充実のその先

 翌日は午前中からスタジオに入った。

 おれたちのスタジオには、トモちゃんも一緒だった。

 いつもの曲をひと通り演奏し、まだ演奏し慣れていない曲は繰り返し練習した。

 トモちゃんはノー・ブレーキのファンというだけあって、ほぼ全ての曲をリョウのボーカルに合わせて口ずさんでいた。

 練習にひと区切りつけ、少し休憩だ。トモちゃんがコーヒーを淹れてくれるというので、おれとマサはキッチンに向った。フジとリョウは、二人でギターソロのかけ合いを練習している。

 フジとリョウは本当に呼吸が合う。グリマー・ツインズ、とまで言ったら言い過ぎかも知れないが。でも、ウマが合うというのだろうか。ロックの神様に惹き逢わされた野生の子供ワイルド・チャイルドだ。

 隣のスタジオの前を通る時、カナたちの演奏が小さく漏れ聞こえてきた。マサが一瞬立ち止まり、僅かな音に耳を傾ける。

「いい演奏するねえ……相変わらず」

 マサはそう言いながら、スタジオから持ち出してきたスティックを、指でくるくると回していた。

 おれは扉の丸窓から、カナの姿をちらりと見る。こちらに横顔を向け、スタンドマイクに向かって歌っている。

 聞こえてくる音と、見える姿から判断すると、カナの演奏に特に変わった所はないようだ。

 おれは安堵した。

 カナの演奏の魅力は、キュートな見た目とは裏腹に、ラフでワイルドな部分があるという所だ。

 昨夜のカナの優しいまなざし、甘い笑顔を見ていたおれは、カナの演奏からカナらしい荒々しさが損なわれていやしないかと不安だったのだ。

 だが、どうやらその心配はないようだ。カナは変わらず、いつものカナだった。

 ダイニングスペースのテーブルにつくと、マサは言った。

「三時頃からオフにするか……せっかくのいい天気だし。おれはまだまともに外に出てないぜ……」

 ぼやきながら、マサはスティックで自分の脚を軽く叩いている。

「そうだったな……行こうぜマサ。いい所だよ、ここは……」

「行こうぜ……って、おれを誘ってどうすんだよ。カナと行ってこいカナと……」

「なんだよ、冷てえな……」

 おれたちのやりとりを聞いていたトモちゃんが、お湯を沸かしながら笑った。

「なんか……普通逆じゃない? マサさんがタカさんと一緒に行けなくて、冷たいっていうなら分かるけど……」

 キッチンカウンターの向こうで、楽しそうに笑っている。

「ああ……そういえばそうだな……」

 おれもつられて笑った。

「おれはリョウと行ってくるから、タカはカナと行ってこいよ」

「ちぇっ」

「タカさん振られた~」

 トモちゃんがおれをからかった。トモちゃんとマサは、おれを見ながら冷やかすような笑みを浮かべている。うっすらと笑みを残したまま、トモちゃんは言った。

「いつもフジくん、二人の話してるよ。マサのドラム、タカのベースがあるから、おれはギターが弾ける。メンバーがあいつらじゃなかったら、おれはバンドを続けていたか分からない、って」

 トモちゃんは手首に着けていたシュシュで髪を手早くまとめ、フィルターペーパーの中に挽いた豆を入れる。

 マサが脚を叩くのを止め、テーブルの上にスティックを置いた。

「フジが……そんな事を……」

 おれとマサは顔を見合わせる。マサは嬉しいような、くすぐったいような、複雑な表情。たぶん今、おれもマサと同じような表情をしているのだろう。

「あ、フジくんには今の話、内緒ね……」

 トモちゃんは人差し指を口に当て、片目をつむってみせた。

 お湯が沸いた。トモちゃんが火を止め、挽いた豆にお湯を注ぐ。

「いつもライブを見てて思うの……他のバンドと比べて、ノー・ブレーキって不思議な存在なんだよね。音楽だけじゃない気がする……みんなが一緒にいるのって……」

 コーヒーのよい香りが辺りに漂った。トモちゃんが少しずつ少しずつ、フィルターペーパーの中にお湯を注いでいく。

 おれは、フジやマサと出会ってからの事を思い出してみた。

「そうだな……そうかもしれないな……」

 確かに、おれたちは音楽だけをやっていた訳じゃない。

 純粋に『音楽』だけをやるためにバンドにやって来た『四人目』が、めまぐるしく入れ替わってきたのも、その辺に理由があるのだろう。

 そうだ。バンドである以前に、おれたちは……

「それにしてもトモちゃん……たくさんあるねえ……」

 マサが、トモちゃんが用意したカップの数をかぞえながら言った。

「うん……喫茶店みたいでしょ……」

 全員分のカップをトレイに用意し、一滴ずつ落ちるコーヒーを、優しい表情で見つめている。しばらく待つと、出来上がったコーヒーを、先に三つのカップに注いでいく。

 おれは気が付いた。

「あれ、八つ……トモちゃん、フジはコーヒー飲まないぜ……」

 トモちゃんはニッコリと笑って首を振る。

「最近はね、甘~いカフェオレにしてあげると飲むんだよ……」

 マサが目を丸くした。

「へぇ……」

「私がコーヒー好きだから、フジくんも飲めるようにしちゃったの……ホットミルクに、少しずつコーヒー増やしていって……」

 トモちゃんは、おれとマサの前に、コーヒーの入ったカップを置いてくれる。

「……はい、お待たせしました。ご注文は以上でお揃いですか……なんてね」

 肩をすくめてかわいらしく笑い、トモちゃんはカップを載せたトレイとコーヒーポットを持ってキッチンを出て行った。

 マサがもう一度、感嘆の声をあげた。

「へえ……フジがコーヒーをねえ……」

 トモちゃんの後姿を見送りながらコーヒーをひと口飲むと、マサがおれを見て言った。

「うまい」

 おれもひと口飲んでみる。確かにうまいコーヒーだ。

「ん……ほんとだ。豆がいいのか?」

「いや、愛の力だ」

 おれは思わずふき出した。

「よく言うよ、真顔で」

「でも実際、いいコじゃないか。綺麗な子だから、もっとツンツンしてるかと思ったけど、感じのいい子だ。よく気が利くし……」

「ああ……そうだな」

 確かにそう思う。それに、コーヒーを淹れるのも上手だ。

 考えるおれの顔を覗き込みながら、マサは意地悪そうに笑った。

「まあ、今のおまえには言ってもわからんだろうがな。トモちゃんよりカナちゃんなんだから」



 その日は、おれとカナが夕食当番になった。ノー・ブレーキの連中はおれを散々冷やかしながら、湖畔へと散歩に出かけていった。

 おれたちは一日中、足元がふらつくほどスタジオ練習をこなしていた。フジの両手はほとんど感覚を失い、水を飲もうとグラスを持つと、肘から先が小刻みに震えてくるほどだった。

 みんなを送り出した後でキッチンに入ると、カナは腰に手をあてて言った。

「たくさん食べて、パワーつけないとね」

 真剣な顔で冷蔵庫を覗き、何やら頷きながら扉を閉め、今度はスーパーの袋に頭を突っ込まんばかりに、中をひっかき回している。

「落っこちるなよ」

 おれが声をかけると、カナは不思議そうな顔をしてこちらを見る。

「どこに?」

「スーパーの袋の中に」

 カナはふき出した。

「そこまでちっちゃくないよ」

 そう言いながらおれの脛に軽くケリを入れ、調理用具をキッチンに並べ始める。

 おれは訊ねてみた。

「メニューは決めたのか? 料理長」

 カナは得意げにニッと笑う。

「フジが期待してるみたいだから、カレーにする」



 カナのカレーは、「今まで食べたものの中で、一番うまかった」と言ってもいいくらいの味だった。市販のルーを使ったものとは、とても思えないほどだった。おれの贔屓目もあるかと思ったが、他のみんなの口にも合うようだ。

「うまい」

 おれたちは声を揃えた。

 しーちゃんがカナを見ながら羨ましそうに言う。

「カナは料理上手なのよね……ほんとおいしい」

 マキとトモちゃんも感心しながら食べている。

「ありがと。みんなたくさん食べてね」

 初めて食べるカナの手料理だ。早くおかわりしてたくさん食べたいのはやまやまだが、ゆっくりと、よく味わって食べないともったいない気もした。

 そんなおれの葛藤を尻目に、フジが空になった皿を持ってキッチンに向かう。

 リョウが笑った。

「早いなフジ。おれらの分も残しといてくれよ」

「わかってるよ。全部食ったら、タカに怒られる……」

 冷やかされた。よし、お返しだ。

「トモちゃんのコーヒーもうまかったぜ」

 リョウが頷きながらおれに同意する。

「うん。うまかった。休憩時間には、今度はおれがコーヒー淹れるよ。トモちゃん、フジ用のカフェオレの作り方教えてくれよ……」

「ああリョウ、それは無理だ。マサが言うには、フジがコーヒー飲めるようになったのは、トモちゃんの愛が入ってるかららしいぜ……」

 おれの言葉に、リョウがニヤリと笑った。

「なるほどね……」

 トモちゃんは少し照れたような表情で、フジを見ながら笑っている。

「トモちゃん、おれが作るのじゃ、フジには飲めないかな……」

 リョウがトモちゃんに言った。

「いや、簡単な話さ……」

 マサが口を挟む。

「……リョウの愛を、たっぷり入れてやりゃあいい」

 フジが派手に咳き込んだ。



 夜の練習を終え、みんなが寝静まった午前二時。

 おれは喉の渇きで目が覚めた。

 隣のベッドではマサが眠っている。

 冷蔵庫を開けて何か飲み物でも探してみようとキッチンに行くと、暗いリビングの中、ソファーに誰かが座っていた。

「リョウ……か……?」

 おれが声をかけると、リョウは驚いて振り返った。

「タカ……どうしたの……」

「おまえこそどうしたんだよ……寝ないのか」

 周りが暗いと、なぜか話し声が小さくなる。寝室までは結構離れているから、普通の声で話しても平気なはずなのに。おれは冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターのミニボトルを取り出した。

「ああ……なんか寝付けなくてさ……」

 リョウは右手で髪を乱暴にかきむしった。

「フジのイビキがうるさいか?」

 おれはリョウの正面のソファーに座りながら言った。リョウは微笑を浮かべながらゆっくりと首を振る。

「いや……フジは静かなもんさ。ぐっすり寝てるよ」

「おまえも飲むか?」

 リョウにボトルを持ち上げて見せた。リョウは首を振る。おれは封を切って、一気に半分ほど飲んだ。ボトルのラベルを見ると、『富士の麓の天然水』と書いてある。河口湖のこの辺りなら、水道の水を飲んでもあまり変わらないのではないかという気がした。

「なあ、タカ……この間、マサが言った事、覚えてるか?」

 リョウが突然言い出した。

「マサが言った事……?」

 首を傾げるおれに、リョウが続ける。

「バーガー屋でさ、おれのギターは人を傷つけかねない、って……」

 おれは記憶の糸を手繰った。そう、そういえばそんな話をした。

「ああ……うん。覚えてるよ」

「……おれ、ライブでタカたちの演奏を観る前、いくつかのバンドで演奏させてもらったんだ」

 おれは頷いた。

「ふむ……その話も覚えてるよ……オーディションみたいなもんだよな……」

 リョウは小さく頷き、先を続けた。

「あんたらと初めてリハをやった時みたいに、軽く合わせるんだ……そういう時いつも、そのバンドのギタリストは、おれの演奏聴くと何ともいえない顔をする……」

 リョウは軽くため息をつく。

 おれには、そいつらの表情の理由が何となく理解できた。

「リョウはギター上手いからな……そいつらは、おまえにギタリストのポジションを奪われるって警戒する訳か」

 リョウは左手で額を押さえて俯いた。

「せっかく弾けるようになったのに、おれのギターで他人にあんな表情させてるんだと思うと、やりきれない気分になったよ。マサが言うように、確かにおれはギターで人を傷付けてるんだ……」

 おれは俯くリョウを覗き込むようにして言った。

「リョウ、フジの言葉を借りれば、そういう連中は音楽好きっていうよりギター好きな連中なんだよ。ま、あんまり深く考えるな。マサだって他意があって言ったわけじゃないぜ、きっと……」

 リョウは顔を上げ、軽く微笑んだ。

「あんたらは違ったんだ……おれが弾くと、それ聴いて三人とも楽しそうに笑ってくれた……でも、タカは本当に良かったのか?」

「ん? 何が」

 おれはボトルの水をひと口飲んだ。富士の麓の天然水。後で水道水と飲み比べてみよう。

「おれがみんなと初めて演奏した後、タカは『おれがベースやるよ』ってサラッと言った。昨日見たテレビの話でもするみたいに涼しい顔して。でも、本当にそれで良かったのか? タカ、元々はギタリストなのに……」

 おれは眉を上げ、肩をすくめる。

「おまえのギターのほうが良かった。それだけのことさ。それに、おれはギターが弾きたくてバンドにいる訳じゃない。フジと同じさ。ただロックしたいだけなんだ。おまえも何も考えず、ただロックしようぜ」

 リョウは黙って何か考えているようだった。が、やがて小さな声で言った。

「タカ……ありがとう」

「よせって。さあ、もう寝ろよ。おれもこいつを飲み終わったら寝る。寝不足は喉にもよくないからな」

 リョウの顔に笑顔が戻った。

「ああ。おやすみ」

「おやすみ」

 リビングを出て行くリョウの後姿を見送りながら、おれはボトルの水を飲み干した。

 思えば、今までリョウとゆっくり話した事はなかった。

 おれはリョウの事について、まだほとんど何も知らないという事に気が付いた。

 背が高く、二枚目で、癖毛のバイク乗り。ギターが上手く、ロッド・スチュワートみたいな、枯れた声のボーカル。せいぜいこんな所だ。

 おれは、たった今までリョウが座っていたソファーを見つめた。暗いリビングで一人ぽつんと座り、あいつは何を思っていたのだろう。

 容姿や才能に恵まれた人間は、苦労を味わって来なかったという事には決してならない。むしろ、それらが大きな重荷になる事さえあるだろう。

 おれは、リョウがこれまで歩んできた道を思い、ひとり大きくため息をついた。



 翌日は朝食をとってすぐ、スタジオに入った。

 昼食は昨夜のカナのカレーの残りをみんなで食べた。リョウとカナには、喉にいいからとトモちゃんが特別に作ってくれたハーブティーが付いた。

 練習を終えると、昨日と同じように、午後三時からは自由時間とした。

 今日の夕食はフジとトモちゃんが作る事になり、他は全員出かけた。明日の昼には東京に帰るのだ。みんな湖畔での最後の午後を思い思いに過ごしていた。

 おれはカナと散歩に出た。明るい夏の日差しの中、素敵な時間をカナと過ごした。

 フジとトモちゃんが作ってくれた夕食を食べ、最後の夜も変わらずリハーサルだ。

 バンドの出来は最高にいい。自然と笑みがこぼれた。フジも、マサも、リョウも、おれも。

 自信と、期待と、希望に満ち溢れた笑顔。

 夏休みが終われば、おれたちはまた日常に戻る。容赦なく牙をむく現実。そいつに負けそうになりながらも対峙する、いつもの日々に戻るのだ。

 ハードに続いていく毎日も、この日の演奏を思い出せば乗り切れる。今日の演奏は、そんな風に思わせてくれる最高のプレイだ。

 しかし。

 思えばこの日の笑顔がおれたち四人の、大学生活最後の心からの笑顔だった。

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