疑問を零す
『食事を開始してください』
食堂に並んだテーブルに、一ミリの狂いもなく等間隔に置かれた皿。その上には茶色い固形食糧が置かれている。栄養バランスを完璧に整えられたものは、上層区が生み出した最高傑作の一つだった。
皆が一斉に手を伸ばして、その固形食糧を掴む。いつもその時には食堂に大きな音が響いた。誰もが一人の遅れもなく行動したという証拠であり、食事を見守る教育係は誇らしそうな表情をしている。
『私語を許可します』
そのアナウンスと共に、広い食堂の至る所から話し声が聞こえ始める。アオはそれらに無関心な素振りでスムージーを飲んでいたが、隣に座っていたアカネが話しかけてきた。
「権限は付与されたの?」
「あぁ。でも思ったよりあっさり終わっちゃって、拍子抜けしたよ」
ハレルヤの持つデータベースは、数時間前に更新された。アオの個人情報を記載したスポットには、「修正者」の文字が追加されているはずだった。それを実際にアオが目にすることは、恐らく殆どないだろうが、想像するだけで気分が高揚するのを、抑えることは出来なかった。
「修正者の次は何だっけ?」
アカネが純粋な疑問として口にするのを、アオはまるで信じられないものでも見るような目で見た。
「覚えてないの?」
「あまり興味がなくて」
「修正者の次は作成者だよ。ハレルヤのデータベースにスポットを追加することが出来る。さらにその上が削除者。そして一番上が管理者だ」
「アオは管理者になりたいの?」
「勿論だよ。上層区の人間なら誰しも目指すものじゃないかな?」
「別に私はそんなものになりたくない」
固形食糧をかじりながら、アカネはそう呟いた。
「私が欲しいものは此処にはないから」
「欲しい物って?」
「答え」
アカネは一文字ずつ区切るように口にする。まるでそれが未知の単語でもあるかのように、唇の動きは慎重だった。
「政策が失敗する、その答え。ハレルヤにはきっと解答出来ないの」
その時、二人の後ろで靴音が軽く響いた。音に反応するより早く、静かな声が投げかけられる。
「今、ハレルヤを否定する言葉を発したのは?」
女の声だった。部屋の隅にいた教育係の一人であることを予測しながら、アオは視線だけ後ろに向ける。だが、視界に入ったのは黒いスーツの裾だった。それが何を意味するか悟ったアオは身を固くする。だがアカネは平然と振り返ると、その場に立ち上がった。
「ミス・エシカ。私の発言です」
「何故そのような言葉を?」
「疑問を抱いたからです」
周囲は食事を続けながらも、アカネのことを横目で見ている。絶対的存在たるハレルヤの次に権力を持つ「ミスター」「ミス」を前にして、アカネはあくまで平静な顔つきをしていたが、唇からは血の気が引いていた。
上層区の人間は正しくあるべき、という教本に従って背筋を伸ばしているに過ぎないことが、アオの位置からは一目瞭然だった。
「疑問をもう一度述べなさい」
ミス・エシカはそう告げる。痩せぎすで猫背気味、目ばかりが大きい女性であり、年齢はもう三十を超えていると思われたが、声だけは妙に甲高い。噂では上層区に来て早々に『権利者』となった逸材であり、ハレルヤのお気に入りの一人とのことだった。
「述べなさい」
黙りこくるアカネに、エシカは再び告げた。水分を失った下唇を一度噛みしめて、アカネは顎を上げる。
「我々が優秀であるならば、何故政策を日々更新する必要があるのでしょう。ハレルヤは答えを出力してくれません」
「下層区は非常に無秩序です」
エシカは平坦な声で返す。
「ハレルヤが統率するのは非常に簡単なことでしょう。しかし、ハレルヤは人間の世界は人間が統治すべきだとし、この仕組みを作りだしました。政策が度々失敗に終わり、度々更新するのは、ハレルヤに我々が及ばないということを示します」
アオはエシカがそう答えながら、スーツのポケットを指先で叩くのを見た。恐らくそこには、彼女たちがハレルヤより与えられたマニュアルメモリが入っている。黒く平たい板状のメモリは、その中にこの世界の規律を全て収めていると言われている。言わば、世界の縮図だった。
「だから沢山の政策が必要なのですか、ミス・エシカ?」
「その通りです」
「下層区の人々は疑問に思わないのでしょうか。政策とは理想の世界を普遍的に維持することではないのですか?」
「下層区の人間には政策が出来ません。我々が政策を作らなければ、彼らは永遠に理想にはたどり着けないでしょう」
断言するような言い方に対して、アオは脳の奥が刺されるような感覚を覚えた。脳裏に過ぎったのは、八年前と変わらないソラの笑顔だった。下層区の世界を理想に近づけることが出来れば、ソラも幸福になれる。アオはそう信じていた。
「貴女の疑問は大変愚かです。しかしながら、多様的な見方が出来る……。そのようにハレルヤには報告しておきましょう」
アカネは何か言おうとして口を開くが、エシカはそれを遮るように声量を上げる。
「勘違いをしないように。貴女にハレルヤへの批判を許し、その内容を認めたわけではありません。ただ、疑問を抱くのは罪ではない。それだけのことです」
そう言い残して、エシカは踵を返した。周囲は慌てて食事を再開する。
ヒールの音を高らかに鳴らしながら、エシカは食堂を横断し、外へと出て行った。
「……冷汗が出たよ」
アオが小声で言うと、アカネは「ごめん」と小さく呟いた。その顔は、どこか釈然としないものを抱えていた。
「感心しないな。ハレルヤに楯突くようなことを言うなんて」
「どうして?」
「どうして、って……」
アオはその答えを探そうとして、だが明確なものが自分の中にないことに気付くと困惑した。
『食事を終了してください』
折よく指示が出たので、アオは急いで固形食糧を口の中に入れて、水を流し込んだ。砕けた欠片が床に落ちて、どこかへと転がっていく。アカネの視線はその行方を追うように落とされていて、アオの方を一瞥すらしなかった。
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