誰そ彼

 いつもよりも部屋の中はざわめていた。彼らの殆どが同じ話題で盛り上がっていることに加えて、その私語を注意するためのミスターやミスがいないのが原因だった。

 アオはそのうちのいくつかの視線が自分に向いていることに気がついていた。あの騒ぎの中、ソラのことを目にした者は何人かいた。その直後に管理区に侵入者がいたことが報告された。あれは誰なのか、そしてアオはそれに関わっているのか、気になるのも無理はない。

 それらの視線を、いつものように、要するに普段の政策適用時に向けられる嫉妬と羨望と同じように受け流し、イグノールの画面に目を向ける。いつもならとっくに起動して、入力端子のアクセスが始まっているはずだった。しかし今日はそこに違うメッセージが表示されていた。


「アカネ」


 アオは隣に座る金髪の若い女に声を掛けた。アカネは端末から伸びたコードの先にある、円錐状の入力端子を規則的に押しては離すことを繰り返していた。アオの時間感覚に狂いがないのであれば、五分以上経過している。つまり、本来ならばイグノールが通常起動する時間から、ずっと。


「私語は厳禁だよ」

「今日はいいんだ。ミスターたちはいないでしょ」


 アオがそう言うと、アカネは手を止めて周囲を見回した。いつもと違う様子に驚いた顔も見せなければ、興味すら示さなかった。そもそも、そんなものは見えていないのだろう。アカネはミスターたちの姿を探しているだけで、それ以外の目的はない。


「いないことは確認出来たけど、なぜいないのかは不明だわ」

「その理由は、メッセージの内容に記載されているよ」


 機械的な文法を使用して、アオはアカネの意識を再びイグノールへと戻した。そちらのほうがアカネには伝わりやすい。かつては好き勝手に端末を操作していた彼女は、いまや何処にもいなかった。それを考えるたびに、何故かアオは息苦しさを感じていた。


「五日前に」


 アカネが文章を目で追いながら読み上げる。


「管理区で発生した侵入事案について、総員集会を開催する。日時は」


 流れるような声だった。それがメッセージの右下に記載された文書番号までも読み上げるのを、アオは何とも言えない気持ちで聞いていた。

 此処にいるのは誰だろうか、と意味のない問いが頭に浮かぶ。そんなことは考えるまでもない。此処にいるのはアカネである。記憶も姿もアカネで、矛盾はしていない。だがアオがずっと親しくしていた少女とは全く別物に思える。

 性格、あるいは人格が変質したためだとするならば、または彼女をアカネと認識出来ないのであれば、こうして今も一緒にいることに意味はない。それはアオにはよくわかっていた。アカネがアカネでなくなったのなら、傍にいても仕方がない。それにも関わらず、アオは今朝も彼女と並んで食事をしたし、一緒にこの部屋にも来た。


「これには参加義務がある。そうでしょう」


 アカネがアオに問いかけた。瞳の中は空虚で、何もないようにも見えたし、何かよくわからないものが詰まっているようにも見えた。


「そうだよ。しかも、僕はただ参加するだけじゃなくて状況説明をしないといけないんだ」

「何のために?」

「今回の件に関して、皆が正しく状況を理解して適切な判断が行えるように」

「大事なことだね」


 小さく、アカネが笑う。アオはその笑みを一瞥してから「そうだね」と返した。


「皆で結論を導く必要があるんだ。それがハレルヤの意思であり、ミスターやミスの総意でもある。僕たちは正しい道を選択しなければいけない」

「正しい道」


 アカネがその単語を鸚鵡返しした。


「正しい道って何?」

「え?」


 アオは慌ててアカネを見るが、先ほどと同じ薄い笑みが顔に貼り付いているだけだった。ほんの一瞬、以前のアカネのような言葉が発されたと思ったのだが、ただの偶然だったらしい。アオは少しだけ落胆しながらも口を開いた。


「正しい世界に向かうための正しい方法や手段、思考のこと」

「パーフェクト。正答だね」

「本当にそう思ってる?」

「思ってるに決まっているじゃない。それが私たちの役割でしょう」


 無垢な言葉だと、アオは思った。純粋に「正しさ」を信じている。アオも少し前まではそうだった。正しさというものが何処かに、ハレルヤの内部にあって、自分たちはそれをただ求めていけばいいのだと。

 しかしソラはそれを覆してしまった。アオから見れば愚かしいまでに直情的で、それでいて冷静で、貪欲な片割れは、何も考えずに答えを手にしてしまった。


「アカネ。僕ね、悩んでるんだ」

「何を悩んでいるの?」


 決められた反応を決められたように返すアカネに、アオは淡々と言葉を続けた。話し相手は誰でもよかった。しかし、誰でもいいのであればアカネが良かった。


「最適解を出すべきかどうか」

「それが最適であるなら、迷う必要はないと思うけど」


 予想できた答えだった。恐らくカナタに聞いても同じことを言うに決まっていた。そんな答えは望んでいなかったが、他の誰かの答えを欲しいわけでもない。堂々巡りの混乱した感情の中で、それでもアオは微笑んだ。仄暗い絶望を奥歯で噛み締めるようにして。


「ありがとう、アカネ」

「どういたしまして」


 不意に静寂が部屋を満たした。部屋の出入り口にミスが一人立っていた。その表情はいつもと比べて、少々緊張しているようだった。全員、彼女が何をしにきたか悟っていた。口を閉し、目を見開いて、その目的が告げられるのを待つ。女は息を浅く吸い込んでから静かに言った。


「総員集会を開始します。全員、規定のルートを使用して移動しなさい」


 アオは遂に来てしまった時間に溜息を吐きながら立ち上がった。既にアカネは部屋を出るために歩き出していた。その背中を追うようにして、アオは少し歩を早めた。

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