スモーク・オン・ザ・ウォーター

 湖畔の道を、スーパーに向かって二人で歩いた。

 二人とも言葉少なだった。たまに目が合うと、互いに照れくさそうに微笑んだ。

 ただそれだけで、言葉を交わすよりも多くの気持ちが伝わるような気がした。

 そろそろ目的地のスーパーが見えて来ようかという時、カナがおれの隣を歩きながら言った。

「タカ……もう少しゆっくり歩こうよ」

「ごめん、早かったか?」

 おれは歩くペースを落とし、肩越しにカナの顔を見る。

「ううん、そうじゃないけど……なるべく長く、二人でいたいよ……」

 カナが前を向いたまま言った。岸辺の砂浜を離れてから、左手でおれのシャツの裾をずっと握ったままだ。

「そうだな……」

 おれは胸がほんのりと温かくなるのを感じた。一歩、足を踏み出すごとに、カナを愛しく思う気持ちが増していくかのようだ。

「……なあカナ、今夜、ムスタングはスタジオ入るのか?」

 カナが不思議そうな顔をして、おれを見る。

「う~ん……今日は入るとしても少しだけかな。なんで?」

「抜け出して来いよ。二人で外行こう」

「……うん、いいよ」

 そのまましばらく歩いていると、カナが軽く肩をぶつけてきた。

「おっ……何だよ……」

「ん……嬉しい。誘ってくれて」

「バカ、恥ずかしいよ……」

 おれは照れくさくなって、そっぽを向いた。

「……タカ、大好き」

 カナはいたずらっぽく笑いながら、わざわざ顔を覗き込むようにしておれを見る。

「やめろって」

「やめないよ……今まで言えなかった分、これからはいっぱい言うの……」



 スーパーに着いて買い物を終え、おれたちはコテージに戻った。

 甘い時間は過ぎ去るのも早い。まるでカーニバルの綿菓子のように、あっという間にとろけて無くなってしまう。

 時は誰も待ってくれない。ミック・ジャガーもそう歌っている。

 玄関に近付くと、カナが不安そうにつぶやいた。

「ちょっとのんびりしすぎたかな……」

「大丈夫だよ。マサだって散歩ついでに、って言ってただろ?」

 おれの両手にはスーパーのビニール袋。右手の袋はカナと一緒に持っていた。全部おれが持つつもりだったが、カナが自分も持つと言って聞かなかった。

 玄関の扉を開けながら、カナが遠慮がちに「ただいまあ……」と言う。

 ちょうどフジが玄関前を通りかかったところだった。

「おう、お帰り。ご苦労さん」

「帰ってたのか、フジ」

「ああ、二十分くらい前かな」

 おれは周囲を見回した。

「みんなは?」

「マサとマキはキッチン。夕飯の準備してるよ。おれらはスタジオ」

「練習してるの?」

 カナが言った。

「いや、みんなで遊んでんだ。いつもより機材がいいから舞い上がってんだよ」

「じゃ、あたしも混ざろっと……ありがと、タカ」

 カナはおれに一瞬笑顔を見せ、小走りでスタジオの方に向かった。

「おう……あ、フジ。マサはキッチンだっけ?」

「ああ」

「ちょっとこいつを渡しに行ってくる」

 おれは両手に持った袋を軽く持ち上げた。

「ああ。あと、それを置いたらシャツを着替えろよ」

「シャツ?」

 フジはおれの胸元を指差しながら言った。

「岸辺で抱きしめた時だろ。口紅付いてるぜ」

 ポカンとするおれに、フジはニヤリと笑いかけて続けた。

「おれとトモも、近くを歩いてたんだ」

 おれは自分のシャツを見る。

 胸元に、カナのチェリーピンクのルージュと、うっすらと滲んだ涙の跡。

「……見てたのか?」

「ずいぶん長いこと抱きしめてたからさ、途中で飽きて帰ってきた」

「飽きたっておまえ……飽きるほど見てるんじゃないよ……」

 フジは喉の奥でクックッと笑った。

「よかったじゃないか、タカ」

「……ありがとう」

「おれは何もしてねえよ。まあ……見てたくらいさ、飽きるまでな」

 フジは笑いながらスタジオの方に消えた。

 おれはその場で、静かにため息をつく。

 壁に耳あり障子に目あり、だ。気をつけよう。



 キッチンに行くと、マサが神妙な顔でトマトを切っていた。おれが入っていったのに気付くと、まな板から顔を上げた。

「おう、ご苦労さん」

「行ってきたぜ、ご希望どおり」

 おれが袋をシンクの上に置いて中身を取り出し始めると、マサがヒョイと肩をすくめる。

「まあ、急ぎで必要ってわけでもなかったんだがな」

「なに? あ……」

 そこでやっと、おれは気がついた。

 マサが、カナとおれを買い物に行かせた理由。

 マサがおれの表情を見て微笑する。

「今、分かったって顔をしてるな」

 マサは、おれとカナを二人きりにしてくれたのだ。

「マサ……ありがとう」

 マサが軽く肩をすくめ、まな板の上のトマトに視線を戻す。

「世話がやけるな……ちゃんと伝えたのか、タカ……」

「ん? ああ」

 おれは袋の中の物を冷蔵庫に入れながら、曖昧に返事をした。

「カナも、おまえと同じ気持ちだったろ?」

 おれは思わず眉間にシワを寄せ、マサを見た。

「……何でわかるんだよ」

「わかるよ、カナを見てれば。おまえは全く気付いてないようだったがな」

「おれ……ニブイのかな」

 おれの何気ないつぶやきに、マサは愉快そうに笑った。

「ああ、かなりな……胸のそれ、何だ? 口紅か? まあいい、シャツを着替えたら、ナスとピーマンを切るのを手伝ってくれ」



 夕食は、マサとマキが作ってくれた。

 ナスとベーコンのトマトソースパスタに、スープと野菜サラダ。アイスクリームとコーヒー付き。うまかった。ドラマー二人の隠れた才能だ。

 夕食の後片付けを終え、おれたちはスタジオに入った。

 練習というよりは、遊びで音を出す感じだ。トモちゃんがリョウのギターを持ち、フジが自分のレスポールでコードの押さえ方を教えている。

 隣のもうひとつのスタジオには、カナたち三人が入っていた。

 おれはベースを置いてトイレに立った。トイレから戻る途中、ふとリビングを見ると、ソファーの上でリョウが横になって眠っていた。おれは寝室から毛布を取ってきて、リョウに掛けた。

 今日、出発前のフジの様子から、トモちゃんとフジに何かあったと察したリョウが、トモちゃんに連絡して説得し、自分のバイクに乗せてきた。

 普段バイクに乗り慣れないトモちゃんを後ろに乗せ、かなり慎重に運転してここまで来たと言っていた。

「無事に着いてよかった。トモちゃん、時間かかっちまってごめんな」

 夕食を食べながら、そう言ってリョウは笑っていたが、疲れのあまり頬は軽くやつれ、目を開いているのも辛そうな、眠たげな顔をしていた。

 リョウを起こさないようにそっとリビングを出る。

 スタジオに戻ろうと廊下を歩いていると、隣のスタジオの扉が開いて、中から出て来た人物とぶつかりそうになった。

「おっと……」

「きゃ……」

 すんでのところで衝突回避。カナだ。驚きで、大きな目をさらにまん丸にしていた。おれだと気付くと、ちょっとはにかんだような表情で、開いた扉に背中でよりかかり、扉を閉める。

「よう」

 おれは気の利いた言葉も浮かばずに、ただ声をかけた。

「……よう」

 おれの真似をして、ぶっきらぼうに返すカナ。

「練習してたのか?」

「うん……今日はそろそろ終わり」

「散歩、行くか?」

「……うん、行く」

「玄関で待ってるから支度してきな。夜は冷えるから、上着持って来いよ……」

「うん……待ってて……」

 カナは一度スタジオに戻っていく。おれはフジたちがいるスタジオの扉を開け、首だけ突っ込んで言った。

「ちょっと出てくる」

 フジが振り返る。

「おう……どこ行くの?」

「ちょっと……散歩」

「はいよ。カナによろしくな」

 フジとマサに冷やかされながら扉を閉めた。三人ともすっかり力が抜け切っている。明日から気合を入れて練習すると言っていたが、こんな調子で本当に大丈夫なのだろうか。

 玄関でしばらく待っていると、カナが現れた。黒のストールを羽織っている。用意がいい。

 カナが言った。

「二人に言われた」

「言われた?」

「タカによろしく、って」

「おれも同じこと言われたよ。マサとフジに」

 おれがそう言うと、カナは楽しそうに笑った。

 外に出ると、やはり昼に比べてかなり涼しかった。月明かりの夜空に、富士山がまるで影絵のように黒く切り出されて見える。

「湖の方に行ってみるか……」

「うん」

 おれたちは歩き始めた。昼間一緒に歩いた時のように、カナが左手でおれのシャツの裾を掴む。おれはシャツから手を離させ、カナと手をつないだ。おれの手より、ほんの少し暖かい手。時折そよぐ涼しい風が、火照った頬に心地よい。

 カナが小声で呟いた。

「……なんか恥ずかしい」

「嫌か?」

「ううん。でもそっちの指先、固いでしょ。弦押さえるから」

「カナらしくて好きだ」

「……ありがと」

 カナがおれの手を強く握った。まるで親からはぐれまいとする子供のように。おれもそれに応じるように、握る手に軽く力を込める。

 湖面を風が渡るたびにカナの髪がそよいで、シャンプーとコロンの香りを運んでくる。

 カナの香り。ほのかに甘く、爽やかで、心が蕩けていってしまいそうだ。

 急にカナが立ち止まった。

「どうした?」

「花火」

 湖のほとりで、両親と小さな兄妹の四人家族が花火をあげている。

「タカ……もう少し近くに行こっか……」

「いいけど……邪魔にならないトコまでな……」

 道路から岸辺に降りた所にベンチがあり、おれたちはそこに座った。

 男の子がろうそくの上に花火をかざして火を点ける。花火は最初は赤く、次には青く燃え上がり、男の子は煙を吸って軽く咳き込んだ。父親が笑いながら、持っていたうちわを軽く扇いで、煙を飛ばしてやっている。

「楽しそうだね……」

「そうだな……思い出に残る、いい夏休みになるといいな」

「あたしはそうなるよ……今年の夏は、ずっと忘れられない夏になる……」

「おれだってそうさ……」

 家族は楽しそうに花火を続けていた。男の子が小さな妹に、火を点けた花火を手渡してやっている。色とりどりの花火の光を受ける家族の顔は、どの顔もとても楽しそうに笑っていた。

「ねえタカ、覚えてる? あたしのギターの練習付き合ってくれたの……」

 カナが花火を見たまま言った。遠くの花火に照らし出され、カナの頬も花火と同じ色に輝いている。

「ああ、昼間そっちの車に乗った時、あの時の事考えてたんだ……あれからだったな……おまえがそばにいるのが、いつしかおれにとって当たり前の事になってた……」

「あたしね、あの時思ったんだ……この人優しいな、って」

「優しい? おれが?」

「うん。優しいのって大事だよ。優しさがあれば、他は要らないくらい。タカ、優しいから好きなの」

「やめろよ……照れる……」

 カナはクスクス笑って、先を続けた。

「普通はあんなにやってくれないよ? あたしのギターに合わせて歌って、弾いてくれて……でね、あんたの歌聴いて思ったの。いい声だな、って。少し低くて、高音が切なくかすれる、甘い声……」

 カナの視線は、花火の方に向いている。だが見ているのは、おそらくは二年前。二人でギターの練習をした、あの日々だ。

「あたし何とか弾けるようになって、一人で弾いてみた時、あんたの歌が無いのが物足りなかった。あんたの声が恋しかった……その時気付いたんだ。あたしタカのこと、好きになっちゃったんだ……って」

「だからおまえ、おれがベースやるって言った時、歌わせようとしたのか……」

 カナは目を伏せて笑った。

「まあね……」

 おれは考えた。

 今思えば、カナが出していたシグナルはたくさんあった。おれが気付かなかっただけだ。そしておれはおれで、何となくカナの事を意識しながら、二年も無為に過ごしてきてしまった。

 だが、過ぎた事を言っても仕方が無い。おれたちは今、お互いの気持ちを確かめ合って、ここにいる。それで十分だった。

 家族連れは花火を終え、岸辺の斜面を登っていった。親子で手を取り合って、湖畔の道を並んで帰っていく。

「ねえタカ、またそのうち歌ってよ」

 カナが顔を上げ、おれを見ながら言った。おれもカナを見た。花火の光が消え、月明かりは木立が隠して、表情がよくわからない。が、たぶん微笑んでいるのだろう。大きな目が湖面の光を映して輝いている。

 おれはカナの頬にそっとキスをした。カナはちょっとびっくりしたように首をすくめたが、すぐに顔を仰向かせ、おれを見つめてくる。

 おれはカナの唇の端に、そして次に唇にキスをした。最初は唇が触れ合うだけ、次は少し長いキス。

 お互いの唇が、名残惜しそうに離れた。月明かりが、凪いだ湖面を照らしている。

 壁に耳あり障子に目あり。

 でも、花火の煙がまだ残ってる。くちびるを重ね合うおれたちを、湖上の煙が隠してくれるだろう。

 おれは、生まれて初めて思った。

 このまま、時間が止まってしまえばいい、と。

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