岬朝日(3)
――もしも時の流れを
逢魔が時、かつては魔除けの願を込めて吊るされていたとされる風鈴。その涼しげな風の音を耳で拾って、半ば反射的に足を止めてしまう。
目の前では蔵前橋通りの十字路を封鎖する形で出現したアキバ城が、風船めいたものを夕日に泳がせていた。
古城に阻まれ行き止まりとなった車道からは交通車両の姿が消え、週末でなくても歩行者天国に近い景観を見せてくれる。
アキバ城には不可思議な力が働いており……城の中へは踏み入れないのだが、それでも未だに観光客の姿は途絶えることの方が珍しい。
そんな城下付近では商いも目立つ。有紗が待ち合わせに指定した風鈴蕎麦――風鈴で客を寄せる屋台蕎麦――もまた賑わいの隅に紛れていた。
二八十六文、古くは十文や十二文で蕎麦を売る屋台との差別化を図るために風鈴を吊るし二八の旗を携え、薬味などを添えて提供していたのだと聞く。要はささやかな贅沢志向を狙った売り方だ。
現代ではむしろお手軽な食事に分類されるだろう。私は風鈴の音色を聞きながらでは何も喉を通らないので、有紗と思われる人影が満足して屋台から出てくるのを待つことにした。
「…………」
『岬勇司と岬夜空が消えた……その
幻聴、印象付けの一種なのだろうか……風鈴が奏でる音を耳にすると、あの男――識訳庁の監察官――
常に風鈴を持ち歩き、その綺麗な音色とは相反する沈んだ声で話す閂の影が視界にぼんやりと浮かんでいた。
『実際そうなのだから信じて貰うしかないな』
『悪いことだ、倉橋の件といい……何度もまかり通ることでもない』
私だって、これが……張り裂けそうな言い訳は、声の形を成さずに喉を過ぎてすぐ霧散してしまう。
『俺の役目はこの世界にしか働かない……違う世界については俺の役目ではない。だが覚えておけ、岬朝日……それが正しいかどうか、もうやり直すことはできないのだと』
自分が正しい選択をしてこれたとは思っていない。
茨の道を避け、誰かが整えてくれた安全な通路を選んだきたにすぎない。
もしも困難であっても、その道の先へ行けたなら……今とは違う世界が待っていたのかもしれない。
私は、私の後悔をいつまでも吐き出せずにいる。
風鈴の音色が、心の底深くに埋めた筈の罪悪感を内蔵ごと引き摺りだそうとしているような気分の悪さを伴わせる。
「せんせ? 大丈夫?」
不意に声をかけられて閂の姿が薄れる。
相手の輪郭線が二重に霞んでいた。瞬きを繰り返し、それが有紗だと確認してどうにか声を絞り出す。
「……有紗、あぁすまない、大丈夫……何でもないよ」
「顔色悪いけど……けっこう待ってた?」
彼女は心配そうに私の顔を覗き込んでくる。
「そうでもない」
「またろくに食事もとってないんじゃないの? 蕎麦は気分じゃなかった?」
「そういうわけでもないんだが」
「今日は失敗だったかぁ、次は万世橋とかにするね」
「……そうだな」
「ほんとに大丈夫!?」
安心させるために肯定したのだが、どうやら逆効果だったらしい。
彼女はますます不安だとでも言いたげに目を細めていた……何故なのか。
「それで土御門の子はどうだった?」
「うーん……あの子自身は特になにか企んでる様子もなかったけど……考えすぎじゃない?」
「土御門晴先の、いや……識訳庁の目論見が掴めない以上、人手が増えたと素直に喜べないさ」
私も有紗も住んでいる場所は職場である事務所からそう遠くないため、移動は基本的に徒歩で済ませることが多い。
事務所があるジャンク通りを横切り、そのまま神田明神を目指す形で帰路につく。
空は茜色を遠ざけて、まもなく夜の帳が下りようとしていた。
「つかさ君の方は?」
「旺磨に世話をお願いしてある。しばらくは様子見だな、なぁ有紗、あの子のこと本当に知らないんだよな?」
「あんな節操無しに欲情するようなマセガキは日向しか知らないねー」
「親の前でそういうこと言うか……まぁいいんだが。つかさ君は理由もなく異性に抱きついたりするような子には見えなくてな」
「理由かぁ……理由ねぇ」
気付くと通りから私達以外の人の姿が消えていた。有紗が足を止める。
薄暗くなった街中は微かにだが、この世ならざる気配を孕んでいるように感じられた。
「よっ、変わりなさそうだな……元気そうで安心したぜ」
聞き覚えのある声だった、いや忘れるはずがない。
声の主が眼前の暗がりより薄っすらと輪郭を露わにしていく。
覆う闇を払いのける金色の頭髪、その人物は私の中に残る面影よりも幾らか老けていた。髪も無造作に伸びており、片目を覆い隠している。
「勇司……お前、どうしてここに……」
夜空と一緒にこの世界から逃れた自分の夫……岬勇司だと認めて、声が震えてしまう。様々な感情が混ざり合っていて、今の自分がどんな顔をしているのか想像もつかなかった。
「下がっててくれ朝日、俺はな、そっちのお嬢さんに用がある」
「あたし?」
「赤神有紗……でいいな? どうやって朝日に付け入ったのか知らねーけどな、もうこれ以上俺の家族に関わるな」
一方的に敵意を向けられた有紗が隣で乾いた笑いを浮かべる。
「へぇ……好き勝手言ってくれるじゃん。いきなりそんな言われ方をして、はいわかりましたってなると思うわけ?」
「言っても無駄なら、まぁ仕方ねーか」
勇司が一歩、私達との距離を詰めながら腕を振り上げて……傍らに生えていた街路樹の枝をへし折る。
子供の遊びを真似るように細い枝を構えると、その先から光芒が奔った。
それは彼が異世界で勇者と呼ばれる所以の一つ、握ったものが勇者の剣と変わる魔術の証左を示す光となりて、私の視界を眩しく染め上げた。
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