第19話 【第三章/春 においさえない、書き割りの世界で】⑧
《春/臼井 佑介 『夏は何度でも』》(後)
家の前まで辿りついたところで、携帯のバイブ音が鳴る。
玲子からの電話だ。気づかなかったけれど、すでに一〇件以上、着信がきていた。
走って家まで戻ると、部屋に玲子がいた。
「玲子? まだ起きてたのか?」
彼女は布団に凛とした様子で正座したまま、背筋を伸ばしておれに告げる。
「私たち、別れましょう」
「……は?」
「今回の留学のことをきっかけに、色々悩んだの。今まで、臼井君のことをすごく苦しめてしまっていたんじゃないかって……本当に、ごめんなさい」
彼女はおれのためにいつも通りに振る舞い、必死に感情を押し殺してはいたが、瞳は潤んでいた。彼女が泣いているところなんか、一度だって見たことがない。
気丈な玲子を泣かせてしまったと思うと、激しい罪の意識に襲われた。
「謝らないでくれ」
もう、戻れない。
幸。おれは、絶対に前に進む。
「玲子。留学の話、受けさせてくれ」
ごめん、玲子。はっきりと、プロポーズの言葉がいえなくて。
こんな結婚は、よくないだろうか。
おれは玲子に対してどんな気持ちを抱いているのかさえ、まだ判然としないのに。
そんな迷いを押し殺して、おれは膝をつき、玲子の傍に座る。
玲子は驚きからか、黙ったまましばらくこちらの顔をまじまじと見つめていた。
ふっと目を伏せ、彼女にしては珍しく、迷った様子で切り出してきた。
「私もね、臼井君の写真こと、ずっと考えてたの」
玲子は壁に貼ってある、潤のダイビングキャッチの写真に目をやった。
「臼井君は、うまくいかなかったときのことを考えて、熱くなれないフリをしてる。けれど、本当はこの写真の人たちみたいになりたいんだと思う。必死に、真剣に生きることに憧れてるんじゃないかって、思ったの」
玲子は、私「も」と言った。
わかっているのだ。
おれが彼女との結婚より、カメラマンの夢のことで頭がいっぱいなことを。
「そんないいもんじゃねぇよ。おれは……」
「もう、いいの。臼井君、さっきのは忘れて」
玲子は三つ指をつき、深々と頭を下げた。
「ふつつかものですが、よろしくお願いします」
「……玲子」
最後まで、玲子に幸のことを言うことはできなかった。玲子の頭の中にも、幸のことは過ったはずだ。それでも、玲子はおれのためを思って、結婚を受け入れてくれたのだ。
「一つだけ、約束をしてほしい。もっと貴方の、必死なところも恰好悪いところも見せてよ。私は、笑ったりしないから」
「……」
玲子は、おれの頭を静かに撫でた。かつてそうされて、『おれを侮蔑している』なんてひどいことを考えてしまったこともある。
「ごめん、玲子。絶対に、お前のことを大事にするから」
今、言葉にすべきは謝罪ではないのはわかっている。
おれは今まで、玲子の気持ちを考えようとしたことがあっただろうか?
こちらの気持ちをわかっていないと決めつけてばかりで、はなから想像を諦めてしまっていたのはおれの方じゃないか?
玲子の思考回路は独特かもしれない。おれに告白されたときだって、容姿や性格ではなく、撮った写真に興味を持ったというその一点で交際を受け入れたに違いない。
それでも、玲子はいつだって……たとえ見当違いだと言われたって、動いてくれていた。
――臼井君のために、と。
その言葉を信じたい。だって、玲子は嘘を吐けるようなやつじゃないから。
「ごめんな、ごめん……」
「ん……」
彼女が脱力していくのがわかる。気づけば陽が上り始めていた。いつも必ず夜一〇時に眠る玲子だ、限界なのだろう。他人に厳しい以上に、自戒の念が強い玲子だ。自分の規律を破ることだって、本当は抵抗があったはずだった。それでも、心配して帰りを待ってくれていたのだ。
世界が動き始めたころ、それに逆らうように、おれと玲子は初めて一つの蒲団で眠ることにした。
「この蒲団、すごく臼井君のにおいがするわ」
寝そべり、手を繋いだ瞬間、玲子はすぐに眠りについた。自分のにおいなんて、わからない。そんなこと気にしたこともない。おれは掛け蒲団を顔のまで引き上げ、静かに、深く呼吸をした。玲子のうなじからそっとジャスミンの香りがするだけだった。
その奥にある玲子自身のにおいを知りたかったけれど――それはもしかしたら、おれのにおいのせいかもしれないが――はっきりとはわからなかった。
カーテンの木洩れ日から、今日はきっと快晴なのだろうと察する。
こんな天気のいい日は、もやもやすることをすべて忘れたくなる。
だけど今のおれには、そうすることはできない。
今日の想いを忘れないために、おれはもう、涙を流さないと決めたから。
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