知らない数値
「本日のカリキュラムです」
いつものように課題が告げられ、イグノールの画面に下層区のデータが表示される。一瞬だけ黒くなった画面に映った自分の顔にアオは少したじろぐ。鏡像となったその顔は、ソラにしか見えなかった。
ハレルヤに保存されているパーソナルデータを信じるのであれば、アオとソラは人工培養の過程で出来た「エラー」である。正常系のエラーであるため、廃棄はされなかった。もし異常系のエラーならば、その他の遺伝子疾患を持った受精卵と一緒に海に流されていたに違いない。
「始めてください」
その声にアオは我に返った。課題が述べられたことに、全く気が付いていなかった。慌てて画面に視線を向けると、そこに文字が浮かび上がる。ガンマ地区における昼夜の人口分布の偏りを平均化するように、と書かれていた。その下には少し小さな文字で、課題を出した理由も併記されている。道路の利用率が一箇所に集中しているため、道路の劣化速度に偏りが出ている。下層区住民による不適切な使用が原因だと、少々堅苦しい文面で説明されていた。
いつものように入力デバイスを操り、いくつかの施設を選択する。開かれた小さなウィンドウには、平均通行量よりも遥かに多い数値が表示されていた。この数値を下げるのは簡単なことだった。隣接する道路を一つ消してやればいい。そして、逆方向に新しい道路を作る。それだけで数値は安定し、交通量も平均へと戻る。
アオはそれをわかっていたし、更に効果的な方法も知っていた。だが、入力端子を握る手には汗ばかりが滲んで、一向に指は動かない。
脳裏を過るのは、あの不衛生な場所だった。食べ物なのかそうでないのかもわからない、混沌とした匂いの洪水。規則性もなく立ち並ぶ粗末な建物。その中で笑い合う人々。嬉しそうに自分を見ていたソラ。
この数値の偏りは、あの場所のために発生している。それだけではない。前にアオが「不要」と判断して潰してしまった海岸への道も、下層区の人々にとっては大事なものだった。下層区に行かなければ知ることもなかった現実が、アオの理性を乱す。あの場所を潰してしまって良いのか。潰してしまったら彼らはどうするのか。否、ソラはどんな顔をするのか。海岸への道が閉ざされた時と同じように諦めて笑う姿を想像し、アオは吐き気を覚えた。
「アオ」
頭上から冷えた男の声がした。
「手が止まっています。それほど悩むものではないでしょう?」
指導係である男の言葉に、アオは顔を上げた。周囲の何人かが視線をこちらに向けているのに気が付く。その目はいずれも似通っていた。簡単な問題に悩んでいるという仲間に対する憐憫、興味、嘲り。ましてそれが、平素から優秀とされているアオに向けるものであれば、嘲りの色が一層強い。
「大丈夫?」
横からアカネが心配そうに声を掛けた。いつまでも動かずにいることを心配しての言葉だったが、アオはそれを聞いた途端に顔に血が昇るのを感じた。
周囲が今向けている眼差しは、普段からアカネに向けられているものと同じだった。周りと異なる価値観を持ち、今まで一度も政策を適用したことがないアカネ。そんな彼女と同列のように扱われている。アオは自分の中にある醜い自尊心を自覚したが、どうすることもできなかった。アカネに対する親愛は、呆気なく意識の外へと追いやられる。見つめてくる瞳を振り払うようにして、アオは毅然と顔を上げた。
「最適を決め兼ねていました。二つの案のどちらも捨てがたくて」
そう言うと、指導係の男は鷹揚に何度か頷いた。
「望ましい悩みです。悩みこそが成長の糧だと、ハレルヤも論じている」
その言葉に、周囲は途端に鼻白んで顔を背けた。「優等生の失態」という一大イベントが中止になったことを、悔しがっているようにも見えた。
「ミスター・カロク。この場合はどうすべきなのでしょうか」
「君の苦悩はわかります」
男はしみじみとした口調で言いながら、少し身を屈めるようにしてアオの顔を覗き込んだ。頬のこけた鋭利な印象を与える顔に、刃物で引いたような笑みが浮かんでいる。
「かつて同じことで悩み、同じように質問をしました。得た答えは非常にシンプルなものでした」
「その答えは?」
「どちらがより良く未来につながるかです」
未来、と男はもう一度繰り返した。舌先でその発音を楽しんでいるかのようだったが、笑みの張り付いた表情は変わらない。
「我々は下層区の人間を未来に導いているのです。ならば、次の政策にも繋がるように、今の政策を考えるべきです」
「未来に、導く」
「それが上層区の人間の義務です。君がその義務を全うしたいのであれば、目先の政策で満足してはならない」
男が体を話した。アオは、少しだけ大きく息を吐き、自分が少し緊張していたことに気が付いた。背筋を伸ばし、相手の方に視線を向ける。
「ありがとうございます、ミスター・カロク。僕の取るべき政策は決まりました」
「お役に立てたのなら何よりですよ、アオ」
男はそれだけ言って歩み去る。アオは入力用のデバイスを握りしめると、モニタの上に表示されたデータの操作を始めた。ひりつくほどに頬に感じる、アカネの視線には、気付かぬふりを貫いた。
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