第1章
Wild Childたち
春。四月。入学。就職。
世間では、晴れやかなシーズン。出会い、旅立ちの季節だ。
見頃というにはまだもう少し先の、二分咲きから三分咲きの桜並木の下、入学式を終えた新入生たちが、各部、各サークルの勧誘を受けている。
おれたち三人も、二年前は初々しい表情で先輩たちの勧誘を受けていたはずだ。しかし今では、少々くたびれた顔つきで、いまいち気分も乗り切らず、一本の桜の木の根元にぼんやりとしゃがみ込んでいる。
「煙草がすいてえ」
そう言いながら、フジが新入生勧誘のプラカードを握り直した。
フジ。藤井忠之。おれたちのバンド、『ノー・ブレーキ』のリーダー。ギター担当。バンドの名付け親でもある。『ギターは腰で弾く』が信条の、いいかげん極まりない男。女の子に幅広くちょっかいを出しては、ことごとく失敗している。演奏技術は高いとはいえないが、フジの才能は五線譜の上に書き留められるようなものではない。フジの演奏と私生活から滲み出るルーズさが、バンドに不思議なグルーヴを与え、おれたちをうまくまとめている……というのはおれの考えすぎだろうか。
だが、だらしないがどこか憎めない男であるというのは間違いない。
「こんなトコで煙草吸ったら怒られるぞ。しばらく我慢しろって……」
マサが苦笑を浮かべながらフジを諫めた。
マサ。錦野雅。『にしきの・まさし』と読む。「女の子だったら同じ字で『みやび』になってたらしい」とは本人の弁。九州の、小さな温泉町の出身。
固くはないが真面目な男で、常に僧侶のように落ち着いた雰囲気を醸し出している。ドラム担当。何事にもどっしりとして動じないこいつにはピッタリだ。
フジが弾く直感任せのギタープレイは、マサの決して揺るがない、安定感のあるドラミングによって支えられ、さらに引き立てられている。
「いっそのことやめちまえよ、煙草なんか」
そう言いながら、ニコチン不足で苦しむフジをニヤニヤ笑いながら眺めるおれは、鈴村貴也。ギターとボーカル担当。
フジやマサはもちろん、同じ音楽同好会のほとんどの連中は、おれをタカと呼ぶ。鈴村と呼ぶのは最初だけ。『スズムラ』というのは、どうやら発音しにくいらしい。
フジはおれを軽く睨みながらフンと鼻を鳴らした。
「おまえやマサは煙草吸わねえからな……そんな簡単にやめられるもんじゃねえの。ああくそ……アメかガムでも買っとけばよかった……」
フジは座り込んだまま下を向いて、無造作に逆立てた髪を、右手で乱暴にかきむしる。
その時、おれの横に誰かが立つ気配がした。おれが顔を上げるより早く、そいつが声をかけてくる。
「何してんの」
耳馴染みのある女の声。おれたちは三人揃って、ゆっくりと声のほうに顔を向ける。
膝に穴の開いた色褪せたジーンズに、黒いサテンのスカジャンを羽織った小柄な女。足元は、ドクターマーチンのワークブーツ。少しシャギーの入ったショートボブ。伸びかけた前髪の奥で、不機嫌な猫のようにおれたちを睨みつけている目は、10時10分につりあがったアーモンド。
カナだ。
島本佳菜。同じ音楽同好会の、同級生の女の子達と三人組のバンドをやっている。その名も『ムスタング・ドライブ』。勇ましいバンド名に可愛らしい外見。そして荒々しい演奏。カナのパートはギター・ボーカル。おれたちと同じく、この四月に三年生になったばかり。
「ん? 何?」
おれはしゃがんだまま、カナを見上げた。何だか新鮮な光景。見慣れたカナの姿がいつもと違って見える。
カナは仁王立ちでおれを見下ろしながら言った。一音一音、区切るように、はっきりと。
「何、してんの、って、いってんの」
「新入生の勧誘に駆り出されてる」
マサが淡々と答える。
「そうだ。しかも朝っぱらから。今日はおれたち授業も何もないというのにだ」
マサの後を受けてフジが続ける。フジが手に持ったプラカードには『君も音楽同好会に参加してみないか?』と、太く大きな字で書いてある。誰が考えたか知らないが、非常に凡庸なキャッチコピー。
プラカードの空いたスペースにはギターを持ったかわいい男の子と女の子のイラストが描いてある。描いたのはカナだ。絵が上手なカナは、同好会でのチラシのデザインや、イラストの制作を一手に引き受けている。
だが、せっかくのプラカードも、平凡なコピーと、おれたちがしゃがみ込んでいるせいで、新入生たちの目には入っていないようだ。
「勧誘に駆り出されてる? であれば勧誘してるらしく声出せば? 三人揃ってバカみたいに座り込んでるんじゃなく」
どちらかといえば女の子らしくキュートな声をしたカナだが、今は声をいつもより低目に落として迫力満点。おまけに言っていることは全くの正論。
しかし、フジも負けてはいない。減らず口は、ギターと並ぶこの男の特技だ。
「だいたい勧誘って何だよ。新聞じゃあるまいし。音楽ってのは人に勧められて始めるもんじゃねえだろう」
ある意味、フジの意見もまた的を得ている。しかしこの反論のせいで、カナのネコ科の獣のような瞳がさらに攻撃的な色を帯びた。いつもはチャームポイントである筈の10時10分のアーモンドは、フジが注いだ油をここぞとばかりに吸い込んで、辺りを焼き尽くさんばかりの輝きを放っている。
座り込んだおれたち三人の前で、脚を大きく開いて威嚇するかのように立ちはだかるその姿は、小柄なカナを少し大きく見せていた。
さっきいつもと違って見えたのはこれか、とおれは考える。背の小さなカナを下から見上げる事なんか、滅多にない事だもの。
「ふうん、ご高説痛み入るわね。じゃああんた……」
カナは細い腰を心持ちかがめ、フジのほうに顔を寄せて、言った。
「なんで音楽同好会に入ったわけ?」
ほんの少し考えてから、フジはキッパリと言った。
「バンドのメンバーを探すのに都合よかったから」
「そうだな、すぐ集まった」
マサがボソッとつぶやいた。
「タカ、何頷いてんの」
カナは急におれに向かって、言った。
「え?」
おれはフジとマサの言葉に、無意識に頷いていたらしい。
やばい。とんだとばっちりだ。
おれは光の速さで逃げをうつ。とっさに立ち上がり、フジからプラカードを奪い取ると、そいつを高々と掲げながらカナに言った。
「あ~……その……そう! おまえに賛同してたんだよ! おまえのいう通りだカナ、全くその通りだよ」
フジとマサは座り込んだまま吹き出し、笑い転げた。
カナは立ち上がったおれの顔を、今度は下から上目遣いに睨みつけ、
「ふうん……」
と言ったかと思うと、おれの脛に蹴りを入れた。
「
おれの抗議にも、カナは涼しい顔だ。
「だいたいあんたたち、今日、新メンバーとスタジオ入るんでしょ。それまでは、少しは頑張って働きなさい」
今日は、昼から新しいバンドメンバー候補と会うのだ。会って、話して、音を出してみる。
「そうだな……悪いな、忙しい時に」
おれは素直に謝った。カナがほっそりとした肩をヒョイとすくめる。
「別にいいよ……ベーシスト候補?」
「そう……でも元々はギター弾きらしい。とりあえず両方弾いてもらって、担当パートの話はその後だ」
「ふうん……じゃあ、ベースはどうするの? その人はギター持ってくるんでしょ?」
話すうち、カナの瞳から怒りの色が消え、おれは少しほっとする。
「ああ……今日のところは、『ガレージハウス』でレンタルする。そいつにギターを弾いてもらってる時は、おれがベースを弾く」
ガレージハウス。大学の近くにあるリハーサルスタジオの名前だ。リハスタに、小さなライブスペースと楽器店が併設されている。
カナが眉をスッと上げながらおれを見た。
「あんたが弾くの? ベースを?」
「ルート音を追っかけるくらいは、たぶんできるさ……たぶんな」
「じゃあ、あたしのベース持って行きなよ。部室のロッカーに入ってる」
カナはジーンズのポケットから、部室の鍵を取り出した。ソフトクリームの形をした、小さなキーホルダーが付いている。
「おまえの?」
そうだった。カナはバンドを始めてしばらくは、ベースを弾いていたのだ。
だが、ギタリストがバンドをやめてしまい、ベースを弾き始めて三ヶ月程で、ギター・ボーカルにスイッチした。
最初は苦労していたようだが、元々歌も上手く、ギターもあっという間に上達したので、ベースからコンバートしたというのを忘れていた。
「そうだったな……ベース、まだ置いてあったのか」
「何となく……持って帰りそびれてたの」
「二年もか?」
おれは笑った。
「それはまたずいぶん『そびれてた』な。とっくに売っちまったかと思ってた」
「なんだったら、あたしが行って弾いてもいいけど」
カナがそう言いながら、部室の鍵をおれの手に押し付けるようにして渡した。カナの指先が一瞬おれの掌に触れ、おれは思わずドキッとする。
「今日、忙しいんだろ? 気持ちだけいただいておく。ベースは、ありがたく借りていくよ」
「部室の鍵は、ポタ夫やオカピーも持ってるから、返しに来なくて平気だよ。ベース持ったら真っ直ぐ『ハウス』に行っていいから」
「悪いな」
「バーガーひとつってトコだね」
カナはそう言ってにっこりと笑った。
笑った時のカナの目は、意外なほど柔和になる。屈託ない子供のような笑顔と、普段の気が強そうな顔立ちとのギャップがとても魅力的だ。
「バーガーひとつ、か……新しくできたバーガー屋か? 駅ビルの下の」
「ううん、あそこは匂いがダメ」
「おまえもそう思う?」
おれは昨日の、フジの車の中での会話を思い出して笑った。
「バンドの『四人目』が決まったら、おまえにバーガーセットをおごるよ。匂いのしない店でな」
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