第12話 【第三章/春 においさえない、書き割りの世界で】①
《春/遠藤 幸 『死者の声』》
三月になってもまだ肌寒いのに、町は春になったと騒いでいる。
きっとみんな、それだけ待ち遠しいのだ。何度も繰り返している、ただの春。
温かい風が、蕾をつけ始めた木々を揺らすだけの季節。
毎年代わり映えもしないのに、毎度浮かれているなんて、くだらない。季節がなんであろうと、あたしの心は救われない。
……この三年間、ずっとそんな風に思い続けていた。
でも、今年はその春の訪れが妙にくすぐったかった。
平日の昼過ぎの霊園内は静かで、木々のざわめきが幾重にもなり、奥行きを持って聞こえる。
街からはさほど離れていないのに、現実から遮断されたかのように静かだ。
ここにきたのは、今年になって初めてだろうか。
大抵、昼前まではデパートの屋上にいて、昼休憩の会社員やデパートの職員たちが来る前に引き上げる。その後はいつも、駅に向かう。路線図を見て、行ったことがない街を探してうろついていることがほとんどだ。知らない人間に囲まれ、そこに身を任せている瞬間は少し楽になれたから。
だけど、月のお小遣いがなくなったらそうはいかない。
そういう日は、今日みたいに霊園を歩いていた。日々をただ潰すように過ごしている、と何をしているよりも実感できた。
日々を潰す。いつかどうせ死ぬんだし、それは明日でも構わない、という投げやりな気持ちならまだいい。でも、あたしが抱いているのは、「あたしは死ぬべきだ」という、もっと積極的な死への歩み寄りだった。
だから、じっと座っていたり、寝ているのは苦手だ。不安ばかりがぐるぐると巡ってしまうから。
かつては、佑介ともよく霊園を歩いていた。それも夜中に。話をしていて止まらなくなって、でも、二人とも喫茶店に行くお金もなくて。
佑介から「ここに行こう」と口に出して誘われるわけではないけど、自然と足が向いていて、気づいたらずっと霊園を歩いているのだ。
『てかさ。女の子連れて歩くのに霊園選ぶのって、ありえないでしょ』
あたしはいつもそんな風にぼやきながら、内心まったく嫌ではなかった。
ここは落ち着いたし、佑介もやっぱり同じ気持ちだったようだ。
あたしと佑介は性格も好みも全然違う。
だけど、誰とも通じ合えない孤独な部分では、佑介とわかり合える気がした。
佑介は、言っていた。
――死者は静かだ。――何も語らない。何も訴えてこない。――死者の声なんてのは、生きている人間のエゴでしかない。――ここにいると、なんか落ち着くんだ。
生きている人間より、おれに近い気がするから。
そのとき、あたしは『はぁ? 佑介病んでるなー』なんて呆れた顔をして流してしまったけど、本当はどきりとした。それはまだ、トモの死を迎える前だったのにもかかわらず。
帰った後も、頭の中で佑介の言葉を何度も繰り返していた。
生きている人間よりも、死んでいる人間に近い?
佑介に欲望がない、というのとも違う。佑介が自分で無欲だなんて言うはずがない。
もしかしたら、佑介は自分の存在の希薄さを常々感じていたのだろうか。いつその命がついえるかどうかではなく、生まれながらにそういう存在だと。
佑介の言い様だと、死者は無力だという感じだった。あたしもそのときは、そう信じて疑わなかった。
だけど、それは間違っていた。
トモの死は、生きている誰よりもあたしの心を揺さぶり、動かした。生きている人間のエゴ。そんなレベルはとうに超えている。
死者は誰よりも強い。
死者は確実に、ここにいる。
だからみんな、葬式や供養をして、死者との距離をはかるのだろう。
でも、あたしは弔いをし損ねてしまった。トモは消えることはない。
もう帰ってこない思い出を忘れられないのと、同じで。
あたしは今朝も屋上に向かい、ベンチの裏に寝そべっていた。
『おにいちゃん』と書かれた文字をそっと撫でる。
あたしの想い出の、一番やわらかいところ。
そこは、あたしがずっと一緒にいることを願った人の名前を書く場所だった。
今日、大切にしてきたその文字を、サインペンで塗りつぶした。
もちろん、潤兄は今だって一番大切な家族だ。
もっとも大切な人間は誰か、と訊かれても、今でも兄のことが浮かぶことには変わりない。
……でも、あたしの中に、僅かな疑念が生まれてしまっていた。
あの夜、佑介の部屋のバスルームには潤兄がいたはずだ。佑介は不自然に隠そうとしていたけれど、他にいない。
停電の後、鍵を開け閉めする音がした。あたしは気が動転しながらも、その薄闇の中、潤兄が出ていくのを見た。
潤兄が部屋にいたことを、なぜ隠す必要があったんだろう?
隠されてしまうと途端に後ろめたいことだと感じてしまい、言及することはできなかった。
……いや、こんなのは些細な引っ掛かりだ。
こんな曖昧な出来事くらいでは、潤兄への信頼は揺らがない。
揺らがせてはいけない。潤兄は、あれだけあたしを想ってくれているのだから。
だけどベンチの裏に名前を書こうとしたとき、自然と手が別の名前を書いていた。
『佑介』
潤兄への疑念から、佑介に気持ちが移ったのではない。順位をつけることなどできない。
一つ確実なのは、佑介への想いが日々膨らみ続けていたということだ。
それは、佑介と話をしていなかった期間も、ずっと。
ずっと好きだったのに、名前をこうして書いたのは初めてかもしれない。
好きな人の名前を書くということ。
大人になってそれをしてみると、特別な時間だと気付いた。
ペンで汚れた、自分の手のひらをぼうっと見る。
佑介は、あの合宿の夜、発熱して朦朧としているあたしの手を握ってくれて。
眠るまでつきっきりでいてくれた。
まどろんではいたけど、ひんやりした手の感触を覚えている。
手のぬくもりなんてよく言うけど、あたしは冷たい指先が佑介らしくて、温かく感じた。
だけど、あのとき言えなかったことがある。
あのとき佑介は泣いていた。
佑介が変なタイミングで泣くのは、以前と変わってないみたいだ。
本当に、なきむしなんだから。
どうして泣いてたの、ていうかまた泣いてんの、なんて言えたらよかったんだけど。
どんなことで涙するのか、そんなことすら知りたい。
『そんなことで泣いてんの、バカじゃん』なんて笑いながらさ。
――お前がトモを殺した。
誰かの声で、頬の緩む想像を遮られる。
ズキン、と目の奥が痛む。
――昔のことを忘れて、しあわせになるのか?
わかっている。
どこにいても聞こえるこの声は、『誰か』のものではなく。
あたしが苛まれているのは、自分の声に他ならない。自身のことなら、うまく整理がつけられると思ったのに、実は一番根が深く、やっかいだった。
己に打ち克て。
簡単に言うけど、乗り越えるべき対象が自分であるがゆえに堂々巡りになってしまう。
トモのことを忘れて、あたしは前に進んでいいのだろうか。
覚えたままでも、前に進んでもいいんじゃないか?
あたしの人生なのに、トモのことをずっと背負って生きていかなくちゃいけないのか?
そんなことがぐるぐるする。
いつのまにか、『佑介』と書いた文字をぐちゃぐちゃと塗りつぶしてしまっていた。
大丈夫。
落ち着け、大丈夫だから。
ちゃんと前に進んではいる。
少し前だったら、佑介のことを考え続けることすら苦しくてできなかった。すぐにでも潤兄の声が聞きたいと、迷惑を顧みずに携帯に手を伸ばしていただろう。
そんな風に自分で納得して、屋上を後にした。
あたしは携帯を手にした。木漏れ日が画面を照らし、文字がぼんやりと白む。
その眩しさに顔をしかめながら、今の不思議な昂揚感に心が躍っていた。
佑介、今どこにいるのかな。
震える手で、佑介に電話をした。
何気ない様子でかけようと努めたけど、自分を騙すことが難しいのはあたし自身がよく知っていることだった。
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