第21話 【最終章/夏 ぬけがらを、抱きしめて】①
《夏/臼井 佑介 『それぞれの正しさ』》(前)
幸が、死んだという。
イギリスに届いた潤からのエアメールには、三か月前の幸の死が、淡々とした筆致でつづられていた。
詳しいことは何も書かれていなくて、ただ、交通事故に遭ったこと、葬儀は家族だけで行われたこと、それらを伝えることが遅れたことを詫びる言葉だけが書いてあった。
幸がどうやって死んだのか。
事故死なのか、それとも……。
潤の装飾のない文章から、おれは幸の意思で死を選んだのではないか、と直感的に察した。
「どうしてだよ、幸?」
おれは思わず独りで大声を上げ、枕に拳を突き立てた。
幸。だって、約束したじゃないか。おれがカメラマンになったら、お前のウェディングドレス姿を撮るんだって。
日本から遠く離れたイギリス・リバプールで、憤りと絶望感で押しつぶされそうだった。
「何を騒いでいるの、佑介さん。うるさくて眠れないわ」
美津子さんがノックもなく入ってくる。
ここは彼女の自宅だ。おれに割り当てられた部屋は物置きだったところに布団を置いただけの場所で、鍵などついていない。
「佑介さん? 何があったの?」
「日本で、知り合いが亡くなったんです」
おれはエアメールを美津子さんに差し出した。
「なるほど。でも、私の眠りを妨げないで。この時間に必ず眠ると決めているの」
「……」
「玲子は? 遅いわね」
「……途中で別れたので」
どうにか会話をするが、声はうまく耳に入ってこない。
おれは夕方まで大学での講義を受け、撮影のために玲子の案内で町の下見をし、先ほど帰宅したばかりだった。「夕飯の支度がある」という玲子と途中で別れ、ここに着いたのは既に夜中だった。玲子は先に帰ったはずだったが、一体どこに行ったのか。
いつもなら気になるところだが、それさえどうでもよかった。
部屋に戻ったとき、机の上に置かれていた手紙の封は既に切られていた。
おれ宛に何かが届くことはあまりないが、その場合は必ず美津子さんの検閲が入る。
今回も、彼女が中身をチェックしたのだろう。
「その方とは、どういうご関係?」
幸の死を、美津子さんは知っている。口調はいつもと同じ冷徹なものだ。
ぶしつけな質問に苛立つが、彼女にそういう気遣いなど求めても仕方がない。
詳しく説明するべきか、ひどく迷った。
いくら幸の死がおれにとって大きな出来事でも、美津子さんからしたら他人だ。むしろ、玲子以外の女の話などできるはずもない。
……本来は黙っておくべきなのはわかっている。
幸のためにも。
「大切な、人だったんです」
だが、おれの口から零れたのは、あまりに正直な一言だった。
何が幸のためだ。あいつはもういない。
まだそれはリアリティを持っておらず、一体何について話しているのか、自分でも戸惑ってしまうほどだった。
「そう。それは忘れなさい」
「……日本に、連絡を取らせてください。お願いします」
すぐにでも潤に話を聞きたかったが、現在、美津子さんとの約束で携帯電話を持つことを許されていなかった。
「勘違いしないで。私は、善意で貴方をここに連れてきたわけじゃない。玲子を任せるのにふさわしい写真家になってもらうためよ。あくまで、玲子のためだから」
「それはもちろんわかっています。でも」
こちらが言いかけたところで、美津子さんは表情を変えないまま、言葉をかぶせてくる。
「いわば、貴方の二年間を私は買ったの。勝手な行動は許さない」
「電話すら許されないんですか?」
「それだけで済むの? 電話を許したら、今度は日本に一度戻りたい、今度は……なんて、ずるずるといきそうに思えるわ。貴方にはそういう弱さがある」
「お願いします!」
一方的に決めつけられるのは悔しかった。けれど、そんなプライドなどどうだっていい。
おれはなりふり構わず、頭を下げた。
「死に目に会えるというのなら、まだ考える。でも、既に死んだのなら、貴方が帰ったところでどうだっていうの?」
「……!」
怒りで声も出なかった。
ここでたてついてしまったら、おれは見放される。
カメラマンの夢が、一気に潰えてしまう。幸との約束を果たせなくなる。
留学を告白したとき、おれの両親は猛反対をした。特に母親は絶対に許さない、卒業だけは必ずしなさい、と聞く耳を持たなかった。それを押し切り、おれは大学を退学してイギリスにやってきた。絶対にカメラマンになると啖呵を切って日本を出てきたのだ。
美津子さんに、全てを預ける覚悟で。
けれど、本当にこの人を信じていいのだろうか?
おれは今の日々に対し、疑心暗鬼になっていた。
「貴方が今の環境をよく思っていないのはわかる。でも、余計なことは考えないで。目の前の問題をひとつひとつクリアする。カメラマンになるために、必要なのはそれだけ」
美津子さんのやり方は、留学と聞いたときのおれの想像とはまるで違った。
いや、身勝手な想像だったのだ。
幸のために、カメラマンになる。
その想いは、おれの思考や選択肢、疑いを奪う決意でもあった。茨の道だとしても、いくら不明瞭でも、そこに希望があると考えることでしか前に進めなかった。
リバプールでカメラマンとして活動する美津子さんは、常に大学の講義や撮影で出払っていた。おれもその学生のひとりとして講義を受けていたが、もちろん特別扱いはない。
ましてや、英語が堪能なわけでもなく、写真の技術もずぶの素人のおれにとっては、録音した講義を何度も聞き返し、その翻訳作業から始まる始末だ。
質問をしようにも、美津子さんは家にいることはほとんどなく、おれに手取り足取り写真のノウハウを教えるということはしなかった。
かわりに手渡されたのは、見たこともない額の紙幣だけだった。
二年分の生活費だという。
ぽかんとするおれを差し置き、大学内の写真の現像スタジオのレンタルから、基本的な技法習得まで、すべて放任された。
暗室での写真の現像、カメラの機器の整備。
最低限の独り立ちの技術を、自力で覚えるところから始まった。おれにとって、日本語で書かれた技法の本を、大学図書館で借りるやりとりひとつ大変だった。
玲子がいなかったら、まず立ち行かなかっただろう。
暮らすので精いっぱいで、とても「いい写真」云々ということを考えてはいられなかった。
『何でも玲子に頼っていては駄目よ、自分の力ですべてをまかなえるようにならないと』
美津子さんはおれが不満を感じていることを察してか、度々そう言った。
「次の講義の写真だって、まだ提出してないじゃない。準備はできたの?」
彼女の講義の中で、学生同士で行う作品の批評会が行われることになった。座学が続いていた中で、初めての実践的な講義だった。
自由課題だが、ポートレートであることだけが条件づけられていた。
意見を取り交わすだけではなく、はっきりした順位が付けられるようだ。
玲子さんはエアメールを奪い取ると、「写真のことだけを考えなさい」と懐にしまった。
反論する間もなく、美津子さんは退室した。
おれは本当に無力だ。
脱力し、ベッドに倒れ込んでからようやく、幸が死んだのだと実感した。
息が震える。
今までやってきたことすべてが間違いで、何もかもが遅かったのか。
おれは何のために生きてんだろう?
何度も頭を過る。
そのくせ、自分が死んでこの世界からいなくなること――ぬけがらも残さずに消えることが、たまらなく怖かった。死ぬこともできないのに、前にも進めない。
おれはどうしたらいい?
眠れず、おれは美津子さんから譲ってもらった、覚えたての二眼レフカメラを手にした。
レンズで捉えた像を反射板で映し、ピントを合わせるのは普通の一眼レフカメラと同じだが、ピントを合わせるためのレンズと撮影用のレンズが別々にある。そのことで、ファインダーで捉えた通りの写真を、高い精度で撮れることが特徴だ。
一見複雑そうだが、初心者がイメージ通りの写真を撮るのには、むしろ向いているのだと美津子さんは言っていた。
イギリスに着いてからは、ポラロイドのカメラを一切触っていなかった。それまでの愛機を使うことで、妙な手癖がついたまま写真を撮ることを美津子さんは嫌い、使用を禁じた。
それを受け入れたのも、幸のためにカメラマンになりたかったからに他ならない。
今ではもう、全ての行いが無意味に思えた。
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