第23話 【最終章/夏 ぬけがらを、抱きしめて】③

《夏/遠藤 潤 『約束』》


 幸が死んでしまってから、三ヶ月。

 怒涛のように日々は過ぎ、思い出そうとしても掠れたフィルムの映画を見ているみたいに判然としなかった。

 葬儀をはじめ、事務的な手続きがひと段落し、一息つくと、ようやく幸が死んだのだと実感した。寂しさなんて言葉では括れない。

 この家から、幸のにおいはもう消えかけていた。だけど恐ろしいことに、面影が消えていくことに安心している自分さえいる。都合よく、逃避しようとしているのだ。

 唯一、彼女の部屋には幸の残り香が強く残っていた。

 昨日まで、つい、さっきまで。そこにいたようにすら思える。

 幸の声が聞こえる気がして、仏壇に線香をあげに行くときだけは、早くその香りで部屋をいっぱいにしたかった。

 彼女の死後、すぐに田舎から父親と祖父が戻ってきた。幸は交通事故によって亡くなったとされていたが、父親は「幸は自殺をしたんじゃないのか?」と僕に詰め寄った。

 誰に責任があるのか。

 互いに押し付け合い、逆にこじれて無理やり抱え合い、激しい口論を繰り返した。

 あまりに勝手な言い争いだった。

 僕らに幸の気持ちがわかっていたなら、そもそもこんなことになりはしなかったのだから。

 言い合いは必ず、全員が泣いて終わった。誰を責めたところで、幸は帰ってこない。僕らが揉めてしまうことを幸が絶対によく思わないだろうと感じたところで、ようやくおさまった。

 葬式と通夜を終え、一週間滞在したのち、二人は祖父の実家へと帰っていった。

 大学の留年のことを父親と相談した結果、『卒業するまでは学費を出す』と言ってくれた。

 幸にまつわる全てを終えた四月から、七月のテスト無事に乗り切り、夏休みになる今日まで、ひたすら毎日勉強に打ち込んだ。

 幸の生前と違い、完全に無心になることができた。写真部にも顔を出さず、大学と家の往復だけだった。元々、自分自身に趣味や、やりたいことがないのだと改めて知った。

 僕にとって、幸だけがすべてだったんだ。

 夏休みになり、佑介にようやく手紙を書くことができた。

 幸の死の直後には、とても書けるような精神状態じゃなかった。

 手紙を書き、アルバムを眺めているうちに、ぽっかりと開いた穴の存在に初めて気づいた。

 彼女の写真は、高校入学までの幼い頃のものしか残っていなかった。

 おそらく父親が撮ったであろう、運動会でトラックを颯爽と駆けるシーン、旅行先で僕の腕に幸が抱き着いてはにかむ瞬間、そんな懐かしい写真がいくつもあった。

 アルバムを開くのは本当に久しぶりなのに、どの場面にも見覚えがあった。

 それだけ、僕は幸と共にいた。

 ……僕はもう、ひとりだ。

 父親も祖父もいるけれど、心から家族だと強く実感できたのは幸だけだ。

 トモとの関係のこじれから、心を閉ざしてしまった幸。

 どうにか前に進んでほしかった。それが彼女のためだと考えていた。

 でも、僕の独りよがりでしかなかった。もっと慎重にことを運ぶべきだった。

 幸はなんとしても――過保護だとしても、僕が護らなくちゃいけなかった。

 たとえ、彼女のためにならなかったとしてもだ。

 戻れるなら、戻りたい。どこまで遡ればいいのかさえ、わからないけれど。

「幸、どうして死んだんだよ」

 思わず声に出して呟き、アルバムをめくった。

 すると、ページの間から、ひらりと一枚のポラロイドのフィルムが落ちた。

 セーラー服を着た幸……かと一瞬思ったが、それは大学の学園祭で佑介が撮った、僕が女装をした写真だった。そんなことをして、ふざけていたときがあった。

 戸惑った佑介の顔を見て、僕の胸は確かに高鳴っていたのだと思う。

 僕は彼に対して、どんな感情を抱いていたのか。

 はっきりとはわからないが、すごくシンプルな感情なのかもしれない。

 誰かの特別になりたい。

 幸から必要とされる『潤兄』ではなく、ひとりの『遠藤潤』として。

 その対象が、なぜ他の女の子にいかなかったのだろう?

 男に好かれたいなんて感情はまったくない。ましてや恋人や性的な関係など御免だ。

 それでも、僕にとって佑介は大切な存在だった。愛情を、友情とか恋愛感情とか、明確に分けられないんだ。

 幸を愛おしく思う気持ちも、佑介から気にかけられたいという感情も、すべて好意としてごっちゃにしてしまっている。

 だけど、それではなぜ、僕は佑介とのツーショットの写真を撮ったのだろう?

 なぜ携帯の待ち受けなんかにしたのだろう?

 そこに映っていたのは幸に扮した僕と佑介。

 僕だけど、僕ではない。自分自身で、『遠藤潤』を殺してしまっている。

 自ら首を絞めるような、矛盾だらけの行動だ。

 はっきりとした理由は、いまだにわからなかった。

 行いの一つ一つに、いちいちオーディオ・コメンタリーみたいに解説をつけていくことなどできない。そのとき毎の感情なんて、えてして美化してしまうものだから。

 ただ、確かなことがある。あのとき不安定で、揺れていた僕が、あんな写真を撮った意味。

 幸が佑介と笑いあっている姿を、見たかったんじゃないだろうかと思う。

 疑似的な理想を映した写真など、慰め程度にしかならないとわかっていても。そんなかりそめの光景でさえ、あのときの僕にとっては必要なものだった。

 結果、あの写真が幸の心を追い込んでしまった。

 ……あんな写真、撮らなければ。

 やっぱりわからない。

 一体、何をどうすればよかったんだろう?

――トゥルルル。

 そのとき、家の電話が鳴った。家の電話自体、鳴るのは久しぶりだった。

 せいぜい、マンションの売買の提案や保険の勧誘といったところだろう。

 けれど、僕はその電話を無視することができなかった。

 ……予感がしたんだ。

『潤だよな?』

 この声、間違いない。佑介だ。

「佑介! 手紙、読んでくれたのか?」

『あぁ。今、実は日本に着いたんだ』

 佑介が日本に?

 彼の声の調子が優れないので、こちらまで不安な気持ちに駆られてしまう。

「日本に!? 休みでも取れたの?」

『なんつうか、まぁ……』

 明らかに濁そうとしている様子なので、僕は話を別に移した。

「空港にいるの?」

『そうだ。公衆電話からかけてる。だから、待ち合わせ場所を決めさせてくれ』

「え、携帯は?」

『向こうで取り上げられちまって。お前の携帯の番号は忘れちまったけど、家電、覚えてるもんだな』

 懐かしい。

 高校生の途中まで佑介は携帯を持っておらず、家の電話に直接連絡をしてきていた。

 親に電話を取られるのが気恥ずかしくて、「この時間に電話するから」なんて言い合わせていたことをよく覚えている。

 結局、幸が押し切って携帯を持たせたんだっけ。

『実は、今日一日しかいられないんだ。一時間後に、いつものグラウンドまでこられるか?』

 佑介が帰ってきて反射的に喜びはしたものの、実際会うとなると複雑な心境だった。

 一体どんな話をすればいい?

 幸を護れなかった僕が、どんな顔をして会えばいいんだろう。

 迷いはあるものの、滞在時間は限られているようだった。

 手紙を読み、強行日程でこちらにやってきたのだろう。

「わかった。待ってるよ」

 電話を切り、嘆息する。

 心の準備はできていないが、会って話をしたいのは僕も同じだった。

 たとえ責められるとしても、哀しみしか待っていないのだとしても。

「……あ」

 ふと消えているテレビ画面に映った自分の姿を見て、思わず驚きの声を上げてしまう。

 僕と幸の姿がダブる。

 そこに映っているのは、幸だった。

 彼女の口が、静かに動く。


――約束だよ、潤兄。


「……約束?」

 僕が喋ると、映った姿も僕自身に戻った。

 でも、僕の中には明らかに幸がいる。

 こうして落ち込んでばかりじゃいけない。

 幸。

 約束、はっきり覚えているよ。

 僕は立ち上がり、幸が死んで以来、二度と手にすることはないと思っていた化粧ポーチを急いで持ってくる。

 鏡台の前に座った。あと一時間あれば間に合う。

 絶対、幸の願いを叶える。



 ――そうだ。

 姿

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