一抹の寂しさ
「本当に、本当にやるんだね」
ラスティが額に汗を浮かべながら言った。それは覚悟を決めたものであり、決して後ろ向きなものではなかったが、どこか怯えたような態度がその覚悟を台無しにしていた。
管理区の一階。数日前に四人で座っていたのと同じ席に三人はいた。ソラが座っていた場所は三人とも何となく避けたため空席のままになっている。
「本当にやるさ」
ミドリが静かに言う。その視線は目の前に置いた端末に注がれていた。ソラが置いていったノート型端末。そこにインストールされていたあるシステムの画面を真剣に目で追いながら、それでもラスティに対する優しさは忘れていなかった。
「落ち着きなよ、ラスティ。トイレにでも行ってくる?」
「さっき行ったよ。もう溜息だって出ないと思うね」
「なら腹を括ったということだね。スオウ、準備は?」
問いかけられたスオウが、自分の端末の画面から顔を上げた。目は少し血走っている。
「多分行ける。完璧とは行かないでしょうけど」
「スオウのことだ。失敗してもリカバリ出来るようにしているだろう?」
「当然。ミドリの方はどう?」
「最後の信号を受信から六十万ミリ秒が経過。間違いないね。今、二階には誰もいない」
その報告を受けたスオウは、細く息を吐き出した。単なる溜息とは違う緊張を伴ったもので、これから己が行うことに対しての決意、または一種の諦めが混じっていた。ここまで来たからにはやるしかない。そんな表情のままスオウはキーボードを軽快に打つ。
「じゃあ始めましょう。ラスティもいい?」
「僕が全身から汗を出して脱水症状になる前に始めて」
半ば冗談とも思えない顔色でラスティが言えば、スオウは少しだけ笑った。
「脱水症状になったらソラに文句を言えばいいよ。すぐに会えると思うから」
小さな音と共に一つのキーが弾かれた。数秒、そのまま三人は動きを止めて周囲の様子を伺った。一秒一秒が永遠にも思えるような焦れったさで時が進む。四秒経過し、五秒に手が届きそうになった刹那、周囲の端末が一斉に音を立て始めた。ありとあらゆる電子音を混ぜ合わせたような、不愉快な雑音が建物内を満たす。端末で何かの申請をしていた人々が、驚いて裏返った声を出すのが微かに聞こえた。
「何だ、急に!?」
「ネットワークの不備か?」
「連絡を……」
そんな言葉が細切れに聞こえる中で、ミドリが立ち上がる。視線は二階に向けられていた。これだけの音の洪水の中、誰一人として様子を見にくる気配はない。そのことはミドリが先ほどまで操作していたシステムが正確であったことを示していた。
「行こう」
短く告げれば、言葉すら不要とばかりにスオウとラスティが立ち上がる。混乱する人々の間をすり抜けて、三人は二階に繋がる階段を目指した。それを止める者は誰もいなかった。目の前で不可解なまでの大音量を上げ続ける端末を、どうにか止めなければと、そればかりに意識が向いているようだった。
「素晴らしい出来映えだね、スオウ。あれがただ音声ファイルを無限再生しているとは思わないだろう」
階段の一番下の段に足をかけたミドリが囁くように言う。そのまま駆け上がる背中を追いながら、スオウが笑った。
「物事はシンプルが一番。端末から急にアラート音が響けば、皆冷静ではいられなくなるものね」
「知っててもビクッてなっちゃったもん。心臓に悪いよ」
最後に続くラスティが大きな溜息と共に言う。
そのまま三人は二階へ到達し、下から見えない位置へと滑り込んだ。下の階から音がまだ続いていることを確認したスオウは、左手に開いたまま持っていたノート型端末にコマンドを打ち込んだ。途端に音が止み、その代わりのようにざわめきが起こる。
「今のは何だ?」
「異常事態では?」
「いや、しかしミスターやミスが来ていないということは、想定内の事態かもしれないぞ」
誰かがそんなことを言うと、それに何人かが同調した。
「また何かの政策か? いい加減にして欲しいよなぁ」
「馬鹿、こんなところで口にするんじゃないよ」
「振り回されるのはこっちだぜ? この前だって……」
耳を澄ましてその会話を聞いていたラスティは、口元を手で押さえて笑った。
「本当、ここに上層区の人がいなくてよかったね」
「全くだ。さて、ラスティ。用意してくれたものは?」
ミドリが尋ねると、ラスティは大事に抱えていた布製の何かを差し出した。持ち運ぶことを前提として、可能な限り薄い生地で作られたパーカーが三着。いずれも虹色に染め上げられて、派手という他ない。それを見たスオウが嬉しそうな顔をした。
「いいじゃない、これ」
「可能な限り派手な色にしてみたよ。本当はスパンコールや夜光塗料とか使いたかったけど、そっちが本題じゃないしね」
「これぐらいが丁度いいわよ。それにごちゃごちゃしている方が私たちらしい」
スオウがパーカーに袖を通しながら言う。ミドリも頷きながら自分の分を広げた。
「上出来だ。捕まるのが目的とは言えども、時間がかかっては意味が無い。派手な色をした人間が歩いていれば、ミスターでもミスでも他の誰でもいいが、無視は出来ないだろう」
「目立つかな。大丈夫かな」
「大丈夫よ。ラスティの才能は皆認めてるわ」
鮮やかな服を身に纏った三人は、そのまま廊下を進む。上層区へ続く道を探すのは難しい話ではなかった。なぜなら、床にはきっちりと長年「決まった方法で」歩き続けた痕跡が残っていた。
それを辿り進みながら、ふとミドリが笑い声を零した。それにつられて残りの二人も笑い出す。その笑いがどこから発生したものなのか、具体的に説明することは不可能だった。強いて言えば、三人が感じているのは愉快だとか嬉しいだとか、そういうものではなく、一種の寂しさだった。
不可能だと誰もが思い込んでいた上層区への侵入。ソラはやり遂げて、そして三人も子供だましの手段で達成しようとしていた。これまでの常識が自分たちの一歩一歩により崩れていく。それを受け入れ、そして受け入れがたいと思いながらの笑いだった。
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