ギタリストの音

 八月のライブは、全部で七組が出演する事になった。

 梅雨明けにはまだもう少しかかりそうな、どんよりとした曇り空の土曜日。出演するメンバーが『ガレージハウス』のL1スタジオに集まった。

 L1は、おれたちがいつも練習で使用するスペースよりもはるかに広い。とはいっても、七組、二十人程の人間がひしめきあえば、広さなどは感じなくなってしまう。

 八月の本番まであと一ヶ月と少し。まだかなり早いが、夏休みに入る前に通しリハ兼、新生ノー・ブレーキのお披露目をやろうというのだ。

 本来なら、通しリハは本番の直前に行いたいところだが、同じく本番直前に予定された前期試験との日程の兼ね合いから、今週中に通しリハをやって、おおよその雰囲気をつかんでおくのだ。

 学生バンドの辛いところだが、まあ仕方ない。

 本番の会場は、『ガレージハウス』に併設されたライブスペース、その名も『ピッグエッグ』だ。看板には、不敵に笑うコミカルなピンクの豚が、卵の殻から顔を出しているイラストが描かれている。

「よく水道橋から訴えられねえもんだ」

 マサはピッグエッグの話になるたびにいつもそう言う。

 あの野球場の愛称は、それほど世間に浸透しているわけではないので安心しているのだろうか。『ガレージハウス』のオーナーであるパキさんにその辺を訊いてみても、豪快に笑っているだけだった。

 それにおれたちとしても、「ピッグエッグでライブやるんだ」というのは何となく気分がいい。たとえ『ヒ』の隣に付く点々が丸であったとしても、だ。

「さて、どのバンドから行くんだっけ?」

 マサが周囲を見渡した。

「あたしたち」

 カナが軽く右手を上げながら、ギターのストラップを肩に掛け、センターマイクの前に向かう。

「あれ?」

 おれは思わず声を出した。見覚えのある黒いテレキャスター。

「気がついた? あんたの」

 カナが笑顔で軽くネックを持ち上げてみせたのは、カナのベースと交換したおれのギターだった。

 マサが自分の腕時計を見る。

「よし、ざっくりと時間を計るぞ。午後1時スタートだ」

 ドラマーのマキが、ベーシストのしーちゃんとセンターマイクの前のカナに視線を送る。頷くカナとしーちゃん。

 マキはスティックでカウントをとる。

 おれたちと同じように、オールド・スクールのロックを好む彼女たちの一曲目は、ランナウェイズの『チェリーボム』だ。

 カナのほっそりとした肩や腕からは想像し難い、ワイルドなプレイ。

 弦を押さえる左手の指の流麗な動きより、ミュートや右手のリズムを重視するのはフジと同じだ。

 そして、女の子らしい高い声でありながら、声量のあるボーカル。

 マキのドラムもシュアで力強く、しーちゃんのベースラインもタイトで、かつ滑らかに流れるようだ。

 カナはバンドの名のとおり、駆け抜けるムスタング。メロディパートのカナが自由に駆け回れるフィールドを、リズムパートの二人が見事に作り上げている。

 おれたちはセンターマイクの正面に、壁にもたれて座り込んでいた。真ん中におれ、おれの右にリョウ、左にマサ。フジはまだ来ていない。

 初めて間近でムスタング・ドライブの演奏を聴くリョウが、おれの耳元に顔を寄せて怒鳴った。

「こいつはすげえ! 最高だ!」

 カナたちの演奏に舌を巻いたという表情を浮かべている。

 おれはリョウに向かって頷きながら考えた。

 リョウの演奏を聴けば、今度はカナたち、いや、ここにいる誰もが、今のリョウと同じ言葉を吐くだろう。

 カナはその小さな体全体を使って、おれのテレキャスターを軽やかに、そしてパワフルに弾きこなしていた。

 一曲目が終ると、あちこちからムスタングへの拍手が起こる。

 ちょうど目の前に座るおれに、カナがマイクを通して話しかけてくる。

「どうだった? タカ……」

おれは指でオーケーマークを作った。

「最高です、カナさん」

 スタジオの端のほうで聴いていたポタ夫が、カナに声をかけた。カナはおれとポタ夫に軽く頷き、マキに視線を送る。

 マキのカウント。二曲目に入る。

 順調にリハーサルが進み、カナたちの最後の曲が始まろうとする時、スタジオの扉が開いてフジが入ってきた。

「よう、遅かったな」

 マサが声をかけた。

「悪い」

 フジがそう答えると同時に、カナたちの最後の曲がスタートした。次はおれたちの番だ。フジは準備を整えるため、隅のほうに歩いて行った。リョウが自分のギターを持ってフジの後に付いて行く。二人で顔を寄せ合い、軽く打ち合わせだ。互いに自分のギターを肩に掛け、時々弾く格好をして見せたりしている。

 カナたちの最後の曲が終わろうかという時、フジとリョウは頷き合いながら離れた。

 カナたちの出番が終わり、マサが時間を確認する。

「オーケー、17分。約20分てとこか。お疲れさん。誰か時計を見ててくれ」

 マサが自分の腕時計を外し、近付いて来たポタ夫に下手でふわりと投げた。

 カナがツインリバーブの電源を落とし、シールドを引き抜きながら、近付いてきたフジの顔を覗き込む。

「大丈夫なの? 来たばっかりで」

 遅刻したフジを咎めるように、カナの言葉には多少の棘が含まれているように感じた。

「ああもちろん。見てな、ぶっ飛ぶぜ」

 険を含んだカナの言葉などはどこ吹く風で、フジがマーシャルにシールドを入れながら答える。マサがバスドラを踏み鳴らし、リョウはマイクの高さを合わせ、おれはベースを低く構えなおした。

――多少下手でもいい、低く構えろ。

 フジからおれへの、ベースを弾く上でのアドバイスだ。

――そりゃ高い位置で持てば弾きやすいさ。でもスタイリッシュじゃない。ロックなんだから見た目も大事だぜ。

 フジらしいといえば、実にフジらしい言い回しだ。

 カナたちはさっきまでおれたちが座っていた壁際に陣取っている。おれの正面にちょこんとあぐらをかいたカナが、おれが抱えたベースを見て満足そうに笑った。ありがとうの意味も込め、おれはカナに小さく頷いてみせてやる。

 時計を見ていたポタ夫の声が響いた。

「準備いいですか」

 フジがコーラスマイク越しにポタ夫に返事をする。

「オーケーだ」

 一曲目はいつもの曲。『Real Wild Child』。おれはマイクに向かってカウントする。

 ぶっ飛ぶぜ、というフジの言葉を思い出しながら。



 通しリハのあとの軽いミーティングを終え、おれ、マサ、リョウ、それにカナ、マキ、しーちゃんの六人は、ひと息入れようと例のバーガー屋にやってきた。おれたち三人とカナたち三人が、まるでお見合いのように、テーブル席に向かい合って座っている。

 演奏後はなぜか甘い物が欲しくなる。おれはチョコシェイクを注文した。チョコと生クリームの甘さで、気持ちばかりか筋肉までがほぐれていく感じがする。

 ふと見ると、マサとリョウも甘い飲み物を飲んでいた。演奏の後で甘い物が欲しくなるのは、どうやらおれだけではないらしい。

「なんかずるいよねえ」

 席に着いた途端、カナはため息混じりにそう言うと、大きく口を開けてチキンバーガーにかぶりついた。

「なんだよ、ここの牛肉は肉臭いからダメなんだろ? 牛のヤツは今度おごってやるから、今日はチキンで我慢しろって」

 おれはストローから口を離して言った。カナの分はおれのおごりなのだ。春の新人勧誘の時の約束だ。

 カナはおれを一瞥してかぶりを振る。

「バーガーの話じゃないよ」

「ん? じゃあ何の話だよ」

 カナはまたあんぐりと口を開けてバーガーにかぶりつく。

 大きく口を開けたところで顔も口も小さいので、ひと口の量もたかがしれている。チキンバーガーは少しも減っていかない。

「あんたたちの事」

「おれたち?」

 カナに対して、何かずるいと言われるような事をしただろうかと、おれは考えた。特に心当たりはない。

「おれたちの何がずるいんだ?」

 おれは正面に座るカナの顔を見た。

 眉間に皺を寄せてチキンバーガーをもぐもぐやっていたカナが、レモンティーを一口飲んで言った。

「だってさ、大して真面目に練習してる風でもないのに、かっこいいじゃん。天才じゃないの? あんたたち」

 マサがスッと眉を上げた。

「『これほどの 努力を人は 才といい』ってか」

 しれっとした顔でそう言いながらコーラを飲むマサを、カナが軽く睨みつけた。

「何? 誰の言葉?」

「さあな、誰だっけ」

 マサは呑気な顔で答えながらダブルバーガーに喰らいつき、うふふんと笑いながら頷いている。念願の肉臭いバーガーを、マサはいたく気に入ったようだ。

 カナはまたひと口、チキンバーガーを食べた。目から下が、手に持ったチキンバーガーの向こうに隠れてしまう。小さな顔と大きなバーガー。

「努力してんの? あんたたち。あたしたちのほうがしてると思うんだけどなあ」

 バーガーを飲み込んでそう言うと、軽くため息をついて、チョコシェイクを一口。

 チョコシェイク?

「おまえそれおれのシェイクじゃねえかよ」

 シェイクのストローをくわえるカナの唇に、おれの心臓は勝手にテンポを上げた。

「いいじゃん。タカ幸せそうな顔して飲んでたからさ」

 笑いながら、もうひと口。

「飲むなっての、もう」

 心の動揺を悟られまいと、おれは努めて平然と振舞う。

「あたしのレモンティー、ひと口あげるよ」

「いらねえって。いつの間にカップを持ってったんだかなあ……」

 カナは楽しそうに笑い、もうひと口飲んでから、カップをおれのトレイに戻した。

「でも、実際予想以上だったよ。タカ、ベース弾けてたじゃない。それにリョウ。いつからギターやってるの?」

 心底感嘆したというカナの口ぶり。

「う~ん……浪人中も毎日弾いてたから、三年だな」

 リョウが答えた。

「いいギタリスト見つけたじゃん、タカ」

 カナの言葉に、しーちゃんやマキも強く同意する。

 リョウは照れくさそうに両手を上げた。

「いや、おれひとりで弾いてても大した事はないよ。みんなが……バンドがいいのさ」

 リョウの言葉に、カナが頷いた。

「そういうのが不思議なんだよねぇ、バンドってさ。なんていうか……化学反応みたいのってあるじゃん……」

 カナの言葉に、おれはさっきの演奏を思い出しながらチョコシェイクを飲む。

 おれたちやカナたちより上手い奴らは大勢いる。

 だが、いくらテクニックに長けた奴と一緒に演奏しても、何も感じない時は感じないのだ。

 もちろん、技術に長けた奴と一緒に演奏する事に醍醐味を感じる者もいるだろう。

 だが、おれたちは違う。ただ正確なだけの音符の羅列の中には浮かび上がってこない何かを、おれたちは薄暗いスタジオで、狭いライブハウスで、追い続けているのだ。

 音楽とは自由なものだ。中にはおれたちみたいな奴らがいても、音楽の神様は大目に見てくれるだろう。フジもよく言っている。楽器オタクはいらない。おれらはロックオタクだ。一緒にロックできる奴が欲しいんだ、と。

「そういえばフジは? 何で一緒に来なかったの?」

 カナが、まるでおれが今考えていた事を見透かしたように、フジの名前を出しながら首をかしげた。

「『帰る』ってさ」

「あんたたちさ、最近四人でいる事、少なくない? 全員揃ったのって、今日久し振りに見たよ」

 そういうカナに、リョウがニヤッと笑い、テーブルの上に手を出して、小指を立てて見せた。

「これ、さ」

「しかも、すげえ美人」

 マサがつけ加える。

 カナが目を丸くした。

「ああ、もう……嫌になるなあ。あいつは、練習もそこそこに彼女と遊んでるっていうのに、あんなにかっこいいギターを弾くわけ?」

 カナはテーブルの上に腕を組んで、その上に顎を乗せた。

 マサが椅子の背もたれに体を預けながら言う。

「フジは日々の全てが、音楽の糧なんだ。逆の言い方すれば、練習だけをしていても出る音じゃないんだよ……そう、あいつそのものが、音なんだ。荒々しくて、大雑把で、単純なんだけど、誰も真似できない……」

 その場の全員が、ああ、とか、なるほどね、とか言いながら頷いた。フジをよく知る者なら同意できる表現だった。

 リョウが愉快そうな表情を浮かべながら、マサに質問する。

「おれのギターは、マサ風に表現すると、どうなるんだ?」

「リョウのギターか……」

 マサはニヤリと笑って、先を続けた。

「……おまえの音は……ギター弾きならみんな憧れる。いろんな奴を惹き付けるけど、近付くヤツを傷付けかねない、ちょっと危ない音だな」

「何だよそれ」

 リョウが苦笑する。

 カナは顔を上げ、小さな声でつぶやいた。

「やっぱずるいなあ……あんたたち」

 軽くへこみ気味なカナに、おれは言葉をかけた。

「マサは言葉でケムに巻いてんだよ。まあ、人それぞれさ。みんなにフジみたいな芸当できるわけない。おまえにはおまえの良さがあるだろ?」

「……そうだといいんだけどね」

 カナはチョコシェイクをひと口飲んだ。

 ……チョコシェイク?

「だから飲むなって」

 カナはくすくすと笑った。

 可愛らしいカナの笑顔を見ると、胸のあたりがキュッとなる。おれは思わず視線をそらした。窓の外を、何組かのカップルが楽しそうに行き過ぎていくのが見える。おれはその中の一組に、フジとフジの彼女、トモちゃんの面影を見る。

 日々の全てが音楽の糧、というマサの言葉が、おれにはどうも引っかかった。外を行き交うカップルたちのように、フジもトモちゃんと楽しく過ごせているのだろうか。

 人生の全てを音楽に捧げたり、誰かを傷付けたりして手に入れる最高のプレイ。そういうものには、今のおれは何の価値も見い出すことができない。

 バンドマンである以前に、おれたちは人間だ。

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