第26話 【最終章/夏 ぬけがらを、抱きしめて】⑥
《夏/臼井 佑介 『ぬけがらをつかむように』》(後)
ウェディングドレスの背中のチャックを上げると、幸は軽やかに身を翻した。
彼女から少し遅れ、ドレスの裾が波打つ。スカートのドレープが、深い闇を撫でるようだった。
非常用の明かりだけの薄闇が広がる屋上。
街の灯が強く届かない隔離されたこの場所で、白い煌めきが一層、美しく見えた。
「似合う?」
幸は弾む声でおれに笑いかけた。
……いや、「幸」なんかじゃない。
今だけは、本物の「幸」だ。
「……いや、微妙」
後姿では、高身長で色白の肩をした彼女にはとてもよく似合っていた。
だが正面を向くと、シンプルで大人びたドレスのデザインに比べ、丸顔で幼い顔の幸は浮いて見えた。そんな間抜けさも含めて幸らしい。
「照れんなって!」
幸が、おれの背を手のひらで強く打った。
このドレスは、幸と二人で手に入れたものだった。
三十分ほど前。おれと幸は寝具売り場のベッドの下に潜み、ドレス売場へと向かった。
おれは幸に、ドレスを用意すると啖呵を切り、それを手に屋上に向かうことにしたのだ。
華やかなウェディングドレスがいくつも展示してあるなかで、幸は花のレースをあしらったドレスを選んだ。
おれはドレスを買う金を持っている。美津子さんから生活費としてもらった、ポンド紙幣ではあるが。
イギリスに帰った後、どうするか……と過りはしたものの、もうこの金に頼るしかなかった。
おれは幸にドレスを持たせ、ドレスのタグと値段分の紙幣をレジに置いてきたのだ。
『何このお金!』と幸は当然驚いていたが、おれは「競馬で当たったんだ」とはぐらかした。
ごめんなさい、美津子さん。いつか必ず、返しますから。
心の中で謝りながら屋上に向かう途中も、おれは警備員に見つからないかを警戒していた。
幸はというと能天気にドレスに見惚れ、ハイな状態のまま、声を潜めるおれにずっと話しかけていたのだ。
こうして屋上にたどり着いた後も、しばらくはひやひやとしていた。
けれど、おれが嫌味を言っても幸はいたずらに笑うのだ。「見つかっても大丈夫。な、気がしたから」と。
その笑顔にほだされ、おれもすっかりこの状況を全力で楽しもうという気になっていた。
「ほら、乗れよ」
ドレス姿の幸の前にしゃがみこみ、自らの肩をポンポンと叩いた。
「肩車? ドレスなんだけど」
「いいから乗れ!」
おれは幸の後ろに回り込んでかがみ、彼女を下から掬うように肩車をした。
「うわっ、ちょ、」
「ほら、見ろ。こうやって街を見下ろしてると、このデパートが自分のものになったって気がしてこないか?」
「え?」
「プレゼントするって、言ったからな」
幸とスキー合宿のときに交わした言葉。もちろん、潤はそのことを知らないだろう。
でも、幸はずっと潤に言い続けていたに違いない。
『あたし、デパートが欲しい』って。
「バーカ、ただの不法侵入じゃん!」
幸は大声を上げ、わざと肩の上で暴れる。
「やめろ、あぶねぇだろ!」
おれは必死に持ちこたえようとするが、耐え切れずに転倒する。幸をどうにか庇いながらだったので、思いきり背中を打ち、息が詰まった。
彼女はすぐに起き上がり、おれの元に来た。
「大丈夫?」
「やりすぎなんだよ、お前は」
「……ありがと、ね」
幸のくすぐったそうな笑顔に魅入られる。
ずっと、この顔が見たかったんだ。
おれが立ち上がると、幸もそのまま一緒に立った。
「……」
今から起こることを互いに予見したからか、突如、緊張感を持った沈黙が訪れる。
「目、閉じろ」
おれは両手で幸の肩をそっと掴み、顔を近づけた。
「ち、誓いのキスってやつ……?」
「結婚式だからな」
「さすがに、そこまではしてもらえないっていうか……」
一瞬、潤の声のトーンに戻る。ふと我に帰ってしまいそうになったのだろう。
「黙ってろって」
おれは強い調子で言い、潤の声を、互いの理性を抑え込んだ。
幸の瞼にそっと触れ、目を閉じさせた。
「な、……幸」
おれは幸の顔にかかったベールをめくった。
「佑介」
幸はハッとしたようにおれの名前を呼んだ。
日本に帰ってきて、彼女と会ってから、一度も、「幸」とは呼べていなかった。
名前を呼ぶことが、最後の一線だと感じていたのだ。
幸は名前を呼ばれて驚いたようではあったが、静かにそれを受け入れたようだった。
彼女は、静かに目をつむった。潤と幸が完全に溶け合ったように感じた。
静寂の中、互いの吐息の音だけが聞こえた。
「……あの、まだ?」
目を閉じたままの幸は緊張に耐え切れなくなったのか、戸惑ったように薄目を開けた。
その瞬間。
おれは、彼女の鼻をつまんだ。
昔、そうしたように。
「え?」
「バーカ!」
おれは、幸の驚いた顔をポラロイドカメラで撮影した。
「……ちょっと! 可愛く撮ってくれるって言ったじゃん」
「よく撮れてるよ、お前のバカ面!」
「本気でドキドキしたのに……」
「お前は、いつでも可愛いよ」
「……佑介」
こんな歯の浮くようなこと、これからもずっと言うことはないだろう。
それでも、今、言いたかった。
ずっと思っていたのに、幸に言えなかった言葉だから。
「ごめん、幸」
「!」
おれは幸の口を塞ぐように、そっとキスをした。
二秒か三秒そうしていた後、おれは唇を離し、幸の手を握った。
「おれ、どこにも行かないって言ったのに」
柔らかく握ろうとしたが、おれの意思と関係なく、徐々に指先に力が入っていった。
「……佑、介?」
約束守れなくて、ごめんな。
それだけは言葉にはしなかった。
目の前にいるのは、幸だ。彼女にそれを謝るのはおかしい。
おれも潤も幸のしあわせを願ったけれど、叶わなかった。
このままずるずると関係を続けていたら、本物の幸は消えてしまう。
これは、幸の死を悼む最後の夜だ。
おれたちは彼女を想いながらも、前に進まなくてはいけない。
勝手に作り出した、おれたちの足首を掴む華奢な手を、振り払わなくてはいけない。
おれたちはこうして、前に進むために結婚式を挙げたんだから。
「――♪」
幸は、夏の大気で潤んだように光る街の明かりを見下ろしながら、鼻歌をうたった。
結婚式の定番曲。
今となってはもう歌われていないだろうというくらいの、ありふれた歌だ。
かつて、日本中の、色んな結婚式で流れたであろうメロディ。
しあわせの瞬間、そこにあった歌。
幸のその声になじませるように、おれも同じ歌を口ずさむ。
彼女は「下手くそ」と言わんばかりに、おれを小馬鹿にして目を細めたまま、歌い続けた。
この歌が、もう手に入らないしあわせ――ありふれたしあわせを、運んでくれるような、そんな気がした。
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