第79話 苦悩

浩平君から山根さんの伝言を受けた後、資料室の片隅で涙をこぼしていた。


『嫌だ… けど、逆らえない…』


同じ言葉と、山根さんにかけられた言葉が頭の中を繰り返す。


【期待してるね】  『嫌…』

【よろしくね】   『逆らえない…』 

【期待してたのにね】『嫌…』 

【戻って来い】   『逆らえない…』

【邪魔よ】     『嫌だ…』



もつれていた記憶の糸がほぐれていくように、記憶の奥底に転がっていた会話がよみがえり、涙を零すことしかできなかった。


しばらく言葉が頭の中で繰り繰り返されていると「美香」と呼ぶ木村君の声で我に返った。


「す、すいません! ちゃんとします!」


「ちょっと上行こうか」


木村君は私の手をぎゅっと握り、事務所を通るときに「ユウゴ、ちょっと頼む」と言い、そのまま2階へ。


木村君は2階の部屋に入るなり、私を強く抱きしめてきた。


しばらくの沈黙の後、木村君は「…早退しな」と…


「まだ作業有りますし、もう大丈夫です」と言ったんだけど、木村君は「手が震えてる。ここに居ていいから、早退しな」と、優しい声で言ってきた後、切り出してきた。


「山根って元上司?」


「…はい」


「戻れって話、現上司の俺が拒否ったらどうする?」


「…でも、山根さんには意見することも、拒否することもできないですし」


「無関係なのに? 無関係な奴には意見も拒否もできないのに、関係者の俺には意見も拒否もできるっておかしくないか?」



確かに木村君の言う通りだ。けど、長年意見することも、拒否することも許されなかったし、私が倒れた後も、あの人には逆らうことが出来なかった。


会社を辞めた時だって、あの人の『邪魔よ』って言う一言があったから、言うとおりに退職したんだ。


今でもあの人には逆らえない…。


『無関係』の一言で、済まされるようなことではないような気がしていた。


『もし、木村君が拒否ったらどうしたらいいの? あの人から逃げていいの? 木村君のそばにいていいの? ここに居ていいの? 怖い… あの人のもとに戻るのが怖い… けど… けど…』


そう思うと、胸が苦しくなってしまい、木村君の背中に手を伸ばし、しがみつくように抱きついた。


木村君は優しく私の髪を撫で「大丈夫だよ。 俺が守ってやるって言ったろ? 大丈夫。 ここに居ろ」と、同じ言葉を繰り返してくれた。


しばらくの間、木村君に抱きついていたんだけど、少し落ち着きを取り戻した後、俯いたまま大きく息を吐いた。


「…すいません。洗面所お借りしてもいいですか?」と聞くと、木村君はエスコートするように腰に手を当て、俯いたままの私を洗面所に案内してくれる。


俯いたまま顔を洗い、手渡されたタオルで顔を拭いた後、木村君は「すっぴんだと昔のままだな」と、小さく呟くように言ってきた。


タオルで顔を隠しながら「…あんまり見ないでください」と言ったんだけど、木村君はタオルを優しく奪い取った。


顔を見られないように、俯いたんだけど、木村君は私の頬を手のひらでそっと撫で「懐かしいな… 少し大人びたけど、あの時のままだ」と言い、私の唇を親指でなぞる。


「…あの時って高校の時ですか?」


「ああ。いつも見てた」


「いつも?…この距離で?」と言いかけると、木村君は言葉を塞ぐように唇を奪い、次の言葉が出てくることを拒んだ。


長すぎるくらい長いキスの後、木村君はゆっくりと離れ「今日は早退な。ここに居て」と言い、1階に行ってしまった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る