上層区と下層区

 何年前のことかはわからない。それは徐々に広がって、やがて取り返しがつかないところまで悪化した。地球汚染によって人類の生殖機能は退化し、生まれてくる子供達にその機能が満足に備わらなくなった。

 政府は人類の存続のために、細胞を組み合わせて子供を作り出す技術を完成させた。全人類の細胞を管理し、組み合わせる役目を担ったのがハレルヤだった。


 生まれた子供に親はなく、しかし育てる環境が必要だった。ハレルヤが稼働する頃には既に家族という最小単位のコミュニティは失われていた。

 管理区で育てられた子供を、ハレルヤは親として導くことになった。優れた者は「上層区」、それ以外は「下層区」。下層区を管理する多くの頭脳が、ハレルヤには必要だった。


「って言うけどよー。どうやって判別してんだろうな」


 ソラの言葉に「また始まった」と高い声が応じる。管理区の前にある広場では、人よりも鳩が賑やかしく囀り、偶に気まぐれな者が投げたパンを奪い合っていた。

 上層区と下層区を分けるための施設は、いつ見ても一点の曇りもなく白い。出入り口が一つだけあり、それを中心として両翼に壁が伸びている。埋め込まれた窓硝子に偶に人影が映るものの、彼らは窓の外に視線を向けようとしなかった。


「いつもそれ言ってるよね」


 ベンチに腰掛けたソラは、右隣でノート型端末を操作している女を見る。ショートカットにしてから惰性で伸ばし続けたと思しき髪は、首後ろで一つでまとめられている。傷んだ毛先が風に吹かれて微かに揺れていた。赤茶色に染めたのか、それとも茶色に染めて赤みが出たのか。それはソラにはわからない。一つ年上の女は、頻繁に髪型やら服装やらを変えるので会う度に印象が違う。


「十歳で才能に見切り付けられるんだぜ? それって結構残酷だと思うんだよな」

「でもその代り、責任は負わなくていい。経済が悪化しても、治安が不安定になっても、ぜーんぶ上層区の責任でしょ」

「それだよ、それ。偶に無能がいるよな。急に精肉工場を止めてみたり、煙草工場を停止させたり」


 上層区で決められた政策は下層区に適用されるが、一週間か二週間程度で大きく転換するものも少なくない。下層区の住人には必要最低限の衣食住が保証されているが、度重なる政策の転換は何人かの経営者を路頭に迷わせては首を吊らせる。


「だから結構適当なんじゃないかって思うんだよ、選別って」

「それが本当なら大問題だね。はい、調整完了」


 女はノート型端末をソラに渡す。


「最新型追跡ツールをインストールしておいてあげたよ。いつも言う通り……」

「動作は保証しない、だろ。わかってるよ」

「お代はいつも通り、電子通貨で」

「明日までに入れとくよ」


 端末内に入れたばかりのツールを使い、ソラはキーボードに指を走らせる。下層区に来てから覚えた技術は、ソラに生活をするための能力を与えてくれた。

 生活費は与えられているとは言え、欲しいものが欲しい時に手に入るだけの金が欲しいのは皆一緒である。この国が二分化されてしまう前から存在する商売は、上層区の管理下にあっても根強く残っている。

 ラーメン屋もパン屋もケーキ屋も、この国では正規の商売ではない。商売していること自体は罪にはならないが、政策により倒産の憂き目に合ったとしても、誰も助けてはくれない。


「まぁ、あまり危ないことには首突っ込まないほうがいいよ」


 忠告じみた言葉に、ソラはあからさまに不機嫌な表情を浮かべて見せた。


「お前が言うか、スオウ」

「私はほら、上層区の御用達エンジニアだし。こうしてちょっとしたお小遣いを稼ぐのは見逃されてるんだよ」


 ベンチから立ち上がったスオウは黒いリュックを肩に担ぐ。完全に閉じていないファスナーの隙間、その奥に顔写真付きのカードキーが見える。

 技術が発展して人体認証システムも大きく進歩した。それでも百年単位の歴史を持つカードキーが使われ続けるのは、単に安価だからである。上層区が頻繁に変える政策の中には、セキュリティ面の強化も含まれている。新しい規格に安価かつ最速に適合出来るカードキーは未だに衰退の色を見せない。


「スオウの会社、儲かってるんだろ。小遣いなんか必要ねぇじゃん」

「あんなの、上層区から仕事貰えなくなったら終わりだよ。上層区にとって下層区の企業なんて、使えなくなったらポイ捨てだもん。それがわかってるから、あんたもうちの会社に入らないんでしょ」

「別にそこまで考えてない。俺は自由に遊んでるのが性に合ってるだけだって」


 情報屋として個人で活動するソラを、いくつかの企業や団体が招き入れようとしたのは二度三度ではない。その度にソラは曖昧な言葉で断り続けていた。

 もう少し年を取れば、そのような道を考えないわけでもないが、まだ若いソラにとって会社とは「鬱屈」の象徴のように思えた。


「まぁ気が向いたらうちに来なよ。ソラだったら大歓迎。上層区のクソみたいな仕様変更の嵐にもついて行きそうだしね」

「へいへい、考えておきまーす」


 スオウが駅の方へ去って行くのを見送ってから、ソラは画面に視線を注ぐ。慣れた手つきで長いコマンド打ち込み、それが間違っていないことを確認してから、キーボードを叩いて実行をかける。


「追跡開始」


 管理区域の中にあるネットワークに侵入し、室内にあるセンサーの情報を収集する。画面に真っ黒な窓が表示され、そこに無数の英数字が次々と出力されては下に流れていった。

 これは管理区域で生じる音や空気の乱れを数値化したものであり、専用のコンシューマがあれば、立体映像にすることが可能である。だがそれには非常に高いスペックの端末を要する。ノート型でもフルカスタマイズをすれば出来ないことはないが、処理に時間がかかってしまい、リアルタイムに中の状況を追跡することが出来ない。


「光感センサ良好。人感センサはヒット数四二パーセント。反響速度と重量計算で……」


 必要な数字だけ読み取り、ソラは頭の中で管理区の構造と人間の移動を計算する。複雑な式の一部は端末にインストールした別のアプリケーションに手助けしてもらいながら、次第に全貌を作り上げていく。

 ソラにとってこの程度のことは、目玉焼きを作るより簡単なことだった。


「歩き方が一人だけ違うな。こいつかな?」


 内部で移動するいくつかの熱源のうち、ソラは一つに狙いを定める。管理区域にはマザーコンピュータ「ハレルヤ」が使うためのセンサーが数多く設置されている。スオウはその点検や設定変更のために内部で作業をすることが多いエンジニアであり、その仕様に詳しい。


 ソラはスオウに出会ってすぐに、ツールの横流しを依頼した。断られることも想定していたが、スオウはあっさりとその話に乗った。勿論それは「違法と見做されない」からであり、もしこれが明白な違法行為だと上層区が決めれば、スオウは即刻手を引くだろう。


「先月も同じ日に、歩き方が違う奴が管理区に入り込んだ。その翌日に政策が変更された。どうやって決めてるか知らないけど、政策が変更になる前日に、此処に上層区の誰かが来るってことだ」


 数字を目で追いながら、余計な思考を除外するかのようにソラは独り言を零す。この辺りは好き好んで来る者もおらず、いたとしても話しかけてくる物好きはいない。


「反響回数六回、一バウンドにつき二五パーセントのロスト……」


 ソラは手を止めて、目の前の建物を見上げる。窓のない壁の向こうに歩く「何か」を捕らえた瞬間だった。


「いた!」


 顔を明るくして声を出す。そしてノート型端末を抱え込んだまま立ち上がり、建物のほうへと走っていった。

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