第22話 【最終章/夏 ぬけがらを、抱きしめて】②
《夏/臼井 佑介 『それぞれの正しさ』》(後)
たまらない無力感に打ちひしがれながら、おれはたまらずに外に飛び出した。
潮風で青銅色になった町並みを見回しながら、あらためてこの街にいることを不思議に感じてしまう。ここの夜にはまだ慣れない。
日本とは違い、町が寝静まっていても明るく白んでいる。
昼夜の差がぼやけているせいか、この街にきて以来、ずっと長い一日を過ごしているような感覚に囚われている。街灯でもなく建物の光でもない自然光なのに、どこか頼りない。
ロンドンに続く港町であるリバプールには、いつも重い潮の香りが漂っていた。
その匂いが強くなるのを感じながら歩いていると、月明かりに照らされた港に着いていた。
港のすぐそばには、旬の食材を使った食堂もあった。地元民から観光客まで広く好まれていると聞いたことがある。
海は漆黒で、波打ち際は濁った泡が浮かび、弾けている。
幸の心もこんな風だったのだろうか。真っ暗で、光さえ残らずに吸収してしまうような。
おれは哀しみに心を侵食されまいと、必死に課題の被写体を探した。
ポートレートか。どうにも苦手だ。
ウォーミングアップに、思うがままに写真を撮ってみることにする。
しばらく人の手が入っていないであろう古びたボートが、波間に漂っているのが目につく。
その船上に、鼻先の長い小さな動物が力なく倒れていた。
ハクビシンだろうか。
息絶えてはいないようだが、毛並みは悪く、所々が抜け落ちている。
こちらに気づくと、艶のなかった目に光がともり、くぐもった声で威嚇を始めた。
ハクビシンは獰猛な生き物だと聞いたことがある。
飼っている動物を襲い、作物を荒らすことから、害獣とも呼ばれているとか。
一瞬、『助けるべきではない』と頭によぎるが、すぐに思い直す。
害獣?
そんなことおれに何の関係がある?
なにか食べるものを買ってくるか、手を差し伸べるべきか迷い、結局おれは何もしなかった。
害獣だろうが愛玩動物だろうが一緒だ。その場しのぎの助けなど何になる。
ましてや、まったく思い入れのない動物だ。
ハクビシンに向かってカメラを構えかけ、それすら何か違うだろうと嘆息した。
背後から、ポリ袋がこすれるような物音がする。
レストラン前のスチールのごみ箱に右腕を突っ込み、中身を漁っている男がいた。
男は中から残飯の入ったビニール袋を取り出し、ひとりで笑っていた。
この街には、都会部にホームレスがいることはない。隣のブロックにある貧民街に住んでいる男だろう。
彼は自暴自棄な笑いではなく、純粋に目を輝かせていた。
風体を見たところ浮浪者のようだが、そこに惨めさはない。おれたちがレストランに行き、出てきた料理に顔を綻ばせるのと同じような反応だった。
男は拾ってきた魚を海水で洗い、指先で小骨を丁寧に取り除いていた。その作業は、生きるためだけの行為だ。美しささえある。
そんな光景に思わず目を奪われ、ファインダーで男を捉えた。
視線に気づいたのか、男が振り返る。
夢中でこちらに気づかないだろうと油断していた。
理性のない怒りを孕んだまなざしに、背筋が冷たくなるのを感じる。
どう説明すればいい?
いや、そもそもこちらの言い分など聞く耳を持たないだろう。
男はクイーンズ・イングリッシュなんかとは程遠い、乱暴な口調のスラング(で、あろうということしかわからない)でこちらに怒鳴りつける。
「違うんだ、聞いてくれ」
おれは咄嗟に、美津子さんの教えを思い出し、日本語で弁解をした。
本当に困ったときは、拙い英語で喋ることだけは絶対にするな、と。
『貴方だって、外国人がたどたどしい赤ちゃん言葉の日本語で迫ってきたって怖くないでしょう? 玲子の旦那ならば、外国の不良に絡まれた程度で動揺していては駄目よ。あとは目をじっと見なさい』
不良ならまだよかったが、更に話が通じなさそうな相手だ。
「別に、あんたを笑いものにしようってんじゃない。信じられないだろうが、おれは……」
おれはどうして写真を撮るのか。美津子さんに尋ねられ、ずっと考えていたことだ。
人間の熱だ。
生きるか死ぬかを常に意識している彼らには、当然、強い生命の輝きがある。
「おれは、あんたの輝きを閉じ込めたい」
どうして、見ず知らずの浮浪者にそんなことを。
後々そう思いそうだが、今は心からの言葉だった。
日本でなら、こんなことを口にすることは絶対になかったはずだ。
あとは、その先だ。
おれはなぜ、輝きを求めているのだろう?
「……」
目の前まで迫っていた男は黙り込む。生乾きの雑巾のような臭いがした。おれの目をじっと覗きこむ。
青みがかかった鈍い瞳。
この街の色と同じだ。
「――!」
男は大声を上げ、おれの胸元のカメラを奪い取ろうとする。
「やめろ!」
男の意図は分からない。写真を撮られたから怒っているのか、カメラが高級品だと思い強引に盗もうとしているのか。
おれは手を払おうとするが、男もそれに抗う。
もみ合っているうちに、おれはカメラを海へと落してしまった。
「!」
男を突き飛ばし、海に飛び込む。地上から嗅ぐよりも、入ってしまうと磯の臭いは薄かった。
彼はおれが反撃したことに怯んだのか、慌てて逃げていった。
「臼井君!」
おれを呼ぶ声がする。海でもがきながら、必死にその声の主を見つける。
「玲子!」
おれはもがきながら、必死に彼女の名前を呼ぶ。
デニムが脚にへばりつき、力が奪われていく。
「待ってて!」
玲子は躊躇せずに飛び込み、器用に立ち泳ぎをしながら、おれの体を引いていく。
たっぷりと水を吸った服の抵抗に苦労しながらも、どうにか岸へと上がる。
息を切らして倒れ込むおれに対し、立ったままの玲子。
いつもの涼しい顔で、おれを見下ろした。
「帰って母に訊いたら、臼井君がこんな夜中に出て行ったっていうから。てっきり外に女でも作ったのかと思ったんだけれど。何をしていたの? まさか海水浴?」
「……何でここにいるってわかったんだ?」
「GPSを仕掛けてあるから」
普通なら冗談だろうとすぐに思うが、玲子の場合はどちらか判断がつかない。
「まぁ、それを使うまでもなく、臼井君の行動原理は完全に見通しているわ」
「その割に、見つけたときに驚いていたな」
おれは冗談めかすが、彼女の目は真剣だった。瞳で射抜かれてしまいそうなほど強い視線。
迷いつつも、ここで起きたことの経緯を話した。
「さっきの男がね。夜な夜な残飯漁りとは、ご苦労なことだわ」
ひどい言い草だが、社会的な弱者を聖なる存在にしてはいけないのは確かだ。
「たぶん、ハクビシンに飯でもやろうとでもしてたんじゃねぇかな」
「……?」
言ってから、どうしてそんなことを口にしたのか自分で不思議に思った。
浮浪者に夢を見ているわけじゃない。そもそも弱った動物に食事を与えるのがいいことなのかさえ、わからないくらいだ。
おれが感じた輝きなど、その場の思い込みに過ぎないのでは、と揺らいでいた。
「ハクビシン?」
「あっちの船の上にいたんだよ。ほら、この魚」
おれが先ほどの魚を指さすと、玲子はそれを拾い上げ、ボートの方へ歩いていった。
そしてハクビシンの存在を確認すると、躊躇いなく魚を投げ入れた。
「……迷わないのか?」
「迷う? どうして? 苦しそうにしていたから」
ハクビシンはぐったりした様子ではありながら、与えられた魚を必死に貪っていた。
「中途半端に施しをやることほど、残酷なことはないだろ」
「それは私が残酷な人間だと言いたいの? というより、それ以外ないわよね?」
「……」
「ハクビシンが何を考えているかなんて、わからないわ。見たことがないから、これがハクビシンなのかもわからない。だから、自分が正しいと思ったことをするしかないでしょう?」
彼女の言う「だから」は、おれからしたら文脈的にうまく繋がっていない。おれには到底理解できない飛躍があるのだろう。
でもその飛躍は、彼女自身の「正しさ」に支えられているから揺るがない。
おれが偽善だと思った逡巡を、玲子はあっさりとぶち壊す。
彼女の言う通りだ。結局、おれは自分が関わって悪者になるのが怖いだけ。
行動を起こし、後悔することが怖いだけなんだ。
「臼井君」
「なんだよ」
「日本に行きなさい」
「……は?」
あまりに脈絡がなさ過ぎて、一瞬何を言われているのかさえわからなかった。
「お前はさ、いつでも唐突なんだよ。美津子さんから話を聞いたのか?」
「母は何も知らないわ。エアメールを開けたのは私。宛名が遠藤君からっていうのを見て、何か引っかかってね」
「読んだのか?」
「怒ってもいいわよ、勝手に見たわ」
「それより、お前はいいのか? おれが幸のことで日本に帰るなんて」
「むしろ、どうして日本に戻らないの? 不思議でしかないわ」
「……美津子さんとの約束もある。それに、あの人の言っていた通りだと思ったんだ。もう幸は死んだのに、おれが行ってどうなるんだろうって」
「二枚三枚めくったような裏の理屈はいい。日本に行きたいんでしょう?」
おれが頷くと、玲子は封筒を手渡してきた。
視線で促されて封を開けると、日本行の航空券が入っていた。
「もしかして、これを用意するために出ていたのか?」
「私は、幸さんのことはよく知らない。行かせたくない。でも、信じているから」
「……玲子」
「行きなさい。かわりに、その気持ちはすべて日本に置いてきて」
そんな簡単に忘れることなどできるはずはない。無茶苦茶なことを、平気で言う。
玲子自身がそうするべきだと感じたからだ。
そしてそれは、おれにもその独善的な「正しさ」を強要しているようだった。
――貴方が正しいと思うことをやりなさい。
おれが今からしようとしていることが、「正しい」ことなのかはわからない。
でも、ここで行かなかったらまた後悔する。
「お前のそういうとこ、いいなと思うよ」
彼女は珍しく呆気にとられた様な顔をした。おれは笑ってしまいそうになったが、その気配だけで玲子は不機嫌そうに顔をしかめた。
気持ちを置いてこい、か。できるはずもない。玲子だってできるとは思っていないだろう。
彼女の優しさだ。こちらがすべて割り切ったということにして、接してくれる気がする。
おれは、『死んだ人間に囚われるな』と幸に言った。気持ちを察せず、生きている人間のために生きろ、と押し付けてしまったのと同じだ。
おれは玲子のために生きられるだろうか? 幸のことを忘れて?
すべてはまだ霧の中だ。はっきりとしたのは、おれは日本に行くべきだということだけ。
……幸について何を考えたって、今はエゴにしかならない。
「ありがとな、玲子」
留学を決めた日、玲子はおれが写真を撮る理由について、こう言っていた。
『本当はこの写真の人たちみたいになりたいんだと思う。必死に、真剣に生きることに憧れてるんじゃないかって、感じたの』
今なら、その言葉がすごく理解できた。「なぜ写真を撮るのか」という、美津子さんの問いの答えそのものじゃないか。
なぜ、写真に輝きを閉じ込めるのか。
――おれも、そんな風に輝きたいからだ。
幸を差し置いて、そんなことを望んでいいのか……今となっては、わからないが。
いけない。こんな考えも、自分勝手なものに過ぎないのだ。
「あと、これも」
玲子は、おれにポラロイドカメラを手渡した。ポートレートの課題を、これで撮った方がいいと言いたいのかもしれなかった。もちろん、完全に吹っ切れたわけではない。けれど、玲子の気持ちに報いるためにも、おれは静かに小さく手を振り、彼女と別れた。
……あいつは今、どう過ごしているだろう。
ひとりで悩ませてごめん。
今すぐ行くからな、潤。
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