無知ゆえの幸福

 不味い、とソラは頭の中の語彙を殆ど放棄する形で、支給された固形食料を噛み砕いた。口の中に残る粉末。飲み込んでも何かが引っかかるような感覚が残る舌。管理区で暮らしていた頃は、それに疑問を抱くことはなかった。他の食べ物を知らなかったからである。下層区に行くまで、食事とはいわゆる「義務」でしかないと思っていた。そこに感情や感想などはいらない。ただ日々消化するためのものだと。


「知らなきゃ、ある意味で幸福なんだろうな」


 ソラが口を開くと、監視役の肩が少し跳ねた。次は何を言い出すのかと、怯えているようだった。ミスターという優れた称号も、こうなってしまうと何の意味もない。


「ミスター・フィドー!」


 わざと声高に叫ぶと、男は小さく息を呑んだ。その音はソラに聞こえなかったが、微かに見える顎と首が上下したのを見れば、予想するのは難しいことではない。

 ソラは椅子代わりにしていた寝台から立ち上がって、相手の元へと近付いた。


「暇だからおしゃべりをしよう。あぁ、いいよ。別に相槌なんて期待してないから。ミスター・フィドー。貴方は上層区の人間らしく振る舞うべきだ」


 まるでミドリのような言い方をして、ソラは笑みを浮かべた。男はこちらを横目で見ながら、唇を噛んでいる。今日こそは余計なことを話すまいと、自らを律している態度だった。ソラはその態度を嬉しく思いながら、固形食料を前歯で噛み砕く。暇つぶしの相手としては、それぐらいが丁度よかった。


「総員集会にはアオは出るんだろ。何しろ「総員」だもんな」


 その問いかけに、男が少し緊張を緩めたのが見て取れた。自分が答えられる、そして答えても害のない質問であることに安心したのだろう。


「えぇ、その通り。総員集会には例外なく全ての住民が参加します」

「例外はない。区別はあるのか?」

「区別はあります。当然ながら、我々とそれ以外です」

「じゃあ役割が違う?」


 男はソラが踏み込んだ質問をしてきたのに気付いて眉を寄せた。答えることを避けるように顔を逸らす。


「役割があるはずだ。そうじゃなきゃ集会なんてものは開けない。招集したり、連絡したり、会場を整えたり。そうだろ」

「答える義務はありません」

「それはわかってるよ。だから答えなくてもいい。勝手に汲み取る」


 語尾を強めて言えば、男が膝の上で拳を握るのが見えた。警戒をしている。ソラにはその情報だけでも十分だった。上層区の人間は、こういった言葉の駆け引きには慣れていない。互いに決められた方法でのみ対話を行い、それ故に変化は少ない。何かの議題に沿って話をするには効力を発揮するのかもしれないし、それこそが彼らの本領なのかもしれない。


 ソラが昔、サルベージしたデータの中で「低文脈文化」「高文脈文化」というものがあった。かなり難しく書かれてはいたが、要するに対話の上で、文書の情報に価値を置くのが低文脈、文書以外の情報に価値を置くのが高文脈とされていた。

 上層区は低文脈文化の傾向が強く出ている。定められた言葉と文章に重きを置いて、それ以外の個人の感情やら特定の状況やらは情報に含めない。逆に、下層区は高文脈文化の傾向が強い。規律というものが存在せず、毎日のように変わる政策の中では、言葉や文章よりも、目で見た情報や聞き取ったことに対する感情の方が重要視される。


「馬鹿みてぇ」


 そこまで考えて、無意識に短い言葉を零した。知識をこね回して、醜悪とも言えるような推論を叩き出す。それはソラの性には合わない。

 五日間、この部屋ですることと言えば、不味い固形食料を食べる他は、思考を巡らせるかミスター相手に喋り倒すくらいだった。恐らくその単調な日々が、碌でもない理屈を生み出したに違いなかった。


 低文脈文化と高文脈文化は、それはただの区分に過ぎない。どちらが優れているということもなければ、どちらが先んじることもない。ただ「言葉以外の情報」の重要度を低くするか高くするか、それだけのことである。分析したところで殆ど意味はない。


「総員集会で、アオの役割は何?」


 しかし、その馬鹿げた分析は、今この瞬間にだけは役に立っている。すなわち、必要な情報を相手から吸い上げるという意味で。


「答える義務はありません」

「集会の目的は、俺の処遇についてだ。となれば、俺が特別室で何をしたか、そしてどうして上層区に連れてこられるに至ったかの説明が必要だ。その説明は俺とアオにしか出来ない」

「静かにしなさい。それを聞くことは」

「アオから事前に証言を引き出すとしてもだ」


 ソラは無視して言葉を続ける。上層区に、下層区から来た人間をどのように扱うかの決まりがないことは連れてこられた初日にわかっていた。彼らはソラの扱いに困っている。例え、ソラの態度が不快だとか、不適切だと感じたところで、決まりがないのだから何も出来ない。


「その証言が正確であるかどうかを、アオ自身がその場で証明しないといけないんじゃないか?」


 男の目元が少し動いた。わかりやすい反応にソラは満足する。

 こうして至近距離で接していると、ミスターと言えどもただの人間だった。否、この男が一際単純である可能性も捨てきれないが、今の所ソラにはその判断はつかない。


「総員集会において、アオには大事な役目がある。そうだろ」

「回答を拒否します」

「拒否」


 まるで新しい単語を聞いたかのように、ソラは嬉しそうに繰り返した。


「拒否ってのは強い言葉だな。それを使わないといけないってことは、よほど答えたくないか、あるいは重要な内容だってことだ」


 男の目元がまた動く。それに似た動作を、ソラは今まで何度も見てきた。ラーメン屋で、路上で、海岸で。それと同じか、あるいは全く別のものか。確かめるためにソラは笑い混じりの声を出す。


「いや、それとも何も知らないのかな」

「……うるさい!」


 大声が部屋に響き渡り、ソラの鼓膜を震わせた。同時に、男が鉄格子を叩きつけたことによる鈍い音も混じる。男はソラを殆ど睨みつけるようにして、顔を引きつらせていた。それを見たソラは軽く肩を竦める。


「怒るなよ、ミスター。下層区の人間じゃあるまいし、感情を顕にするなんて良くないんじゃないか?」


 男はその指摘に、我に返った顔をした。そして、今自分がしたことを確認するように、鉄格子に叩きつけた拳を見て、そして拳を解いて自分の頬やら額やらに触れる仕草をした。信じられない、とその態度は語っていた。感情任せに怒鳴ったことに、彼自身が一番驚いていた。


「ミスターも人間なんだよな。当たり前だけど」


 ソラのそんな呟きを、男は全く聞いていなかった。引きつった頬を、顔を撫でることによってなんとか元に戻し、高ぶる心臓を沈めるために何度か深呼吸をする。一分にも満たない動作だったが、それは何かの儀式のようにも見えた。


 男は漸く平常心を取り戻すと、椅子に座り直した。しかし、先程とは違って、自分の仕事としてそこに座っているというよりは、鉄格子から目を逸らすためにそうしているように見えた。ソラはもう一度ちょっかいを出すべきかどうか悩んだが、その悩みは数秒後に解決された。


「ミスター・フィドー」


 少し離れた場所で、扉が開く音がして、女の声が響いた。


「総員集会が始まります。収容者を適切な方法で外に出しなさい」

「わかりました、ミス・エシカ」


 男は即座に返事をした。女がそれを伝えに来たことを明らかに喜んでいた。鉄格子の隙間から覗き見た顔は、先程までと違って晴れ晴れとしたもので、一刻も早くソラから開放されたいと思っていることは明白だった。

 ソラは少しばかり傷ついたものの、逆の立場だったら同じようにするとわかっていたので、特にそれに対する抗議はしなかった。代わりに固形食料の残り半分をテーブルの上に置いて、服についた欠片を手で払った。

 この先に待つのが何かは知らない。それでもソラは慌ててはいなかったし、怖がってもいなかった。行く先にはきっとアオがいる。それがわかっていれば十分だった。

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