波音ラブソング
コテージは格安の割に、思ったよりもきれいだった。
買ってきたサンドイッチやおにぎりで軽く昼食をとり、その後でスタジオを見に行った。
いつもの『ガレージハウス』のスタジオよりも、きれいで明るく、広いし、機材もよい。
ドラムの前に座り、マサがスタジオの中を見回す。
「客室もいいし、スタジオも機材も悪くない。なのになぜあんなに安いんだ……宿泊代が……」
そう呟いたマサのそばで、マキが楽しそうな表情を見せながら、さらりと言った。
「何か『出る』のかもね……」
「ちょっと~……嫌な事言わないでよ~……」
しーちゃんが自分の両腕を両手で抱えながら泣き声を出す。しーちゃんの過剰な反応にみんなで笑いながら廊下に出た。
廊下に嵌められた大きな窓を見て、マサが声を上げる。
「おお、見事なもんだな」
おれはマサの視線を追う。窓の外には富士山があった。
堂々とした山容。手を伸ばせば届きそうなほど近く、周囲を悠然と見渡すように聳え立っている。大きな四角い窓枠に切り取られ、窓から少し離れて見ると、まるで一葉の絵葉書のようだ。
「もっと優雅に見えるかと想像してたけど、雄大だな。どちらかというと」
「そうだな」
カナたちは浴室を見に行った。女の子たちは富士山の大きさよりも、バスタブの大きさに興味があるようだ。
おれとマサがリビングに戻ると、フジが携帯を耳に当てて立っていた。おれとマサに気付くと、口をへの字にして終話ボタンを押す。
「トモちゃんか? どうだった?」
「ダメだ。留守電になってる」
フジがそう言った時、外からバイクのエンジン音が聞こえてきた。マサがリビングの窓から外を覗き、不意に笑い出す。
「どうした、マサ」
マサは窓のほうに首を倒した。フジとおれは窓に近付いて外をうかがう。
マサが言った。
「電話じゃなくて、直接話して来いよ、フジ」
駐車場に停まったタンデムのローライダー。トモちゃんがヘルメットをとり、後部座席から降りたところだった。バイクのハンドルを握るのはリョウだ。肩には大きなバッグを担いでいる。たぶんトモちゃんのバッグだろう。
マサがフジの背中を叩いた。
「リョウがバイクに乗せてきたんだな……行って来いよフジ、出迎えにさ」
マサに押し出されるように、フジがリビングから出て行く。すぐに窓の外にフジの姿が見えた。リョウと少し言葉を交わすと、フジと入れ換わりにリョウが玄関のほうに消えていく。バスルームを見に行っていたカナたちがリビングに戻って来た。カナがおれたちに近付いてくる。
「なにしてんの、何か見える? あ……」
カナがおれとマサの間に入り込み、窓の外を見ると押し黙った。マサが窓から離れ、リビングに入ってきたリョウを出迎える。
「リョウ、お疲れ……」
マサがリョウからトモちゃんのバッグを受け取り、同時にリョウがソファーに倒れこむように座る。しーちゃんがリョウにコップの水を差し出した。
「ありがとう」
コップの水を一気に飲み干すリョウが、ホッと息を吐きながら続けた。
「タンデム慣れてなくて緊張したよ……タカ、おれのギターは?」
「スタジオに置いてあるよ。ひと息入れたら覗いてみな」
おれは廊下の向こうを指差した。ふと窓の外に視線を戻すと、フジがこちらに向かって身振り手振りで何か言おうとしている。
「何だ?」
おれが戸惑っていると、すかさずカナがおれの隣に来て窓の外を覗く。
「ん~……二人で湖の方に行くって言ってるんじゃない?」
「おまえよくわかるな……」
おれはフジに向かって大きく頷いた。カナはトモちゃんに向かって手を振っている。
マサがおれの様子に気付いて言った。
「何してんだ、フジはどうした?」
「二人で散歩に行ったぜ」
「そうか」
そう言って頷いたマサの目が、何かを企むように輝いた。
「ついでに買い物頼みたかったな……携帯鳴らして頼んだら怒られるよな」
おれは笑った。
「だろうな」
「だよな」
マサは一度カナのほうを見て、もう一度おれを見た。笑いだしたいのを堪えているような表情だ。
マサが顎に指をあてながら言った。
「じゃあ、代わりに誰かに行ってもらうか」
おれとカナは湖沿いの道路を歩いていた。傾きかけた午後の日差しを反射して、湖が宝石箱をひっくり返したかのように輝いている。
マサはカナに買い物を頼んだ。買い忘れたものをいくつか買って来てくれと言う。
重たいからタカを一緒に連れて行けと、マサはカナに言った。おれが一人で行って来ると言うと、マサは、散歩ついでに二人で行って来い、と、買い物リストを手早く書いて、カナに手渡した。「悪いなカナ、タカは荷物持ちだ。ゆっくり、たっぷりこき使え」と。
「やっぱり空気がきれいだね。都会に比べるとさ」
「ん? ああ、そうだな」
カナの声で我に返り、おれは曖昧に相槌をうった。
「ねえタカ、岸に降りてみようよ……」
「ああ、いいよ」
カナに誘われるがままに、道路から岸辺に向かう階段を下りていくと、湖岸は狭いながらも、白い砂をたっぷりとたたえていた。
カナはミュールを脱いで左手に持ち、波打ち際に近付いて、右手を水に入れている。
「思ったより冷たい」
「きっと富士山の雪どけ水なんだろ……この辺の湖は……」
「ああ、そうかもね……冬は寒いんだろうなあ……」
時折打ち寄せる波が、カナの小さな足を濡らしていく。「冷たぁい」と小さく悲鳴をあげて立ち上がり、ステップを踏むように波と戯れている。
「ねえ、タカ、スタジオにマーシャルがあったの見た? すごくでっかいやつ……ジミー・ペイジみたいなの……」
「見たよ。ペイジか……古いね、おまえも……」
おれは笑った。カナは濡れた手を振って水滴を落とす。
「タカ、やっと笑った」
「え?」
おれは思わず訊き返す。カナは少し寂しげな笑顔を見せた。
「ずっと様子が変だったもん。あたしたちの車に乗った時も、何か考え事してたし」
カナは乾いた砂の上に上がって、寂しげな微笑を浮かべたままおれの近くに来た。
「タカ、何だか……よそよそしい感じでさ」
「……そんな事ねえって」
「ごまかしてもダメ……分かってるよ……」
カナはおれに背を向け、湖のほうを見る。
「……あたし、分かってる。あたしが『あーん』てして、フジに冷やかされた事、気にしてるんでしょ? ……ごめん。もうああいう事しない。だから、よそよそしくしないで今まで通り……」
「ちょっと待った」
おれはカナの言葉を遮った。
今まで通り。
カナ、それは無理だ。もうおれは、今まで通りじゃいられない。
カナはこちらを振り返った。大きな目は、いつものようにネコ科の動物のような風情を漂わせている。そして今は、少しだけ不安の色も浮かべて、おれを見つめていた。
おれは続ける。
「そうじゃない。気付いたんだ」
「気付いた?」
「そう、自分の、その……気持ちってヤツにさ」
おれは真っ直ぐに、カナの目を見つめた。
「あのな、カナ」
言ってしまおう。
この気持ちを抱えたままグズグズしていたら、カナが遠くに行ってしまうような気がした。
そうなって後悔したくない。言わなかった事を悔やんで暮らすより、振られた事が笑い話になるように、日々を過ごしていくほうがいい。
おれはカナを真っ直ぐに見つめたまま言った。
「おれは……カナの事が好きだ」
不安そうにおれを見つめていたカナの顔が、ぽかんとした表情に変わる。
「おれ、やっと気付いたんだ。おまえが大好きだ。おまえと一緒にいたいんだ」
カナは一瞬何を言われたのか分からないような顔をしていたが、そっと目を伏せると、またおれに背中を向けてうつむいた。
湖に打ち寄せる波の音だけが、夏の空気に響いている。
おれも、カナも、無言だった。
やがて、かすかに聞こえてきた、小さくしゃくりあげる声。
「……えっ?」
おれはカナの正面に回った。
カナは、泣いていた。
「な……カナ、泣くなよ……嫌だったか……ごめ……」
「嫌じゃない……」
小さな声でおれを遮り、カナが否定した。
「じゃあ何で泣くんだよ……」
「あんたよそよそしいから……嫌われたかと思ったじゃんか……もう……バカ……」
左手にぶら下げていたミュールは、いつの間にか砂の上に落とし、大きな目からぽろぽろとこぼれ落ちる涙を、両手で一生懸命拭っている。
まるで叱られて泣きじゃくる子供のように、小さく、はかなく、そして、いとおしかった。
「あんたの口から……聞けると思わなかった……いつかあたしが言わなきゃ……わかってもらえないと思ってた……」
小さな声で、時々しゃくり上げながら、途切れ途切れにカナは言った。
「あたしがどれだけ……あんたのこと待ってたと思ってんの……タカのバカぁ……」
泣きながら、いつものように脛に蹴りを入れてくる。何度も、何度も。
蹴られながら、おれは思わずカナを抱きしめた。おれの懐の中に抱きすくめられ、カナは蹴るのを止める。
こうでもしないと信じられなかった。
カナもおれの事が好きなのだ。カナは、おれの事を待っていたのだ。
「口紅……」
おれの胸の中で、カナが呟いた。
「ん……?」
「口紅。あんたのシャツ……だめにしちゃう……」
カナはおれのシャツの胸に頬を押し付けて泣いていた。
「いいよ……シャツなんてどうでも……」
おれは体を離さない。カナは声を上げて泣きながら、おれにしがみついてきた。
「タカ……あたしも……あたしも好き……大好きだよ……タカ……」
湖に吹く風が湖面を波立たせ、カナの髪を躍らせる。それは昼間、車の中から見た光景。カナを乗せた車がおれたちの前を走る。窓から顔を出すカナの髪が乱れるのを見た時、カナの声が聞こえないのがもどかしかった。
でも、今は聞こえる。おれを好きだと言っている。おれの声も、カナに届いている。満足だった。おれは湖の風とリズムを合わせるように、カナの髪を指で梳いた。
「カナ……おれ気付かなくて……遅くなってごめんな……」
「うん……そのかわり……」
カナは小さな声で言った。
「待たせた分……離さないで……ずっと……」
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