禁じられた遊び

 ソラは、瞬間的に自分の鼻腔の奥のほうが熱くなるのを感じた。それがどういった理由によるものかはわからない。それに続いて胸に去来したのは、得体の知れない罪悪感だった。他人の行動を見て、そんな感想を抱くのは馬鹿げている。そう主張する理性を、本能が無理矢理にねじ伏せているようだった。

 ミドリと一緒にいるのは、偶に見かける同世代の女だった。エリスと呼ばれていた記憶がある。栗色の長い髪を無造作に束ね、鼻頭にそばかすの目立つ、少し野暮ったい風態をしていた。しかしその顔の大半は、ミドリの影に隠れて見えない。


 あれが「キス」という行為であることをソラは知っていた。かつては友愛の証としても広く使われていたジェスチャーである。だがソラ達はその行為を「生殖行為につながる原始的な行い」としか思っていなかった。古い映像データを漁れば、キスシーンはいくらでも出てくる。あるいはもっと直接的なシーンも。

 見慣れたものの筈なのに、目の前で、しかも知り合いがその行為を行なっているという状況が、ソラを酷く動揺させていた。


「それじゃあ、またね」


 相手の女が唇を離し、掠れた声で言った。素っ気ない言葉には、映像データで良く聞くような媚びた響きはない。作業台を迂回して出入り口の方に向かってくるエリスを見て、ソラはどうすべきか悩んだが、結局そのままそこに立っていた。

 ドアを開けたエリスは、ソラを一暼したものの、何も言うことなく傍らを擦り抜ける。今の状況を見られたことを、何とも思っていない様子だった。数秒、立ち尽くしたままだったソラは、段々と冷静さを取り戻してくると、今度は急に気恥ずかしさを覚えた。他人同士のキスを見ただけで動揺し、間抜け面を晒していた自分への嫌悪がそこにはあった。


「ミドリ」


 中に一歩踏み込みながら開いた口は、異様に乾いていた。声もそれに伴って、不自然に引きつったものとなる。

 作業台のところから動いていなかったミドリは、その声に気が付いて振り向いた。


「おや、昨日ぶりだね。何か御用?」

「……今、何してたの?」

「今?」


 ミドリは何を言われたかわからない、と言うように首を傾げたが、そのままの格好で「あぁ」と呻いた。


「あれはキスまたは接吻と……」

「それはわかってるよ。どうしてそんなことをしていたのかって意味だ」

「エリスが興味があると言った」


 文献を引用するような口調でミドリは答えた。ソラが黙っていると、口角を少し吊り上げるようにして笑う。


「そして、私も興味があった。過去に人間が当然のこととして行なってきた行為。それがどういうものか確かめたかったというわけ」

「何のために?」

「意味なんてない。強いて言えば、確かめるために確かめたってところ。別に禁止された行為でもないし、互いに失うものがあるわけじゃないでしょ?」


 確かに、生殖行為とそれに準ずることは禁じられてはいない。しかし、もはや意味を為さなくなった行為を、好んでする者は滅多におらず、それを行う者は異端であると受け止める風潮があった。

 だがミドリは悪びれた様子もなく、先ほどまでエリスと触れ合っていた唇を右手の親指でなぞる仕草をした。


「そういうのは、男女でするものじゃないの?」

「どうかな? 映像データでは圧倒的に男女の組み合わせが多いけど、同性同士のものもないわけじゃない。第一、生殖機能を持たない私たちにとって、性別なんてのは個人の識別要素に過ぎないわけじゃないか。ミドリという名前の女性、ソラという名前の男性。それだけさ」


 ミドリはわざとらしく、片方の眉を吊り上げてみせながら言った。聞き分けの悪い子供を諭すような、そんな態度にも見える。


「かつて存在して、今は失われた文化はいくつもある。それらをハレルヤは「不要」と切り捨てたわけだけど、本当にそうかな?」

「管理区でそんなこと言ったら、ミスターにしこたま怒られそうだな」

「じゃあ下層区だけで言うことにしよう。不要なものの中に、何かいいものが残っているかもしれない。例えば、私たちなんかはハレルヤによって選別され、上層区には不要とされた人間だ。じゃあ全員要らない存在か?」

「それは……そうとは、言い切れないけど」


 先ほどの光景が脳裏を過ぎる。生憎とソラは、今の感情を表す語彙を持たなかった。胸のあたりがざわめいて、足元が落ち着かない心地がする。


「難しく考えなくてもいいじゃないか」


 ソラの複雑な表情を見て、ミドリは苦笑してみせた。


「気になったことを追求する。欲しい知識を手に入れる。それだけのことだよ」

「知識の探求ってことか?」

「そうだよ。それで全ては説明がつく」


 あっさりとした言葉だったが、ソラはそれを聞いた途端に胸の中のざわめきが消えたのを感じた。いつからか無意識に植え付けられた価値観の、ほんの一欠片が解放されたに過ぎなかったが、それでもソラには充分だった。


「そうか。そうだよな。知りたいことを知るだけ、か」

「単純な話だよ。ソラもキスしてみる? 私の考えでは、これは体外から体内に接続する器官の……」

「それは止めておく」


 相手の言葉を遮るようにして拒否をすれば、ミドリは少し残念そうな顔をした。同性の次は異性でと思っていたのかもしれない。


「昨日のサーバ、此処にあるんだろ?」

「あぁ。でもあまり調べてないよ。昨日はあの後、エリスと話をしていたから」

「もし使わないなら、俺にくれない?」


 直球に切り出したソラに、ミドリは少しだけ目を見開いた。

 

「俺のツレが解析の手伝いをしたんだ。俺が貰ってもいいだろ?」

「それは構わないけど、新しいもの好きのソラにしては変わってるね。いつも古いものは興味示さないのに」

「ミドリが言うところの知識の探求だよ」


 ソラはそう言って、純粋な笑みを口元に浮かべた。


「欲しい情報は自分で手に入れる努力をしないとな」

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