第11話 【第二章/冬 桜のにおいを、待つ季節に】⑤

《冬/臼井 佑介 『満開の桜』》


 幸はかなり憔悴した様子だった。

 顔を一瞬照らしたときに見た、赤く腫れた瞼と、落ち着きなくあちこちに惑う瞳。

 幸がいかに恐怖と闘っていたかを物語っていた。

 ……だから、幸が浴衣の帯を緩め始めたとき、何が行われているのかさえわからなかった。

「何やってんだよ」

「後で何言われるかわかんないし」

 幸は妙に早口で、息遣いは荒く、平常心には見えなかった。これが、潤が言っていた「発作」だろう。今思えば、幸がトモのことを告白したあの雨の日も、発作を起こしていたのだ。

「馬鹿か! いいから着ろ!」

「セックスするなら、脱がなきゃダメじゃん」

「……あ?」

 男は欲望で――ことに、性欲で動く生き物である。そう揶揄されても、おれは腹が立たない。

 社会が作り出した理性がなければ、動物と何も変わらないのは否定できないし、そんなことで頭がいっぱいなのも事実だから。

 けれど、やっぱりおれは人間だ。

 脈絡のないセックスに、『それじゃあ』と飛びつくことは、さすがにできなかった。

「あたし、おにいちゃんに似てるんでしょ?」

 朦朧としながらも、幸は皮肉に笑ってみせた。

「は?」

「親友の女装姿をその妹に重ねてベッドイン。さすが文学部、胃もたれするほど文学的……」

 幸は言い終わらないうちにふらつき、もつれるように掛布団に倒れ込んだ。もしかしたら、熱を出しているのかもしれない。

「大丈夫か、色んな意味で」

 おれは幸に歩み寄った。

 幸は返事をしなかったが、深く息をつく音だけは聞こえた。静寂の中、床を踏みしめるギシ、ギシという音だけが響く。幸の傍に座ると、彼女は身をよじり、おれから離れようとした。

「おい、動くな。危ねぇだろ」

「……やだ、一緒にいると何されるか」

「むちゃくちゃ言うな、お前が最初にしようって言い始めたんだろ」

「そう、だけど」

 立ち上がろうとする幸の肩を掴み、どうにか座らせる。暗闇のなかでも、身を竦ませるのが息遣いで感じ取れた。

「目、閉じろ」

「……どうせ真っ暗じゃん。だいたいさ、キスするとき、目をつむるって誰が決めたの?」

「うるせぇな、いいから閉じろ」

 しん、と呼吸の音が消えた。目を閉じたのだろう。

 おれは暗闇を手繰るように幸の顔の気配を触ると、そのまま鼻をつまんだ。

「……ふぇ?」

 幸の間抜けな鼻声。

 自分からセックスがどうのと言っておいて、キスにここまで震えていることに、思わずにやついてしまう。こっちまで恥ずかしくてむずがゆくなった。

「バーカ」

 そういえば、昔もこうして幸の鼻を摘まんだことがある。ワンパターンなドッキリをする自分と、そのワンパターンにまんまとはまる幸。

 前に進みたい、そんなことばかりがいつも頭をよぎるけど、変わらないことだって大切だ。

 少なくとも、幸には無理に変わらないでほしい。

 おれだって、変わらないからさ。

 そんな気持ちを伝えたくなったけど、今はそれどころじゃないと飲み込む。

 ずっとこんなことの繰り返しで、おれは幸に好意や、そのとき感じた高鳴りを伝えたことはない。これまでに、一度でも素直な想いを口にしていたら、今はきっとないはずだ。

 後悔しているはずの、今。

 だけどおれは、幸と結ばれるパラレルワールドがあっても、そんな世界を自分のものにしたいとは思わないだろう。

 色んな時間軸があるとしても、いわば今は、幸とうまくいかなかった失敗パターンの現実だ。

 なのに、目の前にあるこんな刹那的な愛おしさだけで、この瞬間を手放したくなくなった。

「やっぱ熱あんな」

 おれが幸の額に触れると、彼女は俯き、観念したように布団に横たわった。

「どうして戻ってきたの?」

「まだそれ訊くのかよ。もういいだろ」

「潤兄に、頼まれたんじゃないの?」

「……」

「やっぱり」


 停電し、幸に部屋を追い出された直後。

 足元の非常灯だけが頼りの廊下で、部屋を出てきた潤がおれの後を追いかけてきた。暗闇に乗じて、幸に見つからないように脱出したのだろう。

「佑介。幸をひとりにするなんて」

 幸に一方的に絡まれたすぐ後だったから、おれは苛立ちを隠さずに潤に反論した。

「いや、おれはお呼びじゃない。ケツまで蹴られて追い出されたんだ。お前が戻れよ、潤」

「まだ化粧落としてなくて」

「んだよ、こんな暗かったらわからないだろ」

「……いつ停電から復帰するかわからない」

「お前が何を考えてるのか、わからねぇよ。おれと幸をくっつけたいのか? それとも……」

 さっきの、風呂場での幸に扮した潤が忘れられなかった。

 あのときの潤の憂いの表情は、間違いなくおれに対しての好意を匂わせていた。

 察してくれ、という粘ついた感情。いつもの潤からは想像できない。

 なのに、今はすっかりおれの知っている元の潤だった。

 いつだって幸のことを優先し、自分を押し殺す、過保護な兄としての潤。

「今は緊急事態なんだ。このまま放っておいたら、幸は……」

 潤の声が震え、幸が露わにした動揺なんかよりもひどい焦りを浮かべた。幸が嵐や暗闇に怯え、いてもたってもいられない状況だと思っているのだろう。

 さっきあんなことを言っていたくせに、結局いざとなったら幸、幸、幸だ。

 潤のいいところでもある。けど、それって何か違わないか。

 おれはさっき潤に感じていた怒りの正体に、ふと気づいた。

 潤は幸の保護者だ。それは間違いない。

 それでも、潤の態度は幸をあまりに子ども扱いし、成長どころか努力すら期待していない振る舞いにしか思えなかった。

 これじゃあ、甘やかしを越した腫れ物扱いだ。

 幸の友人の死が、彼女の優しさを弱さや無力さに変えてしまったんだろう。

 あいつは、このままでいいと思うようなやつじゃないはずだ。

 そのためには、潤だけに全てを頼る構図自体を、変えていかないといけない。

 対等な関係だからこそ生まれる虚勢や強がりが、幸を強くすることもある。

 おれが相手なら、幸は折れずに自分と闘うだろう。

 ……そのときは、そんな風に思ったんだ。

 なのに、いざ幸と接してみたら、おれが抱いた感情は潤と同じものだった。

 昔のままの幸でいい。過去の出来事を清算できれば、成長なんてものは望まないという、自己完結的な愛情でしかなかった。

「わかった。戻るよ」

「ありがとう、佑介!」

「だけど、別に助けに行くわけじゃない」

「……」

「おれは幸が好きだ。……きっとな」

「佑介」

「幸が好きだから、会いに行くだけだ」

 勢い余って言ってしまったが、なんでこんなタイミングで告白、しかも潤に。

 とは思いつつも、後悔はしていない。

「ありがとう」

 潤は笑った。おれが知っている潤だった。

 語弊があるかもしれないけれど、おれはきっと、幸と潤が同じくらい好きなのだろう。

 潤だって、迷うことはあるはずだ。

 さっきのやりとりだって、潤は悔やんでいるかもしれない。

 彼のためにも、おれが幸のもとに向かわなければいけなかったのだ。



「潤は関係ねぇよ」

 潤に言われてやむなくここに戻ってきた、という幸の意見が間違っているわけではない。

 でも、おれはあえてそのことは伏せ、幸にそう答えた。

 いつもならきっと、『潤に頼まれて仕方なく』とはっきり言ってしまうだろう。

「なんでもかんでも、お前らの言いなりじゃねーからな」

 おれはいつも向き合うのを億劫がって、その場その場がどうやったらスムーズにいくか、そんなことばかり考えて行動していた気がする。

 自分が何をしたいのか、何を望んでいるのか、自分でもそれがわからなくて。

 だけど、一つだけ。あまりに単純なことに気づく。

 おれは、幸とこんな風に喋りたかったんだ。

 前進も後退も関係ない。今、ここにおれと幸しかいなくて、世界がどうとか、おれたち二人以外の誰かがどう思うかとか、すべての繋がりが暗闇で途絶えていたのだ。

 幸は気の抜けたような小さな笑い声をあげ、ぱさ、と軽い音を立てて横になった。暗闇に目が慣れ始めて、彼女の髪が静かに揺れたのがわかった。

「ホントにしなくてよかったの?」

 幸の減らず口。

 息さえ整わないくらいの体調なのに、よくもまぁそんなことが言えるもんだ。

「こんなフラフラのやつとできねーよ」

「佑介」

「ん?」

「……心配してくれて」

――ありがとう。

 幸はきっと、そんな一言すら勇気を振り絞って伝えてきたんだろう。

 不器用すぎる、素っ気ない調子。おれは短く「あぁ」とだけ答えた。照れ臭さに、それ以上続けられなかった。

 徐々に、ぼんやりではあるが周囲が見え始めた。

 布団を掴み、幸にそっとかける。恐らく、薄い浴衣一枚しか着ていないだろう。

「……心配しなくても、明日にでもしてあげるから」

「だからいいって言ってんだろ」

「『布団一枚かけました』ってだけで恩着せて、すっごいスケベなこと要求すんでしょ。やることやっといて、あとで『ホントによかったのか?』とか訊くの。ねぇ、それがあんたのやさしさなの?」

 幸はおどける。呼吸のかわりみたいに。

 そうすればするほど幸は痛々しく映り、護らなくちゃいけないんだ、と感じさせた。さっき、そればかりではいけないと知ったはずなのに。

 わかるよ、幸。

 おれとお前は、本当はすごく似ているのかもしれない。

 今、二人の間に真剣さを持ち込むのは危険だと肌で感じているのだろう。

 おれは幸を好きだし、幸だって好きでいてくれている気がする。

 だからといって、両想いだから結ばれる、とは簡単にはいかないんだ。

 一番大切な部分に踏み込まず、こうしてふざけあっていられたら、ずっと。

 おれも、お前もきっと、そんな風に考えているんじゃないか?

「無理してんじゃねーよ。ていうか、お前熱出た方がよく喋るのな……」

「ふざけてないと、死ぬかも」

 ぱち、ぱち、と音がして、天を仰ぐ。蛍光灯が弱々しく明滅し、部屋にあかりがともった。

 幸とパッと目が合い、互いに視線を逸らす。真っ暗な中だから、あんなふうに軽口を叩き合えていたのかもしれない。

 気恥ずかしくなり、おれは立ち上がろうとする。

「どこ、いくの?」

 幸は細い声でおれを呼び止めた。

 ふざけることすら、ままならなくなってきているのだろう。

 さすがに、ただ安静にしているだけでいいのかと不安になった。

「まずは風邪薬ねーか、フロントできいてくる。ほかになんか欲しいもんあるか?」

「……デパート」

 幸の一言に、おれはぽかんとする。

 なんというか、さっきまでとは冗談の質が違う。

「ムチャクチャ言うなよ。とりあえず、行ってくるわ」

 おれが言うと、幸は小さく横に首を振って、掛け布団から右手の指先だけを出す。

「ん。寝るまで、握ってて……」

 幸は照れ臭そうにそう言いかけるが。

 こちらがリアクションをするまでの一瞬で、すぐに幸は自らの言葉に上書きをするように、大声を上げる。

「あーもう、忘れて! ……何言ってんだろ、あたし」

 おれは思わず吹き出してしまう。

「なんで笑うの? いや、笑うか。笑うよね。だって」

「わかったから、もういい」

 そう言って、おれは幸の手を握る。指先を包むように。

「……佑介?」

「早く、寝ろよ」

「勝手にどこも行かない? 約束、してよ」

「わかったから寝ろって!」

 彼女は声を出さず、弱々しいはにかんだ笑顔を見せ、目を瞑った。

 幸に感化されて熱っぽくなっていた頭が冷え始め、おれは一息つく。

 そろそろ潤も戻ってくるだろう。

 この手を、握ったままでいいだろうか。

 いや、いい。

 おれは逡巡しつつ、口を開いた。

「おれさ、お前のこと……」

「ごっ」

 幸が、返事代わりにいびき交じりの寝息を立てた。

「色気のねぇやつ」

 寝ててくれてよかったかもしれない。

 このまま遮られなかったら、おれは何を言おうとしたんだろう?

 おれは、幸の手を強く握った。

 いつもは苦手だと感じている沈黙だけど、今だけは温かく感じられた。

 息を細く吐くと、なぜか吐息が震える。

「……あ?」

 つーっと、涙がこぼれた。自分で泣いておいて、手の甲に雫が落ちるまでそれに気づきさえしなかった。

 泣いているのだ、と知ってからようやく目頭が熱くなった。

 今、悲しいわけじゃない。嬉し泣きとも違うだろう。

 おれはこのとき――幸と静かに、手を繋いでいる瞬間――が終わってしまうことを、終わる前から考えてしまって切なくなっているのだ。あまりに刹那的で、脆いと。

 満開の桜を見て、自然と物悲しくなるのに似ているのかもしれない。

「――」

 聞き取れなかったが、幸が何か呟く。寝言だろう。

 もしかしたら、おにいちゃん、と言ったのかもしれない。

 やっぱり、幸の中ですぐに助けに来るのは潤なのだろうか。

 いや、でもそれは『まだ』というだけだ。

 今はいい。さっき、幸が笑ってくれたから。

「臼井君!」

「!」

 廊下から、騒がしい足音と、玲子の大声が迫ってくる。

 そうだった、警戒すべきは潤よりも玲子だった……。

 おれは焦って幸の手を離し、幸を覆い隠すよう布団をかぶせた。

 玲子が勢いよく部屋に入ってくると、おれの前にいつもの仁王立ち。

 咄嗟に幸の手を離した。焦りで、さっきまでのシリアスな気持ちが霧散してしまう。

「臼井君、親の顔が見たいって言ってたわよね!」

「え? は?」

 玲子はおれに携帯電話の画面を差し出した。メールの文面が表示されている。

 送り主は、清水美津子……?

 清水って、まさか。

「母に臼井君のことを紹介したら、ぜひ会いたいって!」

 文面は、来年に帰国する際、おれを交えて食事をしようという内容だった。

「勘弁してくれよ!」

 もういっそ、幸が目覚めてすべてをぶち壊してくれないだろうか……。

 そんな他人任せの考えが過った。


                               【第二章・終】

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