夏ライブ当日

 ライブ当日の昼、おれたち出演者は一旦部室に集まり、演奏に必要な物だけを持って『ガレージハウス』に向かった。

 スタジオの受付で待ち構えるのは、ここに通う者ならばお馴染みの人物。

「おう、来たな小僧ども」

「パキさん、今日はよろしくお願いします」

 待っていたのは『ガレージハウス』のオーナー、パキさんだ。

 年齢はおそらく四十代後半から五十代の頭くらい。地下のリハーサルスタジオ『ガレージハウス』と、同じビルの一階にあるライブスペース『ピッグエッグ』、それに二階から四階と隣のビルを使った『ヤマキ楽器店』、つまり、『ヤマキ楽器グループ』のオーナーだ。

 噂では、昔は名の知れたミュージシャンだったらしい。ほぼ全てが白くなった豊かな長髪を、首の後ろで束ねている。

 本名も、なぜパキさんというのかも、誰も知らない。本人に質問した奴も何人かいるのだが、パキさんはいつも違う答えを返すので、何が真実か全く分からない。

「おまえさん達、慣れてるだろうから詳しい説明は省略だ。きれいに使って存分に楽しんでくれ」

「はい。パキさんも観に来てくださいよ」

「十年早いよ」

 パキさんは笑いながら、煙草に火を点けた。ジッポーのオイルの匂いが漂う。

 そう言いながらも、パキさんはいつも客席の隅やステージの袖に目立たないように立って、おれたちの演奏を聴いていてくれる。演奏後にパキさんに声をかけてもらえるのは、特に良い演奏をした奴と、いくつか課題を残した奴。演奏後にパキさんに声をかけられ褒めてもらうのは、おれたちのライブの楽しみの一つでもあった。

「いつものように逆リハだ。トリをとる奴らからリハの用意をしろ」

 パキさんは時計を見ながら付け加えた。

「十五分後から始める」

 今回のおれたちの出演順は二番目。リハまでには随分時間があった。

 出演者には男女に分かれて小さな楽屋が用意され、おれたちはそこに入ってめいめいに準備を始めた。

 おれは左手でゴムボールを握っていた。マサはスティックで腿を軽く叩いている。軽い準備運動みたいなものだ。

 フジはおれの隣に座り、咥え煙草でギターをチューニングしている。液晶モニターに表示されるデジタル針を真剣に見つめて、低音弦から音を合わせていく。リョウはトイレに籠り、洗面台の鏡の前で柔軟体操と発声練習だ。

 ライブ直前の、いつもの風景。でも、何だか奇妙な感じだ、とおれは思う。

 つい十日程前まで、おれたちは答案用紙の前で難しい顔をして唸っていたのだ。学生なのだから当たり前の話だ。

 ところが今は、リラックスした中にも程よい緊張感に包まれ、ライブが始まるのを待っている。学生の本分である勉強や試験をしている時よりも、数段充実した表情で。

 おれたちにとって、音楽は逃げ場所なのだ。

 たとえ音楽の才能に恵まれ、相応の努力をしてプロの音楽家になったとしても、たぶんおれには続けられないだろう。逃げ場所をメインのフィールドにしてしまったら、行き詰った心をどこで開放したらいいか分からない。

 それを現実逃避という者もいるだろう。

 だが、逃げてなぜ悪い? 現実と四六時中向き合って行き場を失い、そこで何もかも、命すらを失ってしまうよりはよほどいい。

 『逃げたらダメだ』というのはよくわかる。

 だが、絶対ではない。

 『逃げてもいい』のだ。どうしても耐えられないのであれば。

 いつだってどん詰まりのおれたちに、現実を忘れさせ、逃げ場所を与えてくれるのは、音楽。

 逃亡者を乗せて、ロックンロールの列車が転がり続けていくのだ。

 誰かが楽屋のドアをノックし、おれたちを呼んでいた。出番らしい。おれはフジとマサを促して外へ出る。トイレにいるリョウにも声をかけ、四人でリハーサルに向った。

 さあ、戦闘準備だ。

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