第13話 【第三章/春 においさえない、書き割りの世界で】②

《春/臼井 佑介 『春の嵐』》(前)


 このままじゃいけないのはわかっている。

 ソファの隣に座る潤を横目に、おれはいつ席を立とうかと迷っていた。

 後ろめたさで落ち着かず、自然と貧乏ゆすりをしてしまう。

「やめてよ、揺れんじゃん。間違えてエロサイト開いちゃったらどうすんのさ」

 携帯をいじる、幸に扮した潤の言動は、今の幸よりおれのイメージする彼女に近かった。

 幸よりも幸らしい。そんな風にすら思ってしまう。

 おれの隣に勢いよく座り、「あー疲れたぁ。化粧ってめんどくさ」なんて屈託なく笑った姿を見て、鳥肌が立ったくらいだ。

 ソファに座るときの乱暴さ、子どもっぽく足をぶらつかせる仕草、すべてがダブる。

 なりきるというレベルを超えていた。

 いかに潤が幸と一緒にいて、その姿を目に焼き付けてきたのかがよくわかった。

「聞いてんの、佑介?」

「……あぁ、悪い」

 本当は今にでも、「こんなことはやめよう」と潤に伝えたい。だが、拒もうとすると潤は空気を察し、潤は幸として、悲しそうな眼差しでおれを見つめてくる。

 こんな関係はいかれている。妹に扮した友人と、こうしているなんて。

 そこに恋愛的なやりとりや、性的な何かがあればまだ納得がいく。

 何より一番不自然なのは、『自然な』幸を演じられることだった。

 今、こうして一緒にいるのは潤から頼まれてのことだ。

『色々してほしいわけじゃないんだよ。ただ、幸になった僕と一緒にいてほしい。もちろん、幸として接してくれたら嬉しい』

 どうしてそんな風に願うのか、おれにはわからない。

 もし仮に、潤がおれのことを好きなんだとしたら。幸に扮してではなく、潤(それは女装をしていようがいまいが)を見てほしいと感じるはずじゃないか。

 もちろん、言及はできない。おれはそのことを受け入れる気もさらさらなかった。

 それでも断りきれなかったのは、潤の日頃のストレスを慮ってのことだ。

「これ、どう思う?」

 潤が携帯の画面を見せてきた。深い藍色をベースに菫の柄をあしらった浴衣が表示されていた。

「……さぁ、おれそういうのわかんねぇからな」

「気ぃ利かなさすぎでしょ! 似合いそうとか、もっとエロいのにしろとかないわけ?」

「あーわかったよ、似合う似合う」

 どうにか、幸に対していたようにわざと素っ気なく振る舞った。

「ホントにそう思ってる?」

 不満そうに顔を覗きこまれ、おれは逸らしてしまう。こんなのただのごっこ遊びだ。会話はうわべで、今の幸は絶対にこんなこと言いやしない。

「佑介?」

 近くで見ると、近頃の潤は顔色が青白く、血色がよくなかった。自律神経が乱れているのか、顔には脂汗が浮かぶこともあり、目がわずかではあるが血走っていた。

 医学部のスケジュールは詳しくは知らないが、文学部が二月中に再試を含めた大抵のテストを終えてしまうのに対し、三月は二月中に行われた再試のシーズンのようだった。

 得意な暗記科目である骨学や薬理学に対し、化学系の科目で苦戦しているそうだ。圧倒的に理系の科目の方が不得手のようで、再試が前提にあるような難関科目では苦戦は当然だろう。潤は元々、文系指向で、幸のことがなければ医学部に入ることはなかったはずだ。

 明日の再試で、ようやくすべてのテストが終わるらしい。しかも、その科目を落とすと進級は難しくなるとのことだった。

 彼はいつも、幸のためのメンタルケアの本を何冊も読んでおり、それをノートにまとめている姿を何度も見た。試験勉強に追われながら、一日でも早く幸の心を救いたいと努力を重ねている潤を見ていたら、こうして週に一度(それもたかが一、二時間)でもその瞬間を忘れたいと感じても、無理はないと思った。

「どうしたの、こわい顔しちゃって」

「してねぇよ」

 こうして潤と過ごすのは今日が二度目だった。

 おれは今でも幸になった潤に対して、どういうスタンスで接していいのかわからない。

 潤と同じように話すのはもちろん違うだろうが、幸に対して話す調子で応えるのも抵抗と、照れ臭さがあった。ぼんやりとした反応しかとれず、普通の会話なのに棒読みになってしまうことすらあった。

 一度目でしっかり断れず、二度目に応じてしまっていることをひどく後悔していた。

 こんなことして何になる。

 けれど、潤にとっては、心のバランスを取るための苦肉の策。拒むことが必ずしも正解ではないし、幸に知られない限りは誰も傷つかない。

 ……いや。これは言い訳だ。

 結局、おれは潤を拒んで傷つけたり、関係が壊れることが怖かった。

 傍から見ると男同士でこんな考えを抱くのはおかしいのかもしれないが、おれにとって、大切なら男も女も関係なかった。

「そういやさ」

 潤が言いかけたとき、おれの携帯が鳴った。一瞬そちらに目をやるが、潤は「電話なんかいいじゃん。なに、女―?」とふざけておれの携帯を手に取った。

「……え」

 潤は画面を見るなり、一瞬ではあったが、ふっと力が抜けたように幸でなくなった。

 目つきから、首の角度から、座っているときの膝の合わせ方まで、すべて。

 それがなければ、いくら顔が似ていたところでここまでハッとさせられることはない。

「なんだよ」

 おれは携帯を奪い取り、着信画面を見た。

 ……幸からだ。

 心臓が強く鳴った。幸から電話がかかってくるなんて、何年振りだろう。電話で最後に話したのはいつだっけ。

 色んな記憶がフラッシュバックしかけたけど、それらは一つとして輪郭をなさない。

 ピンボケした写真そのものだった。

 電話のコール音が鳴っている間、逡巡し続けたが、やはり電話に出る勇気はなかった。

 こんな状況で、何をどう話せばいいってんだろう。

 もう一度電話が鳴った。

 緊張して画面を見ると、幸ではなく、大学の学事課からだった。

「……もう、行くわ」

 おれは電話に応じなかった。

 大体用件はわかっている。学事課に今から行くのは面倒だが、ここで潤と過ごしているよりは幾分気が楽だった。

「ちょっと待って」

 潤は不自然に明るい声でおれを呼び止める。

 あらためて幸になるスイッチを入れたようだ。

 突如、おれの肩に手を回し抱き寄せると、もう片方の手で携帯を宙にかざした。

「え、おい」

 カシャ、と短いシャッター音がした。

 おれとのツーショットを撮ったのか?

「消せよ、誰かに見られたらややこしいだろ」

「どうしよっかな」

「何考えてんだよ」

 潤のことだ、そこまでリスキーなことはしないだろう。

 からかうにしてもエスカレートしてきてはいるが、こんなことで争いたくはなかった。

「じゃ、行くからな」

 おれが部屋を出ようとすると、潤もつられて立ち上がった。

「大学に呼び出されてるんでしょ? 僕も行くよ、図書館行って勉強……」

 潤は言いかけるが、立ち上がりかけてぺたんと座った。

「化粧、落とさなきゃ」

 その呟きは、たまらなくおれを不安にさせた。潤の悲しさと、あっけらかんとしている頃の幸の調子がミスマッチで、混ざり合わないマーブル模様を描く。

 消化不良のそれは大学に向かう途中にも、ずっと残り続けてた。



 潤の家から大学まではバスで二〇分程度なので、すぐに向かった。

 古びて黄ばんだマウスを片手に、学事課の受付の男は大仰なため息を吐いた。

「岬教授から、聞いたとは思いますが。近・現代文学演習のレポートの再提出をお願いします」

「再提出じゃないですよ。再々、提出です」

 おれは不満を隠さずに反論した。

「このままだと不可ですね」

「不可ですねって……」

 男は顔も上げずに、「提出期限は来週末までだそうです」とだけ言い、欠伸をかみ殺した。

 岬というのは、教授の中でもレポートの点が辛いので有名だった。

 しかも、その授業は必修科目のため、落としたらその時点で留年が確定する。

 どこが悪いとも言わず、ただ『不可』とだけ出されたことに対し、憤りを通り越し、無力感に襲われていた。

「まだ何か? ちなみに岬教授は本日、大学には来られていませんので」

 男はこちらを見ようともせず、心底疎ましそうに告げた。

「……わかりました」

 何も納得していなかったけれど、話していても埒が明かなかった。

 岬と連絡を取ろうにも、誰に頼ればいいのか見当もつかない。文学部は春休みに入っており、その棟にはそもそも人がほとんどいなかった。

 途方に暮れながら歩いていると、ちょうど校門前にスクールバスが滑り込んできた。まばらにいた学生が数人乗り込み、ぼうっと立っているおれをじれったそうに見つめた。

「乗らないの?」

 バスの運転手が苛立ちを隠さずに言う。

「……あ、いえ」

 もう、いいか。

 緊迫した気持ちの糸が切れ、バスに乗り込んでしまった。

 自分でも、何をやっているのだろうと呆れてしまう。

 あの科目を落としたら留年なのに、どうして教授の連絡先をどうにか探そうとしなかったのか、そもそもレポートを最初に提出するときに媚を売ることひとつしなかったのだろうか。

 自分を責める言葉は思い浮かぶも、どれも切れ味の悪いぼんやりとした声でしかない。

 幸からの電話のことばかりが気になってしまい、自己嫌悪に陥ることすらままならなかった。

 また、かかってくるかもしれない。

 あいつ、何を話そうとしたんだろう?

 バスが家の最寄の停留所に到着し、アパートへと歩いている間もそのことばかり考えていた。

 市民球場脇の工事現場の前を通ると、まだ工事が盛んに行われていた。一見すると、何が進んだのかさえ、わからなかった。

 この世界は、遅々として前に進まない。

 そう簡単に変わりはしないんだ。

 おれと幸との間に、これから時間はいくらでもある。

 電話を折り返そうか、迷うのをやめることにした。いったんそれは置いておこう。

 まずはレポートのことだ。

 その場の感情に流されるな、今何が必要かをちゃんと見極めろ。

 深く息をつき、高校球児が打撃練習に勤しんでいるところを眺めながら、策を練る。澄んだ金属バットの音の連なりが、おれの気持ちを落ち着かせた。

 まず、玲子を相談してみたらどうだろう。同じ授業を取っているわけだし、玲子ならレポートくらい楽に合格をもらっているはずだ。

 だけど、そんなの虫がよすぎはしないか。

 日頃あれだけ、手助けはいらないだの、放っておいてくれだの言っていたのだから。

 なぜ、岬教授はおれのレポートをあんなにも露骨に突っぱねるのだろうか。

 自分でも、もしやと思っている原因はある。

 おれはレポートの対象とする作家に、村上龍を取り上げていた。岬は生きている作家に対し、圧倒的に懐疑的であり、それがひっかかっているのかもしれない。

――生きている作家の創作物はすべて、活動の過程に過ぎない。作家の命が終わって初めて、その作家を論ずる価値が生まれる。

 岬はそんな風に言っていた。おれはどうしても納得がいかなかった。

 死んだ作家は反論ができないが、生きている作家は「声」を持っている。

 生きている人間の声をどうしてすべて「過程に過ぎない」と言えてしまうのだろう?

 どうしてみんな、死んだ人間の死んだ声ばかりに耳を傾けようとする?

 だが、これは邪推に過ぎない。事前に「村上龍を研究対象にする」という書類を提出した際には、それを通したのだから。

 はっきりと理由を伝えてくれれば改善のしようもあるが……。

 実際、岬という教授の授業はひどく人気がない。

 この大学の文学部に通う学生のほとんどは、作家や文学者を志してなどいないだろう。大抵が、多少勉強が得意な「文学好き」というレベルで、論文に対する熱がない。

 ましてや卒論ではなく、あくまで科目の一つに過ぎないのだ。

 持ち込み可の手抜きのテストを行う科目もある中で、これが必修というのは「はずれ」だというほかない。

 家に着く頃には、『果たして、この大学を続ける意味があるんだろうか』という疑問まで出てきてしまう始末だった。就職には不利な学部だろうが、熱心に就活をすれば箸にも棒にも引っかからない大学ではない、という程度だ。

 そんなそもそも論まで飛び出してしまった時点で、おれ自身が問題の核心から離れてしまっていることは明らかだった。

 悩む議題はなんだっていいのかもしれない。

 毎日、こういった疑問をこねくりまわし、アパートの天井の木の洞を数えている。

 玲子もまだ大学にいるだろう。帰ってくるまでは、何も考えたくない。

 めまぐるしく巡っていた考えを無理矢理シャットダウンするように、布団を頭からかぶる。眠気を頭の奥から引き出す。そうすると本当に睡魔が襲ってきて、少し救われた。

 微睡み始めたころ、チャイムが鳴った。

 面倒で無視しようとするが、連打される。

 玲子?

 ……いや、まさか、幸?

 おれは緊張を抑え、ドアを開けた。

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