第16話 【第三章/春 においさえない、書き割りの世界で】⑤
《春/遠藤 幸 『最後の願い』》(後)
あたしはデパートに出向いていた。
夜の十一時前、閉まる直前に駆け込む。
もうじき閉館だと店員に止められたけど、その言葉を振り払って、エスカレーターへと走っていく。
下りのエスカレーター。
逆走して上ったのなんて、何年振りだろう。一生やることなんかないと思っていたのに。
今、屋上になんか向かったって仕方がない。迷惑がかかるかもしれない。
それはわかっていたけど、向かわずにはいられなかった。
むさぼるように、あたしは求めていた。
気休めでも、なにか、自分のきたなさを忘れられる場所を。
携帯の着信音。
潤兄からだ。
出られない。こんな迷惑をかけておいて、どんなふうに応えればいいのかもわからない。
あたしは息を切らしながら、屋上に飛び込む。
いつものベンチの下で、セミのぬけがらの入ったペットボトルをそっと開け、飲み口にそっと鼻先を近づけた。
夏のにおいがする。
トモとの関係が続いてから、八月に街を歩いていても、夏のにおいがしなくなって。
もう、このペットボトルの中にしかあたしの夏はない。
いちばん、どんな季節より、どんな瞬間より、大好きだった夏。
セミのぬけがらのこと、佑介は覚えているのかな。
佑介はあの頃と、何も変わっていない。
ずっと、あたしのことを不器用に思い続けてくれていた。
それなのに、あんなふうにしか言葉を返せなくて。
玲子さんと結婚すると思うと、それだけで佑介まで憎くなってしまって。
どうしようもない人間だ、あたしは。
あたしは後悔していた。
けど、それでもさっきの一言は間違いじゃなったとも思っている。
佑介が、カメラマンを目指して留学する。あたしが足を引っ張ってはいけない。
あたしさえいなければ、佑介は前に進める。
――お前が、
わかってる。大丈夫だよ、トモ。
勝手にしあわせになったりなんかしない。
ベンチ裏の、黒く塗りつぶした『佑介』と書いた場所を撫でた。
「幸!」
声をかけられた途端、あたしは顔を強く照らされる。
眩しさに顔をしかめる。何が起きたか一瞬わからなかった。
その光を感じた瞬間、スキー合宿の夜のことを思い出した。暗闇に怯えるあたしを、佑介が助けに来てくれて。
「落書きしちゃ、ダメだよ」
「……佑介!?」
今、あたしを迎えに来て、見つけてくれる人。
名前を呼ぶが、そこにいたのは、潤兄とライトを手に持った警備員だった。
「鍵、見つかりましたか?」
鍵?
あたしは警備員のおじさんに尋ねられ、きょとんとしてしまう。いつも屋上を見回りしている人だ。戸惑ったあたしに助け舟を出すように、潤兄がすぐに割って入った。
「すみません、まだ見つからないみたいです。申し訳ないんですけど、見つけたらお呼びしますね」
潤兄が警備員に呼びかけて微笑むと、おじさんは柔和な笑顔を浮かべ、屋上の出入り口付近に向かっていった。潤兄はしゃがみこみ、あたしに向かって笑いかけた。
「家の鍵なくしたって言って、閉館ギリギリだけど無理言って入れてもらったんだ」
「……そう、なんだ」
潤兄の人当たりの良さが、そんな無理を通したのかもしれない。
「あ、ほら、探すふりして」
「試験は? こんなとこいていいの!?」
明日は、大学の試験の再試があるはずだ。最近はその勉強をしていて、夜遅くまで起きていたのを知っている。あたしのせいでその努力が無駄になったりしたら、本当に顔向けできない。
「まだ、大丈夫」
潤兄の顔を近くで見ると、イメージよりも目元がくたびれていて、はっきりと疲れの色が浮かんでいた。それでも、あたしに心配かけないように笑ってくれる。
「やっぱり、潤兄にはわかるんだね。ここにいるって」
「幸のことなら、なんだってわかるよ。ずっと一緒にいたんだからさ」
「……うん」
あたしは目頭が熱くなるのを感じて、それを悟られないように俯いた。きっと、こんなことをしたってばれてしまっているだろうけど。
いつも潤兄に甘えて、素っ気ない態度を取ってしまうこともよくあるのに嫌な顔一つしない。
潤兄だけは、あたしのことを絶対に嫌いにならない。
そんな風に、思ってもいいのかな?
「幸、佑介と何かあったの?」
日頃強がって突っぱねたりしていても、あたしが何を考えているかなんてすべてお見通しなんだろう。
「潤兄は、もう聞いたよね? 佑介、留学するって……」
「うん」
「その話聞いてるうちに、喧嘩になっちゃって……。勝手にどこにでも行っちゃえって……」
「幸は、行って欲しくないんだよね」
「そんなワガママ、言えないもん」
俯いたままのあたしを元気づけるように、潤兄があたしの頭に手を置いた。女の子みたいな小さくて華奢な手。それでも、その温かみですごく大きく感じた。
「もっと、ワガママ言っていい」
「あたし、もう死ぬほど言っちゃってる。これ以上は」
「じゃあ、もっと。佑介は、幸のワガママを待ってるんじゃないかな」
「……潤兄」
さっき、佑介にあんなことをいってしまったことを、すごく後悔した。自分のことを責める気持ちに支配され、本当の想いを、ないがしろにしてしまった。
行かないで欲しい。
そんな簡単なことが、言えなかった。
「本当はね、佑介と一緒にいて……夏休みとかさ、写真、いっぱい撮って欲しいんだ」
あたしは、ずっと鞄に入れていた写真を取り出した。スキー合宿のときに佑介が撮った、あたしのピンボケの写真だ。こんなピンボケなんて、という寂しさはもちろんあった。
それでも、今手元にある唯一の佑介に撮ってもらった写真だ。
「佑介が撮ってくれたの、これしかないから。ひどくない?」
あたしは精いっぱい冗談めかして笑おうと思ったけど、うまくできなかった。
「もし何があっても、絶対撮らせる。カメラマンになってさ、すごいの撮ってもらおうよ」
「撮ってくれるかな?」
「もちろん」
「……絶対だよ!」
あたしが潤兄に飛びつくと、それを強く抱き返してきてくれた。
「ありました!」
潤兄はあたしを抱きしめたまま、待ちぼうけを食っていた警備員に明るい声で言った。
「よかったよ、見つかったなら」
「すみません、無理言っちゃって……本当にありがとうございます」
潤兄は警備員に、丁寧に頭を下げた。
「いや、いいんだ」
警備員はあたしと潤兄を交互に見て、目を細めた。
「僕ね、もう十五年くらい前になるけど、ここで結婚式を挙げたんだよ。デパートで働いていたかみさんと。そのとき、小さなきょうだいに式を邪魔されてねぇ……」
「……!」
このおじさん、あのときの新郎さん?
「かみさんがそのときの子のことをすごく気に入っててさ、いまだにその話するんだよ。君たちを見ていたら、それを思い出しちゃって」
潤兄もピンときているのかもしれない。
でも、それを態度には出さずに、笑顔で軽く相槌を打つだけだった。
結婚式、か。
デパートのフロアを通り抜け、非常階段を降りながら、あのときのしあわせな瞬間を久々に思い出していた。
その思い出に頼りきりでなくなったのは、最近、佑介と話ができるようになったからに違いない。
「潤兄」
静まり返ったデパート内に、あたしの声はよく響いた。フロアの明かりが落とされ、非常灯だけが足元を照らすなか、潤兄が振り返る。
「あたし、佑介ともう一度、話をしたい。ちゃんと、思ってることを伝えたいんだ」
「……わかった! 佑介に、連絡するから」
そう言って、潤兄は微笑んだ。
あたしは、佑介に会わなくちゃいけない。
ワガママを伝えなくちゃいけない。
ずっとごめんね、佑介。
最後のワガママだから、きいてくれる?
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