第24話 【最終章/夏 ぬけがらを、抱きしめて】④
《夏/臼井 佑介 『ぬけがらをつかむように』》(前)
たった数ヶ月離れていただけなのに、匂坂市の空の青さと、その狭さが妙に新鮮だった。
グラウンドから聞こえる、スパイクが土を掴む音、金属バットの響き、球児たちの枯れた威勢のいい声。それらのざわめきは、空に吸い込まれていくことはなく、ずっと宙に余韻が残っているようだった。
「遅いな、潤……」
一二時。潤と待ち合わせた時間になった。
突然呼び出してしまったから仕方がないが、焦りから思わず苛立ってしまう。
日本にいられる時間は限られている。明日の朝には飛行機に乗らないと、ポートレートの品評会には間に合わない。
幸の死について、問い詰めるのはやめよう。
おれにとって、幸の死の痛みを分かち合えるのは潤しかいないし、あいつだっておれに対してそう思ってくれているはずだ。
深く息をつき、ふと周囲を見回す。グラウンド脇の道路拡張工事は終わったらしい。
……一生終わらないとすら思っていたのに、な。
日常は動いていたんだ。
再び、鋭い金属バットの打球音がした。
「あぶない!」
「は?」
後ろからかけられた叫び声に反応し、とっさにのけぞる。
「うぉっ!」
その勢いでバランスを崩し、ベンチから落下してしまう。
「痛っ……って」
あれ?
激しい既視感に襲われる。
こんなことが、前にもあったはずだ。
背後から『あぶない』と声をかけられ、ベンチから落ち。
――そして、顔を上げると。
「ダッサ」
そこには、おれを小馬鹿にしたように笑い、見下ろしている少女。
幸が……確かにそこにいた。
「幸?」
セミの鳴き声がやたらと大きく響き、混乱する頭をさらにかき回すようだった。
落ち着け。よく見ろ、よく考えろ。
これは潤だ。
「何やってんだよ、早く着替えろ」
「なに、怖い顔して。ま、佑介にすごまれても怖くないけどねー」
潤は幸とまったく同じ調子で首を傾げ、おれを挑発する。
「お前、何考えてんだよ?」
いくら女に見えると言っても、幸の扮装をして外に出てきているなんて。戸惑いの直後、潤の行動が死んだ幸を茶化すように見て、怒りがこみ上げた。
潤はこちらには取り合わず、ベンチの上に飛び乗り、おれに微笑みかける。
その笑顔はあまりに眩しくて……切ない。
ここにあるけど、ないものだ。
「今日もバカみたいにあっついね! 夏だなーってかんじ。……ね?」
胸が締め付けられる。
潤が幸に近づけば近づくほど、彼女はそこにいないのだと思い知らされた。
「佑介にはそういうの、わかんないか!」
今の潤の姿は、幸とはっきりと重なる。かつて見た、幸に扮した姿とはまるで違う。
ここにいるのは幸そのものだ。
声の余韻から、振る舞いから――何より、この笑顔が。
ふと、セミの鳴き声が静まった途端、言葉が溢れだしてしまう。
「なんで死んだんだよ、幸。約束したじゃないか。なぁ……」
おれは潤ではなく、空に向かって叫んだ。
「……」
潤の……いや、そこにあるのは、寂しそうな幸の笑顔。
おれは辛抱できず、潤に迫る。
「幸は死んだんだ。もうやめてくれ。あいつはもう、ここにいちゃいけないんだよ……」
潤は幸の携帯を取り出すと、何かを入力し、その画面をおれに見せた。
『幸がしたかったことを、叶えなくちゃいけないんだ』
幸が、したかったこと。
おれにしてやれるだろうか?
幸の気持ちがわかってやれているのか?
今でも、後悔していることばかりなのに。
スキー合宿のときに撮ったピンボケの幸の写真。
自分の好意をぶつけるのが怖くてやった、あまりに幼稚な照れ隠し。あのとき、幸は隠そうとはしてくれたけど、とても切ない顔をしていた。
本当はちゃんと撮っておけばよかったって、ずっと思っている。
「何かしてやろうにも……おれは、幸のことわかってやれてなかったんだよ」
潤は首を振って、おれの目を見つめる。その瞳には迷いがなくて、まっすぐだった。
「あたし、夏がすき」
太陽を背にした弾ける笑顔は、たまらなく眩しかった。
「それは……知ってるけど、さ」
潤が言っていることはよくわかる。
幸がしたくてもできなかったことを、疑似的にでも叶えてやりたい。
そんなの、生きている人間のエゴだ。
……それでも。
「じゃあ、それでじゅうぶん!」
潤はおれの手を取って起き上がらせると、そのまま走り出した。
「いこ?」
「お、おい!」
つないだ指先は華奢ではあるが、やはり野球をやっていた名残の節や厚みがあった。
やっぱり幸の手とは違う。
当然だ。
そんな違和感を覚えながらも、おれは手を離せなかった。
すぐ目の前にある微笑みが、幸のそのものだったから。
もう、潤のことを突っぱねることはできなかった。彼の気持ちを踏みにじれなかった。幸の本当の願いを叶えることができなくても、潤の心を救ってやりたい。
……それもおれの心にあるだろう。だが、それ以上に、おれを突き動かすものがあった。
おれは何よりも幸との夏を待ち望んでいた。
あのとき手を離さなければ過ごせたかもしれない、季節なんだ。
潤はあまり乗り気ではなかったが、幸の家を訪ねたかった。
彼女が死んだと知っていても、それをまざまざと思い知らされるのはもちろん辛い。仏壇に手を合わせたところで、なんだっていうんだろう。そんな想いももちろんある。それでも、あいつは死んだのだと、家に行くことで受け止めなくてはいけない。
しかし、幸そのままの潤に、はっきりとそう伝えることはできなかった。
そこでおれは、「昼飯食ってないんだ。金もないし、何か作ってくれるか?」と遠回しに家に行かせてもらえるよう尋ねた。
潤(やはり、幸とは呼べない)は「……料理かぁ」と難しい顔をしたが、「お肉焼いて焼肉のタレじゃーっとかけるとかでもいいなら、ギリ」と、家に招いてくれた。
その渋る姿は、言葉通り料理が苦手ということなのか(潤なら得意だろうが、幸は料理はまったく不得手だった)、潤自身が拒んでいるのか、今の潤のなりきり方を見ているとわからなくなった。
家に着き、潤が料理をしている間。おれは物音を立てないように、そっと幸の部屋に入った。
まず、小さな仏壇が机を動かされて設置されていたのが目に飛び込んだ。部屋の主が死んでしまったとは思えないくらい、幸の残り香があった。
ベッドの上のかけ布団は小さく膨らんだままだ。さっきまで幸がそこで寝ていて、抜け出したあとのようだった。
輪郭だけが残っている。まるで、ぬけがらみたいに。
線香などとてもあげられる気分ではなかった。むしろ仏壇なんて見ていられない。
おれは布団に倒れ込むようにして、その膨らみを潰した。
幸が生きていたことを表す膨らみだ。
甘く、くたびれた皮膚の香り。閉め切った部屋の空気の濁り。
鼻腔を刺激する、少し黴くさい蒲団。
懐かしい、夏の――幸の、におい。
思わず蒲団を強く抱きしめてしまっていた。
やっぱり、潤がやっていることはおかしい。
気持ちは本当によくわかる。
死を受け入れがたい気持ちや、何かをしてやりたいという足掻き。
死んだら、この蒲団のぬけがらみたいに潰れて、わずかににおいを残して……あとは何もなくなる。そうあるべきなんだ。
寝返りを打つと、机の脇の引き出しが僅かに開いていることに気づく。
立ち上がり、引き出しをゆっくりと開ける。
空っぽで、ラベルの剥がされたペットボトルが入っていた。
どうしてこんなものを?
怪訝に思い、ふと、それを取り出した。
ボトルに入っていたものの正体を見たとき、思わず手の震えが止まらなくなっていた。
……セミのぬけがらだ。
ペットボトルを逆さにし、飲み口で軽く引っかかったぬけがらを取り出した。
一瞬で、あの夏の予選直後のやりとりが蘇った。
幸の誕生日に、指輪代わりに渡したんだ。
虫嫌いな幸はそれを怖がり、左手の薬指においた瞬間振り払った。地面に転がって、置き去りになったとばかり思っていた。
引き出しの中には、メモが添えられていた。
『16歳の誕生日 佑介から』
「なんだよ、怖がってたくせに」
こんなの、大事に持ってたってしょうがねぇだろ。
「馬鹿じゃねぇの」
ごめん、幸。
ごめんな。
もっと早く、お前に好きだって伝えていれば。
ちゃんと向き合っていれば、お前の気持ちだってわかってやれたはずなのに。
「あ、こんなとこにいた!」
扉が開き、潤が部屋を覗きこんできた。
おれはとっさに、ズボンのポケットにセミのぬけがらを入れてしまう。
「なんだよー、ブラはその段じゃねーぞ。それとも、靴下とか欲しいタイプ?」
「静かにしてくれ」
そんな言葉を返すのが精いっぱいだった。
「ちょ、なに、真剣な顔して。きもちわる」
「……ごめん」
「佑介?」
おれは潤を……いや、「幸」を強く抱きしめた。
幸は驚いたようだったけど、されるがまま硬直していた。
「ねぇって」
ごめん、潤。
お前のことを責められない。
潤を幸に見立て、自分の想いをぶつけちまっている。
……もっとこうしてやりたかった、って。
リビングで幸のいう「肉を焼いてタレをかけただけのもの」を食べている間も、おれはどう言葉をかけていいのかわからず、黙り込んでしまっていた。
「うまっ! あたしって意外と料理うまくない?」
その沈黙をかき消すように、次々肉を口に運び、おどけて自画自賛する幸。
手元をふと見てしまう。箸の持ち方は正しく、幸がよくやっていたような握り箸とは違っていた。
「……ん?」
幸はその視線に気づいたようで、焦って箸を落とす。拾って持ち直したころには、握り箸になっていた。
タレが滴る肉を掴もうとするが、うまく掴めない。それを繰り返しながら、「あれ、おかしいな」と、幸は笑顔を浮かべた。
その姿はあまりに哀しい。姿かたちがそっくりなほど、むしろ些細な違いに胸が痛くなる。
おれは自分自身の呼吸が震えるのを感じた。
しあわせな夢を見ていても、それが所詮は夢なのだと知ってしまったときのようだった。
ごめん、幸。
おれがやっていることも、潤がやっていることも、お前が望んでいることじゃないはずだ。
お前に昔、言ったよな。
死んだ人間は無力で、何も力を及ぼさないって。
影響されるのは、生きている方が弱いからだって。
……結局死んだ人間に囚われているのは、おれの方じゃないか。
「ねぇ、佑介?」
「……ん」
「今日の夜、河川敷で花火大会あるんだけど」
幸は夏が好きだ。
花火大会に行きたいということも、よく言ってたっけな。
いつもは憎まれ口ばかりなのに、夏にまつわる話題になるとやたらと無邪気だった。
「お前、浴衣似合いそうだな」
「え?」
さっきまで口数も少なく、俯きがちだったおれが、急にポジティブなことを言ったから驚いたのだろう。幸はきょとんとし、おれの言葉の続きを待っていた。
「胸がない方が似合うっていうだろ」
「それ、がっつりセクハラだからね」
幸は呆れたように怒り、おれの茶碗を奪って飯をかきこんだ。
「おい、返せよ」
「デブになればおっぱいも大きくなって嬉しいでしょ?」
拗ねたように乱暴に立ち上がり、炊飯器を開け、飯を大盛りによそう幸。怒らせてしまった、と思わず動揺してしまう。おれは幸のしゃもじを持つその腕を掴む。
「離してよー、デブ専」
幸は視線を合わせず、拗ねたように悪態をついた。
「胸なんかどうだっていいから、浴衣着ろ」
「え?」
「花火大会には、やっぱ浴衣だろ」
おれが言うと幸は照れ臭そうに「ん」と頷き、茶碗を持ったまま流しへと向かった。
不器用に洗い物をするその背中を見ながら、自分のかけた今の言葉さえも間違っているんじゃないか、そんなことばかりを反芻し続けていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます