第14話 【第三章/春 においさえない、書き割りの世界で】③

《春/臼井 佑介 『春の嵐』》(後)



「……えーっと?」

 そこに立っていたのは、玲子でもなく、幸でもなかった。

 四十代くらいの、涼しげな目つきが特徴的な女だ。おれよりも身長は低いが、不思議と見下ろされているような……って。

「ふつつかものですが、よろしく」

 女は溌剌としながらも、不躾で相手の意思を踏みにじるような強い調子で言った。

 おい、それどこかで聞いたぞ。

「子どもの顔が見たいって、よく言われません?」

 すぐに正体を察する。玲子の母親の美津子さんに違いない。

「玲子の顔は、毎日見ているはずでしょう?」

 厭味に対し、心底不思議そうに質問を返す彼女を見て、はっきりと血の繋がりを感じた。

「……いや、言葉のあやです」

「お邪魔するわね」

 おれが何を言いたいのか要領を得ないのだろう。会話もそこそこに部屋に上り込んでくる。

「あの、お母さん。いや、お母さんって呼んでいいのかもわからないですけど」

「呼んでどうぞ。だってあなた、当然、玲子と結婚するんでしょう?」

「は」

 思わず叫びたい衝動に駆られるも、美津子さんの圧に口を噤んだ。

「結婚って……でも、玲子さんとも、まだそこまでは」

 いくらペースに呑まれているといっても、その結婚の話まで受け入れるわけにはいかない。

「何、ほかに結婚したい人でもいるの?」

「……あ、いや」

 幸の顔が過り、その後幸に扮した潤の顔が重なって、頭がぐちゃぐちゃになった。どう答えていいかわからなくて、言葉を濁すほかなかった。

 この状況で、「そうです」なんて言えるはずがない。

「心配しなくても、出来る限りサポートする。私、プロカメラマンだから」

「話が見えないです。まったく」

「カメラマンになるんでしょう、佑介さん?」

「!」

「イギリスに留学して、勉強してもらうわ。まずは一年様子を見させてもらう。そこから、プラス一年ね」

「留学……」

 さっきまでとは違い、即座に否定することはできなかった。

 おそらく、おれがカメラマンに憧れているのだと、玲子から聞いたのだろう。

 玲子と結婚したら、プロのカメラマンになるための修業をしてくれる、ということか?

 おれにとって、カメラマンはただの夢だった。

 何の現実味もないし、なれる/なれない、成功する/しない以前の問題だった。

 唐突にそれが具体性をもって目の前に現れた。

 いや、唐突だと思っているのはきっとおれだけだ。玲子もそのつもりで話を持ち出し、美津子さんも娘の提案に乗り、二人で話を進めてきたのだろう。

 おれに隠していたつもりさえないはずだ。玲子の『あれ、言ってなかった?』というしれっとした表情が浮かぶ。この母娘からしたら、『準備が整ったから伝えにきた』というだけ。

「お母さん! 着いたなら言ってよ!」

 血相を変えた玲子が現れ、部屋に駆け込んでくる。

 当たり前のように作られた合鍵を使って。

「玲子。結婚のことを、佑介さんは知らないと言っているけど」

「今回は、写真を見てあげて欲しいって言っただけで……臼井君を困らせないで!」

 思い違いだったか。玲子すら、この母親の行動にはさすがに驚いているようだ。

「でも、いずれは結婚するんでしょう?」

「……ええ!」

 玲子はたじろぎながらも、おれの顔を一瞥し、深く頷いた。

「おい、勝手に……」

「写真、見させてもらったわ」

 美津子さんが、ポケットからポラロイドの写真を数枚取り出す。おれが撮った写真で、文化祭で展示した作品だ。勝手に写真を持ち出されていた怒りよりも、次の美津子さんの言葉に緊張し、前のめりになっていた。

 一体、おれの写真をどう思ったんだろう?

 プロのカメラマンに写真を見てもらう機会なんて、なかなかない。

「……」

 自然と息を呑み、美津子さんの言葉を待ってしまう。

「はっきり言って、ひどい出来ね」

 美津子さんは、表情を変えずに言った。

 ……そりゃ、そうだよな。勉強だってロクにしていないし、題材だって曖昧だ。

 輝きを閉じ込めたい。

 そんな、曖昧な基準しかないのだから。

「お母さん。臼井君は、基本的な技術を学んでいないだけなの。それさえあれば絶対……」

 必死にフォローに入る玲子。勝手に写真を見せたことを後悔しているのだろう。

 美津子さんはおれの写真を貼った壁に向かって歩き、その中の一枚を剥がし取った。

「でも、すごく惹きつけるわ」

 美津子さんが眺めていたのは、潤のダイビングキャッチをおさめた一枚。

 そうだ、あの夏の予選大会。

 あの頃、今みたいな自分を想像できただろうか?

 自堕落で、無気力で。大切な人ひとり、笑顔にできない自分を。

「強く生きる人間の体温やにおいが、写真にそのまま閉じ込められているの」

「……ありがとうございます!」

「それは貴方の熱がなせる業なんだと思う。佑介さんはどうして、写真を撮るの?」

 どうして、おれは写真を撮るのか。

 一瞬の輝きを閉じ込めたいという強い欲求だ。

 ではなぜ、そうしたいと思うんだろう。

 今のおれに、返事をすることはできなかった。

「三日後までに、留学の返事を頂戴。写真の理由は、そこから見つければいいわ」

「え、ちょっと」

 美津子さんはおれの動揺を知ってか知らずか(いや、恐らく知りもしないだろう)機敏に立ち上がった。

「留学!?」

 玲子はあまり見ないような驚きの表情を見せた。美津子さんは一瞬振り返り、「玲子。貴方も出発の用意をしておきなさい」と冷淡に言い、部屋を出て行った。

 部屋に静けさが戻る。

 本当に嵐のような人だった。

「お母さんが勝手なことしてごめんなさい、後できつく言っておくから」

 玲子は珍しく狼狽の表情を浮かべ、おれに頭を下げた。

「……ちょっと、考えさせてくれ」

「臼井君?」

 おれが部屋を出ようとすると、玲子が腕をつかみ、引き留めようとした。

「臼井君ってば。きちんと断らないと、あの人本当に計画進めちゃうわよ」

「頼む、ひとりにさせてくれ。考えたいんだ」

 玲子は躊躇いながらも静かに頷き、おれの腕を放した。

 まず両親に相談することを考えたが、許可など下りるだろうか。

 大学の学費こそ出してくれているものの、おれの生活には基本的に無干渉だ。おれがカメラに興味を持っていることくらいは知っているが、写真家を目指すなんて言ったら怒る以前に相手にされないだろう。

 おれが自堕落で、何事にも本気になれないことは、両親が一番よくわかっているはずだ。

 ……いや、そもそもおれは行きたいのか?

 生半可な決意で行ったらうまくいくかわからない……どころか、どんな決意で行ったところで、カメラについて何の素養もないのに何ができるっていうんだろう。

 だけど、どうしても行かないと即決する気にはなれなかった。

 おれは大学に戻り、さっき追い返された学事課に戻り、休学のための手続きを尋ねた。受付の男はさっきのやりとりのことには触れず、事務的に休学の手続きを説明した。

 学長と面談ののち、親と保証人のサインを書いた書類を提出するらしい。

 大学の中庭のベンチで、その書類を眺める。その書類も、「処分してくれても構いませんので」と受付の男に手渡されたものだ。

 休学の旨が書かれた、ごくシンプルな紙。こんな紙切れ一枚で、おれの人生を動かせるなんて、実感がなかった。

 ……カメラマンになれる?

 このままこの大学にいて、周囲に流されて就職活動をしたところで、自分がやりたかったことに出会えるとは思えなかった。

 こんなチャンス、二度とない。

 誰かに相談しようと思ったとき、まず潤が思い浮かんだ。

 おれのことを一番よく知っているのは、間違いなくあいつだ。近頃の関係にはもちろん戸惑ってはいるけど、それでもおれにとって一番近しい人間である。

 おれは大学にいるであろう潤に電話をし、中庭に呼び出した。

 潤は要件を言わないおれに対し、怪訝そうにはしながらもこちらに向かってくれるという。彼は幸のために努力を重ねているし、幸だって、躊躇っただろうに、勇気を出しておれに電話をかけてきてくれた。

 おればっかり、立ち止まってはいられない。

 駆けつけてきた潤に対し、自分から呼び出したくせに、おれはどう話を切り出していいのかわからなかった。

「佑介……?」

 こちらの思い詰めた感情を察したのか、潤は窺うように、恐る恐る呼び掛けてきた。

「これ、見てくれるか」

 躊躇ったが、決意して潤に休学届を渡した。

「休学? どういうこと?」

「玲子の母親から提案されてな。写真の勉強のために、イギリスへ留学しないかって」

「留学?」

 潤は戸惑いを隠さずに声を上げた。

 驚きはもちろん理解できるが、その焦りには違和感を覚えた。眉根を寄せた表情には、憤りすら感じる。

「まだ、何も決まっちゃいねぇんだけどな」

 おれが顔を伏せたまま言うと、潤は不安そうにこちらの顔を覗いてきた。

「留学の期間はどれくらい?」

「まずは一年、と言っていた。……すまん、まだ説明できる段階じゃない。聞いたの、今日なんだよ。本当に勝手だよな、親子揃って」

 自分がシリアスになっているところを誤魔化したくて、つい苦笑いしてしまう。昔から知っている関係だからこそ、そういう弱みは見せられなかった。

 だから、潤が動揺を全く隠さず、おれの両肩を持ったとき、思わず言葉を失ってしまった。

「幸を置いていかないでくれ」

 潤が絞り出した一言に、おれは思わず顔をしかめてしまう。

 そのときの不安そうな潤の顔は、見たこともないような弱々しくすがる表情だった。

 やめてくれ。

 そんな顔、見たくないんだ。

「なんでお前が頼むんだよ」

「幸には佑介が必要なんだ!」

 人目をはばからない大声で潤は言った。

 居心地の悪さを感じてしまうが、潤にはまわりは見えていない。潤の動揺が伝播して、おれも返す刃で反論してしまう。

「幸がそう言ったのか?」

「……いや」

「それは、あいつ自身が決めることだろ」

 自分で言っていて、こんなに辛いことはない。

 おれはやっぱり、幸が自分を強く必要としているとは思えていなかった。過去の三年間がどうというだけではない。

 幸にとっては、おれではなく潤さえいればいいんだろう、という僻みがあったのだ。

「……」

 潤はそれ以上、言葉を重ねなかった。こちらの意思を、はっきりと理解したのだろう。おれがその一言を告げることの意味を。

 おれは潤に「試験、応援してるからな」とどうにか声をかけ、大学を離れた。

 再び家に戻ろうとしたが、玲子にも今は会いたくない。結局、ふらふらと匂坂市民球場へと向かっていた。

 居場所がなくなったとき、唯一心が落ち着くところだから。

 幸と過ごした過去だけが、おれを支えているのだ。

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