第18話 【第三章/春 においさえない、書き割りの世界で】⑦
《春/臼井 佑介 『夏は何度でも』》(中)
「こっちきて?」
幸はおれの手を乱暴に引き、人波をかき分けて裏道へと入っていく。
「どこに行くんだよ」
「約束、したから」
幸はおれの手を放し、壁に向かって突き飛ばす。おれは背を建物につき、幸に戸惑いをぶつける。
「何すんだよ!」
「今から、セックスをします」
幸の妙な取り澄ました様子に、おれは言葉を失った。
「……?」
おれは建物を振り返り、仰ぎ見る。
古びたラブホテルの前だった。
対面の風俗の無料案内所の男が、生暖かい視線をこちらに送り続ける。
「言っただろ。セックスは約束でするもんじゃない」
「知ってるよ。知ってるけど」
「何がしたいんだよ、わかんねぇよ」
幸の脇をすり抜けようとするが、彼女は長い腕を伸ばし、おれを捕まえる。
「これで逃げられないでしょ!」
幸はこちらの肩に顔を埋め、静かに腕を背中に回し、壁におれを押し付ける。
……今、ここにいるのはもちろん、おれと幸だけじゃない。
酔っぱらった学生のグループに、居酒屋の呼び込みに、どんな関係かもわからない中年男と若い女のカップル。
それぞれがそれぞれの世界で「生きて」いる。それを知っていても、世界は書き割りのようにしか思えなかった。
自己中心的な光景だ。
もうじき、こんな想像は捨てなくちゃいけない年齢になって、立場になって、この書き割りにいちいち全部意味を感じてしまう。目の前で足取り重く歩く中年男性の苦労や、色んな人のため息の意味が分かってしまうのだろう。
そんなことはわかっているよ。
でも、今は幸しか見えない。
この世界の、お前以外の存在は全部いらないものだ。
それだけ、おれはこうして幸と抱き合える一瞬を望んでいた。
「……夏の、におい。あの夏だ」
おれの呟きは、自分でも想像のできないものだった。
幸のつむじからは、今の春のくすぐったさでもなく、秋の安らぎでも、冬の甘さでもない香りがした。
遠い夏。あの日のにおい。
「ちがうよ、佑介。あの夏は、あの夏でしかない」
「幸」
「夏は何度でもくるんだよ」
幸は、おれの背に手をまわしたまま天を仰いだ。
「昔、デパートの屋上で結婚式やっててね。今考えたら小さい、ささやかな式だったんだろうけど」
「……?」
「すごく、キラキラして見えて。ふつうのありふれたしあわせって、すごいことなんだなって……今なら、思うんだ。あの頃なら、ワガママ言えただろうな」
「どういうことだよ、幸」
幸は息を整え、振り絞るように言った。
「留学、行ってきなよ、チャンスじゃん」
「……!」
「あたしたちの夏は、きっとまた来るから」
「……幸」
「てゆーか、あんた写真くらいしか取り柄ないし……」
幸の声は震えていた。
「もう、喋んな」
おれは幸の鼻をつまむ。
今、そんなことをするのはふさわしくないのはわかっている。
幸が言うとおり、あの夏はあの夏でしかないし、あの頃のおれたちを今に置き換えるのは無理だ。
でも、ごめんな。
おれは、これしかお前を笑わせる方法が思いつかないんだ。
「ぷぇ、なにすんの!」
「おれ、すげーカメラマンになって、すげー金持ちになるわ」
「……?」
幸の気持ちに応えたい。一緒にいたいという以上に、そんな気持ちが上回った。
これが正しいのか、やっぱりわからないけれど、これ以上傷つけあうのは嫌だった。
「そしたらデパート買い占めて、プレゼントしてやるよ!」
「!」
幸は一筋の涙を流した。おれは、幸の涙を見たことがあっただろうか。
「じゃ、最後に、しよ? ほら、結婚したらもう他の女の子とできないよ? 美人は三日で飽きるっていうし?」
「……」
「回転するベッドとかさ、全面鏡張りとか、そういうベタベタな部屋にしようよ」
「幸、頼む。……そういうのは、もう」
「頭壊れるくらい、してみたいな。あ、初めてなのでどうぞ宜しくお願いします」
幸はこちらの声に耳を傾けず、喋り続ける。
やめてくれ。
彼女の強がりに、おれは苛立ってしまった。
「……無理しないでくれ。お前が本当はどう思ってるのか、聞きたかっただけで」
幸はふっと哀しい表情に変わってしまった。
違う、おれはお前にそんな顔をさせたいんじゃない。
「無理しなきゃやってらんないよ。……どうして、わかんないの?」
幸は声を震わせ、おもむろに背を向けた。
この場に、正解なんかない。
「待ってくれよ」
離れようとする幸の手を咄嗟に取ったこの瞬間も、まだ迷っていた。
本当に、この行動が正しいのか。もっと、すべきことがあるんじゃないか。
頭が回らなくて、ただ幸を無理やり繋ぎ止めていることしかできなかった。
「離して。これ以上は」
「おれ、お前のことがずっと」
やめろ。
自分でたまらなく嫌になる。幸だって迷惑だ。
彼女は俯き、首を横に振った。
「どうして、今言うの?」
幸の目には怒りはなかった。おれを責めるようでもない。
純粋な「どうして」というその一言が、何よりもつらかった。
「……じゃあ、ね」
幸は涙声で呟き、走って離れようとする。雑踏に紛れそうになるところを、必死に追いすがる。絶対に、このまま別れちゃいけない。
「待ってくれ!」
人波を縫って走る。幸が横断歩道を渡っていく。
乾燥で喉が痛み、声が裏返っても気にせず腹の底から叫んだ。
「幸、幸……!」
『どうして、今言うの?』、か。
そうだ。その通りだ。
本当に今まで、ごめんな。
逃げるな。幸の想いに応えるんだ。
「おれ、絶対にカメラマンになる!」
信号を渡った先の幸に届くように、必死に声を振り絞った。
「……!」
幸は足を止めた。
振り返った彼女は、ハッとした驚いた表情をしていた。
(あたし、ね)
小さく、幸の口がそう動いたように見えた。
「……」
赤信号の中、幸が車の間を縫って、こちら側に走って戻ってきた。
そして、勢いそのままでおれに飛び込んできた。
「ずっと、それが聞きたかったんだよ」
息が震え、ほとんど声にならない、そんな一言だった。
「……あぁ」
「あのね、偉くなったら、あたしとセッ……」
幸は言いかけて、自らの太ももを平手で叩いた。俯き、小さく、首を横に振った。
「ゆっくりで、いい」
おれは大きく膨らみ、しぼむのを繰り返す幸の背中を静かに撫でた。幸は、おれの体が壊れそうなくらい強く抱きしめたあと、ふっと離れた。
――幸は、笑っていた。
「あたしのウェディングドレス姿、撮ってよね!」
周囲の人々がおれたちを避けて通っていく。
きっと、カップルの痴話喧嘩と思っているに違いない。
おれだって、そうだ。街で泣いたり喚いたりしている奴らにろくなやつはいないし、下らないことで喧嘩をしているに違いないって顔をしかめるだけ。
でも、おれもきっとそう映っている。
それでもまた、他人のそれを疎ましく感じてしまう瞬間がきてしまう。
嫌でも来る。それでも、今日のこの瞬間だけは忘れちゃいけない。
「誕生日、ここで結婚式やるって決めてるんだから! 好きな人とやるって……決めてんだもん……」
「幸!」
「……佑介」
「今度はピンボケじゃない! 最高の笑顔の写真撮ってやるから!」
幸は振り返らなかった。
でも、確かにおれの声は届いたような気がした。
今度は曖昧な約束なんかじゃない。
夢じゃなくて、絶対に叶えるんだ。
「幸、好きだ」
ひとりきりになると、ずっと言えなかった気持ちが、自然と漏れ出てきた。
合宿の夜に手を握ったあの日。市民球場で、休学届を破り捨てたあの瞬間。
いつでも言えたはずなのに、な。
人間はこんなにたくさんいるのに、おれはひとりだ。
帰り道も、すれ違う一人一人に血が通っていないような妙な感覚に襲われた。
それを実感した途端、急な嗚咽に襲われた。そのくせ、涙は流れない。
今まで何度も思いもよらぬところで泣いていたのに、今は出なかった。
おれの涙は、強い輝きにあてられたとき、それがいつか散ってしまうことを感じたときに出てしまう。
本当の喪失に出会ったとき、こんなにも涙は乾くのか。
今、泣けたらどんなに楽だろう。
嗚咽で頭の中心が熱くなるのに、その熱さが溜まる一方で、脳まで爛れてしまいそうだった。
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