第15話 【第三章/春 においさえない、書き割りの世界で】④

《春/遠藤 幸 『最後の願い』》(前)


 澄んだ金属バットの音を聞くたび、潤兄を応援しに行ったあの試合が蘇る。

 グラウンドで練習する球児たちの中に、もうあたしが知ってる生徒は誰もいない。

 ふと、人けのない観客席のベンチに視線を奪われる。ぼうっと書類を見つめている佑介が座っていたのだ。

 首を垂れ、思い詰めている様子だった。

 さっき電話したとき、正直でなくて安心してしまった。

 だけど、この様子を見ていたら、もっと不安になってしまう。

 声をかけない方がいいだろうか。

 迷っていると、キン、と澄んだ音がして、大きなフライが上がった。

 ボールは俯いた佑介の方に向かって飛んでいく。

「あぶない!」

 迷っている間もなく、大声を上げた。

 佑介は上空をキョロキョロと見回し、天を仰いだまま後ろへとひっくり返ってしまった。

 あたしは佑介に駆け寄り、落下してきたフライを両手で包むようにキャッチした。

「ダッサ」

 こうして茶化すことでしか、深刻な様子の佑介と喋ることはできなかった。

 佑介は頭を打ったのだろう、後頭部をさすりながらこちらを見上げた。

「……幸! なんだよ、どうしてここに?」

「さぁ。それより、元気ないじゃん。潤兄にふられた?」

 潤兄と佑介の仲を疑っていたことを、もはや冗談として言えるくらいにはなっていた。

 自分の中で、確実に何かが変わってきている。

 佑介に対峙することへの恐怖が、少しずつ薄れてきていた。

「まだ疑ってんのかよ、しつけーな」

「だって結局、あの合宿の日からあたしに一回も手ぇ出そうとしないし」

「お前が勝手に約束とか言ったんだろ」

 あのとき、朦朧としながらも佑介に一方的に約束をしたことは覚えている。

 いつか、セックスしてあげるからって。

 そうやってひねたことを言うことでしか、あのときは喋っていられなかったんだ。

「勝手にって何? 女の子がエッチしてあげるって言うのがどれだけ勇気いると思ってんの?」

「じゃなくて! あぁいうのは約束でするもんじゃねーだろ」

 その一言に、ハッとさせられた。

 佑介の口ぶりは素っ気なかったが、棘はなかった。

 もしかして、照れているんだろうか。

「そっか。そっかそっかそっか」

 あたしは何度も繰り返した。

 その「そっか」に意味なんてない。ただ、くすぐったい気持ちになって、なんて言っていいのかわからなかった。

「んっ」

 柔らかい風が吹き、髪をもてあそんだ。

 もうじき肌寒さもなくなって、本格的に春になる。

 桜のつぼみが、ごくわずかだけど花をつけ始めていた。

 潤兄の試験が終わって、桜が完全に咲くころ。

 佑介を誘って、みんなで出かけたりできないだろうか。

 場所はどこだっていい。近所の霊園で桜を見るだけだって。

 そんな何でもない時間を、もし、また過ごせたら。

 佑介の照れ臭さにつられて、こっちも恥ずかしくなってくる。くすぐったいような、笑顔がこぼれてしまう。

 本当に、嬉しかったんだ。

 佑介の一言が。

――セックスは、約束でするもんじゃない。

 そんなまっすぐさと。

 やせ我慢からくる仏頂面が、妙にかわいく見えてしまって。

「カッコつけてると、あとで後悔するからねー!」

 思わず、グラウンド中に響き渡るくらい大きな声で叫んだ。馬鹿みたいだけど、こんな弾むような気持ちを、だれかれ構わず伝えたくなってしまったんだ。

「……おれ、決めたよ」

 そんなあたしを見て、佑介がポツリと呟く。

 一体何のことかわからないけど、胸騒ぎがした。

 この心のゆらぎはなんだろう、きっと悪いことが起きるわけじゃない。佑介の顔に、曇りはなかった。なのに、どうしてこんなに不安なんだろう。

 佑介は、手に持っていた紙をあたしに渡した。

 ……休学届?

「え? 休学するの?」

「そうじゃない。実は玲子の母親に、イギリスへの留学を勧められたんだ。カメラの勉強をしないかって」

「マジ! すごいじゃん!」

 あたしはいてもたってもいられず、佑介の手首をつかむ。

「でもな、二年間、向こうに行かなくちゃいけない」

「……それくらい、どうってことないよ! 二年くらい、あっという間だって」

 二年間、佑介がいなくなる。リアリティがないし、胸が引き裂かれる想いだった。

 だけど、佑介の夢が叶うこと、夢に向かって進もうとしていることを考えれば、我慢できる。

 そう、すべきだ。

 あたしの興奮に対し、佑介は寂しく笑って、静かにあたしの手をほどいた。

「落ち着けよ。断るつもりなんだ」

「なんで! ずっとなりたかったんでしょ!?」

 佑介は一瞬ためらったように見えたが、その目はまっすぐだった。

「その留学、玲子との結婚が条件なんだ」

「……!」

 結婚。

 佑介と玲子さんが付き合っている限り、あり得ない話ではない。でも、そのことにはずっと蓋をしていた。先送りしても大丈夫だとどこかでたかをくくっていた。

 佑介が結婚を考えているようには、とても思えなかったから。

「幸」

 佑介は、驚いて言葉を失っているあたしの顔を心配そうにのぞきこんだ。

「よかったじゃん、あんたと結婚してくれるキトクな人、なかなか見つからないって!」

 ごめん。

 あたし、何を言ったらいいんだろう。もやもやする、きたない嫉妬やすべての感情をおしこめて、たったひとつの『おめでとう』を言えたらどんなにいいか。

「……うん、した方がいいって。夢が叶うし、美人の玲子さんと結婚。何も、問題ない」

 ぞわぞわする。あたしの中に眠っていた、しあわせなんか絶対手に入れちゃいけないんだって、笑っているやつが目覚める。

「合宿の夜、お前と約束したよな」

 約束。いつか、佑介とセックスをしてあげると言ったこと。

 そして。

「……どこにも、行かないって」

 熱が出て、ひとりきりになることがたまらなく不安だったあたしの手を握ってくれた。

 どこにも行かないって、佑介は言ってくれた。

 あたしは、もちろんそれを望んでいる。

 でも。

 それでいいの?

 佑介の夢を、あたしのために諦めさせるなんて、そんな権利ないよ。

「幸。おれは本気だ」

 惑っているあたしの手をぐいと引き、いつにない真剣なまなざしでこちらを見つめた。

 佑介は休学届を投げ捨てた。紙が強い風に舞って、金属バットの音とともに、空にすいこまれていった。

 佑介。

 あたし、佑介と一緒にいたいよ。

「あたしのことなんかいいから、行きなよ」


――おいていかないでよ。私を殺しておいて、しあわせになるの?


 トモの声が聞こえる。

 ごめんなさい、トモ。

 何の辛さも苦しさもわからないのに、気持ち悪いなんて言ってごめんなさい。

 忘れようとして、楽になろうとして。

「トモが置いてかないでって、言ってる」

「……なに、言ってんだよ?」

 佑介は険しい顔のまま、窺うようにあたしに問いかける。佑介は、トモのことをほとんど何も知らない。あたしがトモに対して抱く、清算できない贖罪を、理解できるはずがなかった。

 佑介があたしに抱いてくれているのは、対等な好意だ。

 わけもわからないことを、わけもわからないまま愛してくれる壊れた愛情じゃない。

 対等。平等。

 今の――いや、あたしにとってそれ自体、土台無理な話なんだ。

「あたしだけ、しあわせにはなれないよ」

 佑介はじれったそうに頭を乱暴に掻き、怒りを露わにした。

「そんなのお前が勝手に決めてんだろ。死んだやつには何もしてやれないんだよ!」

 わかってる。

 悪いのはあたし。

 あたしだ。

「今、お前の目の前にいるのはおれなんだ。死んだやつのことなんか考えるなよ!」

「佑介にはわからないよ。ちゃんと生きてる、これから先にも希望がある佑介には」

 自分が嫌になる。

 結局、あたしは夢が叶いそうな佑介が羨ましかったんじゃないか?

 夢があることそのものが羨ましいのに、それが、佑介の努力とは関係なく舞い込んでくる。

 嫉妬。

 こんなにも、佑介が好きなはずなのに。

「どうして何もかも失ったみたいな言い方なんだよ。これからの頑張り次第だろ、ぜんぶ!」

 がんばれ、は残酷な言葉だとよく言う。

 そのことがすごく身に染みた。あたしが何もしていないって、そう言っているのと同義だ。

 お前はできるはずだ。だから、これからがんばれ。

 そんな邪気のない好意が、今はすごくつらい。

「佑介にはわからない。これからをつくるのは、これまでなんだよ」

「幸! いい加減にしてくれよ!」

 こんな、まぜっかえして、わからなくして、ごめんなさい。

 あたしには、素直に佑介と一緒に歩いていきたいなんて、とても言えない。

「留学でも結婚でも勝手にしてよ。あたしに構わずに、好きにして」

「それ本気で言ってるのかよ!」

「……」

「どうして、だよ」

 佑介が怒りに震えるのが、はっきりとわかった。けれど、その怒りをどうやって表現した方がいいのかさえわからないようだった。

 佑介は最後まで、あたしに対して懸命に向き合ってくれようとしたんだと思う。それでもふさぎ込み続けるあたしに、ついにかける言葉がなくなったのだ。

 怒られる方が百倍ましだった。あたしには、怒る価値もない。

 佑介が去ろうとしたとき、あたしも呼び止められなかった。

 今さら何を言えるんだろう?

 ほんの一〇分前までとまるで景色が違った。佑介との未来を、微かにでも感じることができたのに、もう真っ暗だった。

 春の風も、ただ生ぬるくて、肌がいらいらとするだけだった。

 めまぐるしく後悔の念ばかりが噴出し続け、気もそぞろのまま歩き続け、気づいたら自分の部屋にいた。

 見るだけ辛くなるだけかもしれない。それでも、あたしは自然と引き出しを開けていた。

 このセミのぬけがらも、もう三年前。

 そのペットボトルを持って、ゆくあてもないまま、外に飛び出した。

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