第17話 【第三章/春 においさえない、書き割りの世界で】⑥

《春/臼井 佑介 『夏は何度でも』》(前)


 玲子が眠るのは、必ず夜一〇時ちょうどと決まっている。

 彼女が寝静まるまでの間、アパート脇の自販機前で煙草をふかしていた。

 夜はまだ冷えるし、夜風は冬とそう変わりない。自動販売機から発せられる熱に身を預け、どうにか耐えていた。

 幸の言葉が、ずっと頭を巡っていた。

『あたしだけ、しあわせにはなれないよ』か。

 あいつは、友人だったトモに囚われ続けている。

 そのトモが死んでいるにもかかわらず……いや、死んでいるからこそ、か。

「佑介―!」

 急に呼び掛けられ、思考が途切れる。

 潤が叫びながら、遠くから走ってきた。ただ事ではない様子に、身構えてしまう。

 おれの元まで来ると、こちらがなにかを言う前に、息を切らしたままヒステリックに叫んだ。

「佑介、幸が、幸が……!」

「なんだよ、落ち着けって」

「幸がいなくなったんだ!」

 いくら夜だとはいえ、まだそこまで深い時間帯でもない。

 おれは潤の焦りに戸惑い、『そこまでシリアスになる必要はないだろ?』という言葉を飲み込んだ。

「携帯には連絡したんだな?」

 潤は「そんなこと、確認するまでもない」と言わんばかりにじれったそうに首を横に小さく振り、まくしたてる。

「こんな時間まで帰ってこないこと、今までなかったんだ!」

「幸にだって、夜に出歩きたいことくらいあるんじゃないか。あいつもいつまでも子どもじゃない。そこまで心配されたら、さすがに困るだろ」

「それにしたって、なんの返事も連絡もないなんて……」

 潤をどうにか正気の戻そうと試みるも、頭は真っ白のようで、とても理性的に話ができる状況ではなかった。スキー合宿の夜の、停電のときと同じだった。

 幸の危険を感じたとき、本人以上に狼狽してしまう。潤の唯一の弱みと言ってもいいかもしれない。

「わかったよ、おれが探してくる。お前は帰って寝ろ。明日のテスト落としたらヤバいんだろ?」

 もちろん微かに不安は過るが、潤ほど幸の安否を心配してはいなかった。

 さっき、おれとあんな風に揉めてしまった後だ。

 誰とも話したくなくて、外をさ迷い歩いているのではないか。

 おれもそういう気分で、部屋にいつまでたっても戻っていないのだから。

「佑介は、僕の家の周りをもう一度頼む。僕は駅前を見てくる」

「おい、話聞けって。よく考えろ、お前は何が起きると思ってそんなに焦ってるんだよ。幸が誘拐されたり、何か事件にでも巻き込まれたと思ってるのか?」

「幸は今でも、すごく不安定なんだ。心が崩れて発作を起こしたら……」

 自らを傷つけたり、ましてや命を絶つなんてことを、想像しているんだろうか。

「頼むよ、佑介」

 どちらにせよ、こちらの説得に応じる気配はない。今、潤を落ち着かせるためには、幸を少しでも早く見つけるしかなさそうだった。

「……わかったよ。絶対、無理はするなよ」

「あぁ」

 曖昧に返事をした潤の視線は定まっておらず、おれの声が届いているのかわからなかった。



 潤と別れ、匂坂市民球場のグラウンド、霊園、駅と回ったが、幸の姿はなかった。

 その間も、彼女の安否よりも、幸との言い争いと留学への葛藤が頭を駆け巡り続けた。

 いざ会ったときにどんな顔をして話せばいいのだろう。

 探し始めてから三時間が経ち、途方に暮れ始めたころ。ふと思いたち、デパートへ向かっていた。とは言っても、もう閉館時間だ。こんなところにいるはずもない。

 引き返そうと思った瞬間、潤から電話がかかってきた。

『佑介! 心配かけてすまない、幸を見つけた』

「どこにいたんだ?」

『デパートの屋上』

「屋上? デパート自体もうとっくに閉まってるだろ」

『無理言って入れてもらったんだよ』

「お前って実は無茶するよな。いなかったらどうしたつもりだったんだよ?」

『いなかったら、いなかったときに謝ればいいやって』

 電話越しにも、潤の柔和な笑みが浮かんだ。

 やっぱり、幸へのスタンスがおれとは根本的に違う。潤は幸の帰りが遅くなっただけであんなに必死な形相を浮かべていた。後先考えずに、他人を巻き込んでまで幸を見つけ出したのだ。

 それに比べて、おれはどうだろう。どうせ家出しただけだと喧嘩した勢いで深くも考えず、行く先もなかなか見当がつかなかった。

 それでも、かろうじてデパートに足が向いたのは、幸の言葉の中にあったヒントに無意識に気付いたからだ。

 幸は、あの合宿の夜に言っていた。

『デパートがほしい』と。

 ただの思いつきの冗談ではなく、あの言葉には、おれが想像する以上の意味が込められていたのだ。あのときのおれは、幸に近づけたと浮かれ、それが失われることを想像しての自己憐憫に浸っていただけだった。あいつのことを、ちゃんと見ていなかった。

 彼女の発した瞬きを、感じ取ることができなかったのだ。

「とにかく、見つかってよかった。じゃあ……」

『待って。佑介はどこにいる?』

「おれ? おれは……」

 デパートの前にいる、とは言いづらかった。幸と顔を合わせる準備ができていない。

 おれは足早に離れようとした。

「佑介!?」

 人混みの中から、おれを呼ぶ声がした。

 駅前の雑踏のなか、手を振る潤と、驚きを隠せない幸の姿が見えた。こうなっては無視するわけにもいかない。

 幸は潤の後ろを歩いていて、手をしっかりと握っていた。兄の体に身を寄せ、おれから姿を隠すようにも見えた。

 ――やっぱり、おれは幸に必要ない。

 潤を頼る様子をまざまざと見せつけられ、直感的にそう思ってしまった。

「……」

 おれはどう応えていいのかわからず、じっと潤の口元を見た。彼もまた、こちらから発せられる言葉を待っているようだった。

「幸がどっかいかないように、手を離すなよ」

 そんな言葉をかけるのが精いっぱいだった。

 背を向け、人波へと消えていきたかった。

 だが、離れていこうとするおれの手を引いた。

「潤、おれは……」

 振り返り、言いかけたところでおれは咄嗟に息を呑む。

 おれの手を握ったのは、潤ではなく、幸だった。

「勝手にどこも行かないって、約束したじゃん!」

 幸の表情は、さっきの悲壮感に満ちたものではなかった。

 怒ってはいるけど、彼女は死者ではなく、ちゃんとこっちを見ている。

 おれは生きている。

 自分で勝手に死んだ人間のように思ってしまっていたけど、幸は、おれを見ているんだ。

「……約束か」

 わかってるよ。

 おれは幸と約束をした。

 もう、どこにも行かない。

 ……そばにいる、と。

 幸がこんなにもあの一言を受け止めてくれてるなんて知りもしないで、そんなことを言ったんだ。

 気づいたら、潤はいなくなっていた。

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