第10話 【第二章/冬 桜のにおいを、待つ季節に】④
《冬/遠藤 幸 『屋上の結婚式』》(後)
デパートの屋上。
ベンチの下。
腕に覚えたコンクリートのざらつく感触も、ベンチの裏の錆臭さまで、すべて蘇る。
ベンチの裏の文字。ひらがなを覚えたばかりのあたしが書いた、『おにいちゃん』の文字。
横を向くと、幼いあたしが、潤兄に手を引かれている。かつて屋上にあった小さなチャペルに釘付けになっていた。
ライスシャワーで祝福され、くすぐったそうに笑う花嫁に見惚れているのだ。
信じられないくらい輝いていて。見ていると、どうしてだか胸が苦しくなるくらい。
あたしは手を繋いでいた潤兄の手を放し、人波をすり抜け、花嫁に駆け寄った。
「あ、ちょっと、幸!」
潤兄が呼び止めるのも聞かず、彼女の目の前に立った。
周囲にいた大人たちがあたしを止めようとしたけど、花嫁はそれを制止する。
あたしの前に屈むと、人懐っこく微笑む。幼い子供に接する態度ではなく、同い年の女の子同士で笑いあうように。
「……んー? どした?」
「どうして、そんな、キラキラしてるの?」
「だって、しあわせなんだもん」
花嫁は一瞬花婿を振り返って、照れたような笑みを浮かべる。その笑顔には、見覚えがあった。
潤兄が写真で浮かべていた顔だ。
照れ臭いけど、何より愛おしい誰かに微笑む顔。
「好きな人が隣にいるから、ね。……そーだ!」
花嫁はあたしに耳打ちをする。
「……なんて言ったの?」
花婿は苦笑をしながら、花嫁に尋ねた。彼女はいたずらに笑ったまま、
「さぁねー」
と、花婿の腕に抱きついた。それを見て、また参列者たちが冷やかす。
あたしもあんな笑顔、できるようになるんだろうか。
耳打ちをされたあたしは花嫁につられたように目を輝かせて、潤兄に向かって駆けだす。
「おにいちゃん、ペンもってる?」
潤兄はいきなりのことに驚きながら、すぐに鞄に顔を突っ込み、ペンをあたしに差し出す。
「これでいい?」
あたしが鼻歌交じりにこっちに駆けてくる。あたしに重なってベンチの下に寝転がった。
ごめんね、佑介。あたしの方が、歌下手かもしれない。
あたしは拙い手つきで、ベンチの裏に『おにいちゃん』と書いた。そういえば、まだあのときは『潤兄』じゃなくて『おにいちゃん』と呼んでいたんだっけ。
花嫁は、あたしにこう言った。
『お気に入りの椅子の裏に、大切な人の名前を書いて。それがずっと残ってれば、二人は結ばれるの』
ずっとか。
ずっとって、いつまでなんだろう。
あたしは、あの頃しあわせだった。
誰かと結ばれたからじゃない。
誰かと結ばれることを夢見ること自体が、何よりしあわせで。
大切な人。
困ったときに、助けを呼びたい人じゃない。
嬉しいときに、笑いあいたい人のはずなんだよ。
――ガタン、ガタン。
建物を揺らす風の音で我にかえりそうになる。
頭が熱っぽくてぐるぐるする。
ベンチの文字が歪んで、マーブル状に渦巻いて。
駄目だ。
耳を塞いで、布団に丸まる。
「おにいちゃん……」
「幸?」
その声で、暗闇の中、ぽつ、と灯りがともったような気がした。
潤兄。
「おにいちゃん?」
布団を退けて、暗闇の中で潤兄の姿を探した。
お兄ちゃん、なんて呼ぶのは何年振りだろう。
懐中電灯の明かりで、声の主が自らの顔を照らす。
そこに立っていたのは。
「……じゃなくて悪かったな」
佑介だった。
「え? なんで……」
眩しさに顔をしかめる。懐中電灯の光が、あたしの顔に当てられた。
「お前、泣いてんのか?」
佑介は馬鹿にしたように笑うけど、響きは温かかった。
今のこの空気を、どうにか和らげようとしてくれているのだろうか。
「いつも泣いてんのあんたじゃん」
「顔、赤いぞ?」
「っさい!」
「なんだよ、お前が鍵なんか閉めるから、わざわざフロント行ってきたんだぞ」
「つか、なに戻ってきてんの?」
「あん? ……いや、まぁ」
佑介はとたんに口ごもる。
お互いに表情もわからない中で、佑介が何をぼやかそうとしているのか、はかりかねた。
でも、理由なんかどうだっていい。
そうまでして戻ってきてくれたんだ。
「復旧までにはまだかかるみたいだ。危ねぇから動くなよ」
佑介が近づいてくる気配がする。
どうしよう、なんか緊張してきた。さらに頭が熱くなって、目の奥が痛くさえなる。
ここで佑介の好意に甘えて、身を委ねてもいいのだろうか。
いや、あたしにそんなことができるのかな。
施しを受けたら、何か対価を払わないといけない。それが対等な関係。
一方的に頼ってはいけない。甘えてはいられない。
もう子どものときのようなしあわせな世界が、手を伸ばしても戻ってこないことを知るのが怖かった。何かを望むことに、代償があるなんてまだ思いもしなかったあのときに。
今あたしができることはあるんだろうか。
いや、わかっている。
あたしが佑介に、できること?
……今日、つけてきた下着を思い出した。
上下バラバラ。
というか誰かに見せる機会もないし、そろっていることの方が珍しい。
暗闇の中、あたしは一方的に決意を固めていた。
ごめん、佑介。
あたしは佑介に、こんなにも不器用にしか触れることしかできない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます