追憶のカントリーロード

 マキが運転する車のオーディオからは、バングルスが流れていた。

「また古いのかけてんなあ」

 思わずそう言うと、ハンドルを握るマキがクスッと笑う。

「鈴村くんたちは……車で何を聴いているの……?」

 マキはいつもの澄んだ声で穏やかに言った。前を走るフジの車に鼻先を押さえられ、マキの運転はだいぶおとなしい。

「おれら? 何も聴いてないな。だいたい喋ってるか、聴くとしてもラジオだな」

 助手席のカナが楽しそうに笑う。

「あはは、あんたたちらしいね」

 カナはダッシュボードに手を伸ばし、ペットボトルを取り上げてレモンティーをひと口飲む。おれは運転席の後ろに座り、バングルスに耳を傾けながら、さっきフジに冷やかされた事を思い出していた。

 そういえば、カナとはよく一緒にいるな、と改めて考える。

 おれたちが新入生だった頃、ほぼ同時におれとカナは音楽同好会に入部した。

 その時にはもうフジとマサ、それにマキも入部していて、お互いすぐにそれぞれのバンドに加入したので、特におれとカナの二人で何か活動したという事はない。

 が、あいつの練習にはよく付き合った。

 入部してすぐ。六月頃だった。カナのバンドからボーカルとギターが抜け、ベースが弾けるしーちゃんが加入した。

 カナはベースからギター・ボーカルにコンバートする事になったのだが、体が小さく、手も小さなカナは、コードを押さえてもなかなか澄んだ音が出ずに苦労していた。



 二年前のその日、おれが部室に入っていくと、カナが熱心に練習をしていた。おれはカナの邪魔にならないようにテーブルの隅に座り、控え目にギターの練習を始めた。しばらくそうしていると、急にカナに話しかけられた。

「ねえ鈴村、あんたの手、おっきいね。指長いし」

「そうか? そういえば島本、今度ギターやるんだったな」

「ねえ、押さえ方のコツ教えてよ。手、おっきくないとダメなのかな」

「そんな事はないと思うよ。ベースが出来るならギターだって出来るさ……押さえ方のコツか。何だろうな……何が難しい?」

「ん~…… やっぱFとかBとか」

「じゃあコードだけ練習すんのはつまんねえから、FとかBが入ってる曲をやるんだ。適当に選曲しな。一緒に弾こう」

「いいよ、鈴村も自分の練習あるでしょ」

「いいから。おれの練習にもなるしな。それにおれらベースが抜けちまってさ、しばらくバンドで合わせられねえから、気にすんな。やろうぜ」


 確か、そんな会話を交わした。

 カナが選んだ何曲かを、おれたちは一緒に練習した。最初はゆっくり演奏して、確実にコードを押さえられるようになると、徐々に原曲のペースに近付けていった。

 おれの歌とギターに、あいつは愛用の赤のテレキャスターで付いてきた。だいたい二ヶ月近く、ほぼ毎日のように、あいつと部室や『ハウス』で顔をつき合わせて演奏し続けた。カナの左手の指先は固くひび割れ、血が滲んだ。

「カナ、平気か、指。ちょっと見せてみろ……」

「大丈夫。Bメロのタカの歌んトコからもう一回やってくれる?」

「無理すんな」

「平気。ほら、タカ、続き……」



 今、助手席でレモンティーを飲んでいるカナの左手の指先は、踵の皮膚のように固くなっている。爪にはたまにマニキュアを塗ったりしているが、当時は練習でひび割れた指先に接着剤を塗って固めていたのを、おれは知っていた。人一倍の努力家で、驚くほどの短期間でギターをものにしてしまった。

「ありがとタカ。タカが練習に付き合ってくれたおかげで、何とか弾けるようになったよ」

 そう言って笑っていた二年前の夏。

 あれからいつも、おれのそばには、あいつがいた。

 車がアスファルトの小さなへこみを踏んで軽く揺れ、おれは我に返る。

 目を上げ、助手席に座るカナの横顔を見つめた。

 目尻がちょっぴり上がっていて、きつい印象を与える、子猫のような大きな目。小さな鼻と、少し尖った顎のラインが、どこか生意気そうに見える。鼻っ柱が強くて、何かというとすぐ蹴りが入る。

 しかし、おれは思い出した。

 以前、部室でカナと交わした会話。ここにいると、辛いと思うことがある、と。

 カナは、本当の自分を隠すために、気が強い振りをしているだけなのかもしれない。

 実際に接してみると、本当は優しく、生真面目で、面倒見も良く、とても気が利くというのがわかる。一人の人間としても尊敬できるし、女としても可愛く、そして時にはセクシーに……

 セクシーに……まあ、見えなくもない。

「どうしたの……鈴村くん……」

「え?」

 マキに急に名前を呼ばれ、おれは軽く飛び上がった。

「さっきからずっと……カナを見てる……」

 バックミラーの中のマキと目が合った。

「のわっ!」

「そんなに驚くことないじゃない……フフフ……」

 全く濁りの無い、澄み切った声でマキが笑う。ここまで澄んだ声というのも、逆に不思議な迫力を持って耳に響く。

 カナがニヤニヤしながら振り返った。

「なあにー、あたしがあんまりかわいくて見とれてたわけー?」

「バーカ」

「うふふ〜ん。サービスしたげよっかータカちゃ~ん。今日、肩紐ないの。ドキドキする?」

 薄手のパーカーをはだけて、肩を出してみせる。キャミソールの肩紐が肩の柔らかな曲線で滑り落ちかかっていた。自分で言うように、下着のほうはストラップレスなのだろう。おれは思わず視線を宙に泳がせる。

「しまっとけって。こっちが恥ずかしくなる」

「うしししし」

 カナは前に向き直ってパーカーの前をかき合わせ、肩をすくめて笑っている。はしゃいでいる姿は、まるで子供のようだ。

 さっき、フジは言った。

「そこのアツアツカップル」と。

 そしてカナは答えた。

「誰がアツアツカップルよ」と。

 カップル。

 そうなのだ。

 こいつはこんなにいい奴で、こんなに愛らしいのに、一度も男の噂を聞いた事がない。

 男に人気がないわけではない。カナの事が好きだという男の噂は何度か聞いた事があるし、ライブでの人気も高い。音楽同好会に入部する者の中には、カナが目当ての連中もいた。だが、カナに全くその気がないのだ。

 おれは考えた。

 カナの彼氏になる男って、いったいどんな奴なんだろう。

 カナが好きになる男って、いったいどんな奴なんだろう。

 あいつが男といる所を見たことが無い。そう――。

 おれと一緒にいるのを別にすれば。

 おれは想像してみようとする。

 カナの隣に並ぶ男。カナが隣に寄り添って歩く男。

 考えられない。考えられない……いや、違う。

 考えられない、ではない。

 考えたくないのだ。

 カナの隣にいる、どこかの男。

 無理だ。そんな事、考えたくない。

 カナを、渡したくない。

 他の、誰にも、絶対に。

 こいつの隣には、おれがいたい。このおれが。

 思えば、カナのギターの練習に付き合っていた頃から、おれはカナの事が好きだったのかもしれない。

 ん?

 好き?

 そうか。

 やっぱり、そうなのか。

 おれはやっぱり、カナが好きなのだ。

 もう、自分の気持ちに嘘はつけない。

 もう、自分の心に蓋はできない。

 おれは、カナといたい。

 これまでのように。これからも。

「何かわかった……鈴村くん……」

 気が付けば、マキがまたバックミラーの中からおれを見ていた。

「え? ……ああ、わかったよ……とても大事なことがね……」

 バックミラーの中のマキと目を合わせた。マキは静かに微笑んでいる。

「そんな目をしてたわ……とても、強い目……どんな事にしろ、何かを理解するというのは、とても素晴らしいことね……」

 カナは不思議そうにおれとマキを見ていた。

「何、なんの話……」

「鈴村くんは考えごとをしていたのよ……」

「何を?」

 カナがおれを振り返る。おれは窓の外を見ながら言った。

「人類が創生以来ずっと背負っている、深き悩みについてさ」

「はいはい。で、何がわかったわけ?」

「考えてもどうにもならない、って事がわかった」

「ふうん。次世代の人類に任せたら?」

 カナはレモンティーを飲み干した。



 河口湖。ここまで来ると、やはり富士山がとても大きく見える。裾野が視界一杯に広がって、一目では見渡せない。

 そして思ったほど涼しくはない。朝晩は冷え込むのかもしれないが、昼間は都心よりも幾分過ごしやすいというくらいか。

 おれたちは湖畔にあるリゾート客向けであろうスーパーに立ち寄り、食材を買い込もうとしていた。

 食事は自炊しなければならないのだ。おれがショッピングカートを押し、他の五人が思い思いに品物を入れている。

 野菜や肉をカートに入れながら、カナがおれに話しかけたり、ちょっかいを出したりしてくるが、おれは適当に相槌を打ってあしらっていた。

 車内での考え事以来、なんとなく照れくさくて、カナの顔をまっすぐ見られない。

 フジがみんなに呼びかける。

「余らせても仕方ないから、考えてカートに入れろよ。足りなきゃまた買いに来ればいいんだから」

 言いながら、フジが小袋に入ったジャガイモをカートに入れる。

 おれはフジを見た。

「ジャガイモ?」

 真顔で頷くフジ。

「カレー。自炊といやあカレーだろ、やっぱ」

 おれとフジがレジに並ぶ。支払いはフジがして、後で人数分で割る。マサが大きなお菓子の箱を抱えて追いかけてきた。

「おい、これも買ってくれよ。鶏もつ味だってよ」

 抱えてきた箱を、マサがカートに入れる。フジが顔をほころばせた。

「ご当地フレーバーってやつだな。よしよし買おう買おう……どうしたタカ、なんか元気ねえな……」

 財布の中を探りながらフジが言った。

「……そうか? そんな事ねえよ」

 まさか「カナへの気持ちに気付いてしまいました」とも言えない。おれはとぼける事にした。

 が、そのままおれたちと一緒にレジに並んだマサが追い討ちをかける。

「いや、おれもそう思ってた。マキの運転で酔ったのか?」

 おれの顔を心配そうに覗き込むマサ。

「いや……何でもねえって……」

 フジがおれを元気づけるように笑顔を見せた。

「何でもねえならいいけどよ……せっかくの合宿だ。おまけにリゾートだぜ。楽しま……」

「6587円です」

 レジ打ちのパートのお姉さんが金額を告げた。

「えっ……ろくせん……?」

 フジが問い返す。

「6587円です」

 金額を繰り返し、お姉さんがニッコリした。

「はい……楽しまねえと損だぜ……随分買ったな……」

 フジが一万円札をトレイの上に置き、小銭をチャラチャラとかき回している。

「フジの言うとおりだ。今日はとりあえずひと息入れて、明日からたっぷり音を出そう」

 マサがおれの背中を軽く叩いた。



 おれはしーちゃんと入れ替わりに、フジの車に乗り込んだ。車が出発する。前を走るマキの運転も、一般道ではおとなしい。

 少し走ると、助手席に座るマサが笑い出した。

「あれ見てみな、楽しそうだな、かなり」

 マキが運転する車の後部座席で、カナが後ろを向いておれたちに手を振っている。おれたちは三人揃って手を振り返した。

 カナは窓を開け、顔を少しだけ外に出す。春にはやっと首が隠れるくらいだった髪が、今は随分伸びている。全体に梳いてあり、毛先にシャギーを入れているので長さはさほど感じないが、後ろ側は肩の下辺りまで届いていた。実年齢より少し幼く見える顔に、髪が風で乱れて絡みつく。左手で横の髪を耳の後ろにやりながら、髪が風と遊ぶのを楽しんでいるかのようだ。前を見ているかと思えば思い出したように振り返り、何やら色々と忙しい。こちらを見ながら何か言っている。唇が動くだけで、何を言っているのかはわからない。

 風と戯れるカナの姿に、おれは思わず目を奪われた。

 カナ……おまえの声が聞こえないのは……とても……もどかしい……

 おれの胸を支配する、言いようのない気持ち。

 おまえがおれから離れていってしまうと、おれは毎日、こんな切なさを味わうのだろうか?

「タカ……おい、タカ!」

「あ? ああ、なんだ?」

 マサがおれを呼んでいた。

「おいおい……上の空だな」

 フジが煙草に火を点ける。

「悪い……ああ、くそ。だめだ……足が地に付いてない感じだ……」

 おれは大きくため息をついた。フジがほら見ろというような表情で、ミラー越しにこちらを見る。

「やっぱりな。おまえ、ずっと様子がおかしいもん」

 フジがそう言って、少しだけ開けた窓に向かって煙を吐く。紫煙があっという間に後ろに流れて消えた。ドライバーズシートからのヴェイパートレイル。春にもフジの煙草の煙を見てそう思ったっけ。

 おれは言った。

「フジのせいもあるんだぞ……おまえが変な事言うから……」

「えっ? 何? おれ何か悪い事言った?」

 フジは何の事か分からず、驚いた顔をしている。

「覚えてねえのかよ……カナのことだよ……」

「カナの……」

「おれさ、カナの事……好きみたいなんだよなあ……」

 思い切って言ったおれの言葉に、フジとマサは顔を見合わせ、愉快そうに笑い出した。

「何だよ! なんで笑うんだよ」

 憤慨するおれに、フジが苦笑混じりに言った。

「だって、見てればわかるもん」

「は!?」

 マサが後に続けて言った。

「な、わかるよなあ。今さら何言ってんの。たぶんおれらだけじゃなく、リョウだって分かってると思うぜ」

 マサはおれを振り返り、飴玉を差し出しながら続ける。

「これもご当地フレーバーだ。巨峰味だぜ。巨峰より巨峰らしい味がする」

 おれは包みを剥がして、飴玉を口に入れた。なるほど、巨峰より巨峰らしい、か。香りや口当たりはいいが、不自然に濃いぶどうの味。マサの表現に、おれは何となく、この前この車内で話した肉の匂いの話を思い出した。

 フジが灰皿に煙草の灰を落とす。

「そうか、悪い事言っちまったかな……おれがさっき冷やかしたせいで、意識しちまったんだなあ……」

「うん……まあそんなとこだ……」

「せっかくだからさ、練習の合間に、二人でデートでもして来いよ」

 フジが提案すると、マサも大きく頷いて同意する。

「そうだな……フジの言うとおり、二人で楽しんできなよ、タカ」

「おいおいおまえらちょっと待て……」

 好き勝手なこと言いやがる。

 おれは運転席と助手席の間に顔を入れた。おれたちが三人で車に乗る時、前の二つの座席の間から顔を出すのは、後部座席に座る奴の定位置だ。その定位置に腰を据え、おれは反論を開始することにした。

「あのなあ……おれがカナの事を好きだって話をしてんだろ。何だよデートだの何だのって……あいつが誰かとデートしてるの見た事あるか? あいつはきっと、そんなのに興味ねえんだよ」

 フジとマサは顔を見合わせた。

「ふむ……わかってねえなあ、おまえは……」

 マサはため息混じりに言った。

「何だよ」

 フジが大袈裟に肩をすくめる。

「やめとけよマサ、タカは基本的にニブイのさ」

「何だと?」

 おれは座席の間に、さらに身を乗り出した。

「とにかくだ」

 フジは煙草を吸う。火の点いた先端がジジジと小さく音を立て、オレンジ色に明るくなった。

「……とにかく、今みたいにボーッとしてたら演奏にだって支障が出るし、何より精神衛生上よろしくない。いいか、ベースはしっかり弾け。そうするためにも、なるべく早く、おまえの気持ちをカナにしっかり伝えるんだ。な?」

 フジの言葉に、マサがまた大きく頷いている。

 おれは言った。

「そりゃおまえもだろ。好き放題言いやがって……トモちゃんに電話しろよ……なるべく早く」

「向こうに着いたらするよ……タカ、見てみろあれ……こっちでこんな話をしてるって知ったら、カナの奴どんな顔するかな……」

 おれは前を見た。カナが、マキの車のリアウインドウの向こうから手を振っている。フジが煙草の煙を吐き出しながら、愉快そうに手を振り返した。

 マサが頭の後ろで腕を組みながら言った。

「『お医者様でも草津の湯でも』……か。草津ほどじゃないけど、山梨も温泉が有名だよな。まあ、タカの病にはあまり役に立ちそうもないけどな……」

 おれはまたひとつ、ため息をついた。

 まったく、マサの言うとおりだ。

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