第20話 【第三章/春 においさえない、書き割りの世界で】⑨
《春/遠藤 幸 『光』》
あれから、ひと月が経っただろうか。
佑介は、イギリスへ行った。
いや、場所なんかどこだって同じだ。
イギリスだろうが北極だろうが、宇宙だろうが。
佑介は、もうこの町にはいない。
……それだけ。
空を飛行機が横切り、輪郭のぼやけた筋雲を残していく。
彼を乗せた飛行機じゃないと知ってはいても、座席に座った佑介と、その隣に座った玲子さんを想像してしまう。
こんな未練がましい気持ちは、誰にも言うことはできなかった。
佑介の足を引っ張りたくはなかった。
笑って送り出したかった。
どうにかその笑顔を心からのものにしたいと思った。
だけど、それはできなかった。
トモは言った。『幸はきれいな存在なんだ』と。
やっぱり、そんなの嘘だよ。
佑介を送り出したことへの後悔と、玲子さんへの嫉妬が渦巻き、自己嫌悪に苛まれながらも、結局は他人ばかりを責めている。
ごめん、佑介。素直に応援できていなくて。
佑介は玲子さんと結婚する。
結婚か。
あたしが幼い頃、この屋上で行われていた結婚式。
あの日から、好きな人と結ばれることをずっと望んでいた。
送り出したことを、今更ながら強く後悔していた。
いや、今までのすべてに心残りがあった。
もし、留学に行く佑介を引き留めることができていたら。
スキー合宿の夜、手を握ってくれた佑介に、想いをきちんと伝えられていたら。(……あのときの、涙の理由を聞けていれば)
高校生のとき、ひとりで抱え込まずに、佑介や潤兄にトモとの関係を相談することができていれば。
ずっと前に、佑介に好きだって言えていれば。
……駄目だ。
こんな気持ちでいたら、佑介に申し訳ない。
あたしは、デパートのベンチの裏にまた落書きをした。
――がんばれ、なきむし
あたしは本当に佑介を応援できているのか?
自分の本音がどこにあるのか、あたし自身わからない。
でも、自分がそうありたいと思うあたしが、たしかにそう言ったような気がしたんだ。
家に帰ると、リビングで潤兄が携帯で電話をしていた。歯切れが悪い返事を繰り返し、潤兄は電話を切った。
あたしに気づいていなかったようで、顔を上げると、バツの悪そうな顔をした。
その緊張感から、どう声をかけていいのか迷ってしまう。
潤兄はすぐさま、柔らかく表情を変えた。無理に笑っているのが見え見えで、こっちが苦しくなるくらいだった。
「留年、決まっちゃった」
潤兄は明るい声で呟いた。
「……え?」
おどければおどけるだけ、その笑顔の哀しみが増してしまう。
心配をかけまいとする姿に、いてもたってもいられなくなる。
佑介に留学のことを告白されたあの日。
家出をしたあたしを夜中じゅう探してくれたせいで、再試を落としてしまったのだろうか。
そうに違いない。あたしのせいで勉強もままならず、満足に眠ることもできなかったんだ。
「大学に電話する! あれは、全部あたしが悪いんだよ!」
潤兄の携帯を奪い取ろうとするが、彼は俯いて首を横に振るだけだった。
「やめよう。もう覆らないよ、仕方ない」
「あたしの、せいだ」
目の前がぼやけて、微笑んで見せてくれる潤兄の顔がわからなくなってくる。
頭の芯が熱くなって、視界がだんだん狭くなってきた。
胸が苦しい。
息を吸おうとするけど、うまくできない。
鼻の奥がつんと痛くなる。発作が起き始めた。
潤兄は急いで紙袋を持ってきて、あたしの口元にあてた。
過呼吸を起こしたのは久しぶりだった。
潤兄はあたしの背をさすりながら、柔らかく声をかけてくれる。
「幸は何も悪くない」
ちがう。
あたしが全部悪いんだ。「幸」がいなくなれば、みんなうまくいくのに。
佑介はあたしに別れを告げ、夢を叶えるためのチャンスを掴むことができた。
潤兄だって、そうじゃないの?
あたしがいるせいで、あんなに好きだった野球を辞めた。
ずっとひたむきに頑張ってきた野球を、あたしのために捨てた。
医者になるのも、あたしのせいでうまくいかないかもしれない。
いや、絶対うまくいかなくなる。
――お前がトモを殺した。
また、誰かが責めたてる。
あたし自身が、首を絞めるんだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい……!」
「幸、大丈夫だよ。僕はずっと一緒にいる」
潤兄は携帯電話をソファに放り投げ、焦ってあたしを強く抱きしめる。
肩越しに、携帯に映った待ち受け画面が見えた。
その写真を見て、絶句した。
うちのリビング。
そこに映っているのは佑介と……。
あたしの格好をした、潤兄だった。
「これ……」
「え?」
「離して!」
潤兄の手を払い、彼の携帯を拾った。その瞬間、潤兄の表情が凍りついた。
「潤兄は本当に佑介が好きだったの? あたしがあいつのこと好きだってわかってて、こんなことを?」
「幸、聞いてくれ。これは……」
「どうして、潤兄?」
「……ごめん」
潤兄は言い訳するでもなく、ただ、謝った。
あれ。
そうか。
「ごめんね、潤兄。あたしがいるから、みんなめちゃくちゃになったんだ」
腑に落ちてしまう。
喉は熱くて呼吸の仕方さえ忘れてしまいそうなのに、頭の芯は恐ろしく冷たい。
潤兄を押しのけ、家を飛び出した。
息が切れて、足がもつれても、走った。止まることなんかできなかった。
あたしの頭に語りかけてくる。
――お前は必要ない。お前さえ、いなければ。
「あたし、いらないんだよね?」
膝に力が入らなくなり、横断歩道の真ん中で倒れた。
倒れて、足が止まった途端。今まで抑えつけてきた、お腹の中のタールみたいな黒い感情が逆流する。そのまま脳までおよび、すべてぶちまけられ、冒される。
やっぱりあたしは必要なかった。
潤兄が何を考えていたのかなんてわからない。
でも、あたしがおかしくなったから、潤兄まで歪んでしまったのだ。
ごめんなさい。
今まで会ってきた大切な人たちすべてに、謝りたかった。
わがままばかりで。
そのくせ、いざとなったら、ちゃんとしたわがままを言えなくて。
甘えてばかりで。
潤兄の人生をぶち壊しにして。
佑介を苦しめてばかりで。
みんなの、足を引っ張ってばかりで。
生まれてきて、
「あたしの、せいで……!」
ごめん、なさい。
――死者は静かだ。生きている人間より、おれに近い気がするから。
佑介は言っていた。
そうか。
死者は静かだ。
何も語らないし、生きている人間をめちゃくちゃにしたりしない。
誘蛾灯に誘われたセミが、焼き切れる光景が頭を過った。
ジッ、と短い音を立てて、死んでいく。
光に誘われたのだ。
トモも、きっとそうして死んでいった。
クラクションが鳴り響く。
車のライトで目の前が照らされ、地響きが近づく。
それでもあたしは、起き上がろうとはしなかった。
そうだ。
あたしは、あの夏の熱い太陽に向かって飛び込みたかった。
さようなら。
佑介。
せっかく写真撮ってくれるって言ったのに。
約束、守れなくてごめんなさい。
それに、セックスも……。
……いや。
もうこんな虚勢、張らなくていいんだ。
あたしは神様でもなく仏様でもなく、佑介に祈った。
ねぇ、佑介。
もし、生まれ変わることができたら。
こんなあたしだけど、お嫁さんにしてくれますか?
【第三章・終】
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます