部室のふたり
入学式の時には三分咲きだった桜も、満開になってしまえば散りだすのも早い。
大学の桜並木は、時折吹き付ける風に見事な桜吹雪を降らせてみせている。
正午過ぎ、おれは部室にいた。
朝一番の授業を終え、おれは部室でベースを弾いていた。
弾きながら、ノートにベース用のコード譜を書いていた。
バンドのレパートリー各曲のコードを書き出し、ざっくりと楽譜を書く。後はとにかく弾いて、手癖をつけていくのだ。
レパートリーはそう多くないとはいえ、なかなか面倒な作業には違いない。おまけに今、膝の上に乗っているベースはカナからの借り物だ。早く自分のベースを手に入れなければならない。
入学式の日のリハーサルで、結局リョウはベースを弾かなかった。
弾かなくても決まっていた。
リョウのギターは、おれのギターよりも数段いい。
そして、フジのギターはノー・ブレーキには欠かせない音だ。
だとしたら、もう一人のギタリスト、つまりこのおれがベーシストに転向するのがベストだ。
あの日、今後はおれがベースを弾くと三人に宣言した。そして、歌もリョウに歌ってもらいたい、と。
おれはベースを弾く手を止め、日差しが溢れる外の景色に目をやった。開け放した窓の外では、昼食に向かう学生たちの楽しげな声が聞こえてくる。
こんなにのどかな、よく晴れた日には、音楽をやっているのが馬鹿馬鹿しくなってくる。
だが、楽器をしまい込んで明るい日差しの中を歩いてみると、いくらも経たないうちに、薄暗く、かび臭いスタジオが恋しくなってくるのだ。
おれたちは常に、今いる場所の反対側を夢見て、日々を暮らしている。
部室の扉が開いた。
「あれ? タカ?」
カナだ。ドアを開けてはみたが、こんなに早い時間に中に人がいたので少し驚いたようだ。デニムのミニスカートに黒いニーハイソックス、グレーのロンT。薄手のショートジャケットを脇に抱え、肩にはギターケースを担いでいる。
「よう、早いな」
「おはよ。いると思わなかった。タカひとり?」
「ああ。そういうおまえこそ何してんだよ。こんな昼間から部室来るなんて」
カナはおれの隣の椅子に腰掛けながら、肩に担いでいたギターケースをテーブルの横に立てかけ、上からジャケットをかけた。
オリーブグリーンのジャケットは、最近の女の子たちの間で流行っているミリタリー調のものではなく、たぶん本当の軍の払い下げ。首の後ろにフードが付いている。カナの身長に合うサイズが、よく見つかったものだ。
「急に休講になって時間が空いちゃってさ、暇つぶし。あ、それあたしのベース?」
おれが抱えていたベースを覗き込むと、ロンTの袖をたくし上げながらおれから奪い取り、自分の膝上に抱えた。
「ん~……ギターに慣れた今となっては、弦が太く感じるね、やっぱ」
小さな手で器用にフレットを押さえ、ローからハイに駆け上がっていく。
「悪いな。借りっぱなしで」
おれは言った。カナは机の上にあったおれのノートを見つめる。
「それはいいけど……タカ、ベースやる事になったの?」
「そうだよ」
「ふうん……じゃあリョウがギター?」
カナがおれの膝にベースを戻す。
「そう。それにボーカル」
カナが大きな目をさらに大きくしておれを見た。
「えっ? あんたは?」
「だからベースだって」
「歌わないの?」
「弾きながら歌う余裕がない」
カナはおれをじっと見ながら言った。
「スティングは、弾きながら歌うよ?」
「おまえな……スティングとおれを一緒にするなよ」
おれは思わず苦笑を返す。カナは真剣な表情で、おれの顔と、おれの膝の上のベースを見比べていた。
カナの大きな目で見つめられてドギマギとしながら、おれはベースの練習を再開する。
カナはしばらく黙って、おれの演奏を聴いていた。フレットを押さえるおれの左手を、横からじっと見つめている。ねこじゃらしに集中する、やんちゃ盛りの子猫のようだ。
「あんまり手を見んなよ。緊張するだろ」
「リチャード・ヘルは?」
「何?」
「ベース弾きながら歌うじゃん、あいつも」
おれは弾く手を止めて、カナの顔をまじまじと見た。
「おれにどうしても歌わせたいのか?」
「そういうわけじゃないけど……あんたの歌……悪くないからさ」
カナはそう言いながら立ち上がると、テーブルの縁にすとんと腰掛けた。両手をももの下に入れ、脚を前後にぶらぶらさせ始める。
ちょっと拗ねたようなカナの仕草。前後に揺れる小さな爪先。微笑ましく思いながらも、おれは反論する。
「そうは言うけどな……リョウの歌だって悪くないよ。ギターもな。おまえにも早く、あいつの音を聴かせてやりたいよ」
カナはしばらく黙っていたが、やがて揺らしていた脚を止め、おれを真っ直ぐに見ながら言った。
「タカは、それでいいの?」
「ん?」
「だって、二年もギター弾いてたのに……」
この間のリハーサルの時、ギターと歌をリョウに任せたいと言った時にも、フジとマサ、そしてリョウが今のカナと同じ事を聞いた。
――タカは本当に、それでいいのか? と。
「ん……まあ弾き慣れてるほうがいいといえば、そうだけど……でも、『どうしてもギターがやりたい』ってのはないかな」
おれの返答に、カナはなおも食い下がる。
「ギターやボーカルへの、こだわりみたいなのは、ないの?」
「ないな」
おれはきっぱりと言った。
「リョウのギターはおれよりもいい。だったらリョウに弾いてもらうのがベストだろう。そうだな……おれに『こだわり』ってものがあるとすれば……」
「あるとすれば?」
カナが大きな目で、おれに言葉の先を促す。強い眼差し、澄んだ瞳に吸い込まれるように、おれは言葉を続けた。
「こだわりがあるとすれば……バンドへのこだわりだ。フジとマサ。それに新しく入ってきたリョウ。そしておれ。自分でいうのもアレだけどな、今度のメンツ、こりゃすごいぜ。あいつらと演奏できるんであれば、おれはベースでも何でも一生懸命やる。そういうこだわりなら、あるさ。たっぷりとな」
カナは黙って、おれの言葉を整理しているようだった。
窓の外では、さっきまで聞こえていた楽しげにさざめく声が遠くなっていた。昼食時がそろそろ終わるのだろう。
「そうかあ……そんな風に考えた事なかったよ……あたしは」
窓の外に視線を移し、カナがひとつ小さなため息をついた。
「ここで音楽やってて、辛い事ってある? タカ……」
「ここ、って、同好会でって事? 大変だなって思う事はしょっちゅうだけど、辛いって思うような事は、ないよ」
「あたしはあるよ……時々だけどね」
「へえ……」
カナの意外な言葉に、おれは理由を聞いてみたくなった。
「例えば、どんな時にそう思う?」
カナはいつだって楽しそうに、そして真剣に、バンドに打ち込んでいた。辛そうな素振りを見せた事など、一度もなかった。
「うん……例えば……思うように弾けない時とか……」
「そりゃみんなそうさ、程度の差こそあれ……」
「あと……『カナは絵が描けるから』って、プラカードやチラシ作りを頼まれたりする時とか、かな……」
おれは思わずカナの顔をまじまじと見つめた。
「そうか……」
意外だった。カナはそれらの仕事を、二つ返事で引き受けているのかと思っていた。
おれは床に視線を落とす。
「そいつは……考えもしなかったよ」
「内緒だよ」
「わかってる」
おれたちは、しばらく黙って座っていた。
おれが先に沈黙を破る。
「気が進まなかったら、断ったっていいんだぜ?」
カナはクスクスと笑った。
「たぶん、マサやフジも、あんたと同じ事言うよね。嫌なことはイヤ、って」
「そうかな……そうだな。うん、そう思うよ……」
「そうもいかないよ……できる事は、なるべくやらなきゃ。絵を描いたりするの、嫌いってわけじゃないし……」
「うまいと思うよ。おまえのイラスト」
おれがそう言うと、カナは少しはにかんだような笑顔を見せた。
「ほんと?」
「うん。かわいい絵柄で、ほのぼのとした暖かさみたいなのが伝わってくる」
「ありがと」
「でもな」
おれはカナの顔を改めて見つめた。アーモンドのような大きな目が、おれを真剣に見つめ返してくる。
「自分の気持ちに正直でいなけりゃ、絵を描いても何をしても面白くないだろ。できる範囲でいいんだ。ギターだってそうだろ。難しい顔して弾く高度なフレーズより、楽しそうに弾く簡単なフレーズのほうが、聴くほうだって楽しいぜ?」
「そっか……うん、そうだね」
真剣だったカナの目が、少し優しげな色を帯びた。
部室を包んでいた、いつになく真面目な雰囲気が少し照れくさくなって、おれは努めて明るく聞こえるようにカナに声をかけた。
「だいたいおまえは真面目すぎるんだよ。眉間に縦ジワ寄せてやることない。頑張り過ぎなんだよ」
「あたしが? 頑張り過ぎ?」
カナは驚いたような顔をしておれを見た。
「そうさ、このベース見ろよ。おまえがベース弾いてたのって三ヶ月くらいだろ? こんなに傷だらけになるまで練習して……」
おれはピックガードを指で指し示した。カナは驚き顔を、やさしげな微笑に変える。
「よく憶えてんだね。そう言われてみれば、あたしがベース弾いてたのってそのくらいだった……あ、そうだ!」
カナはポンとテーブルから跳ね降り、おれのほうに向き直りながら言った。
「このベース、あげる。あんたが使いなよ。弾かずに置いとくだけじゃもったいないしさ」
元の椅子に座りなおしながら、おれの肩のあたりをバシバシと乱暴に叩く。
おれは首を横に振った。
「バカな事言うなよ。楽器だぜ? アメやガムじゃねえんだから、『はい、ありがとう』って簡単にもらえるかよ」
「だって弾かなきゃもったいないじゃん。あげるって」
「ダ~メ!」
おれはかたくなに断った。楽器は高価なものだ。そんなに簡単にあげたり、もらったりするものではない。
「じゃあこうしよう」
さも名案を思いついたという風に、カナはニッコリと笑って続けた。
「あんたのテレキャスターと交換こ」
「おまえテレキャス持ってんだろ。赤いの」
「いいじゃん。ギターは何本あってもさ。気が向いたらピックアップでも換えてみようかな」
「なるほど……」
少し気持ちが揺らいだ。
おれのギターと、カナのベース。もう出番のなさそうな二本の楽器。持ち主が交代すれば、また音を出してやれるかもしれない。
「ね? いいでしょ?」
カナは身を乗り出した。
「おれのギターは二年以上使ってるぞ?」
「あたしのベースだって、たぶん買ってからそのくらいだよ」
「使ったのは三ヶ月くらいなんだから、新品同然だろ」
「じゃあ、こないだ言ってたバーガーセットをもうひとつだ」
「安すぎるよ」
カナは息をつき、胸を反らしながら腕組みをする。
「四の五のうるさいなあ。のるの? のらないの?」
大きな目でおれを睨みながら
おれは苦笑し、少し考えてから言った。
「そうだな。じゃあお言葉に甘えて、ありがたくのらせてもらうよ」
「うん、よろしい」
「何度おごっても足りないな」
「何度でもおごられてあげるよ」
カナはまたニッコリと笑いながら、よしよしという風に頷いていた。
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