促した。
もう迷わない。おれはカウントする。フジを癒す事が出来るのは、音楽だけ。
つまり、フジを癒すのは、このおれたちだ。
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