第9話 【第二章/冬 桜のにおいを、待つ季節に】③
《冬/遠藤 幸 『屋上の結婚式』》(前)
写真部の女子部員の人たちと同室になり、あたしはたまらなく息苦しさを感じていた。
潤兄を追って合宿に無理やり参加したとはいえ、見知らぬ二人と同室は居心地が悪く、後悔し始めていた。
「ね、知ってる、潤先輩の妹ちゃーん?」
向こうが気を遣ってくれているのはわかっているが、妙ににやついた調子が気に食わなかった。名前さえちゃんと覚えていない。
東と岡村。どっちがどっちだっけ。
両方が、潤兄のことについて波状攻撃のように話しかけてくる。
「潤先輩って、佑介先輩とできてるんだよー」
「二人を同室にしてもらったの。部屋割りこっちで勝手に決めちゃった! 今二人、何してるのかな?」
うるさい。黙れ。
触れて欲しくない部分に、ずかずかと土足で入ってくる二人が許せなかった。
最近落ち着いていたのに、頭がぐちゃぐちゃになって脳が膨らむ感覚が蘇ってしまう。息が荒くなってしまいそうになるのを、イメージの中で深呼吸することで鎮める。
今にでも叫びたい。
「何ってさ、岡村ぁ」
「何だろうね、東」
黙れ。黙れって。
けど、こんなところで爆発させたら潤兄に迷惑がかかる。
「男同士で、そんなのありえないですから」
震える声でどうにか返す。
どうにか笑う。ひどい顔をして笑っているのだろう。
助けて、潤兄。
「……だはは! え、妹ちゃんウケるね! 本気で心配してるのー?」
「えー、でもマジでなくもないよ。あの二人なら」
「だからやめなよ、東ぁ」
「……」
「ちょ、妹ちゃん凍りついちゃってるんじゃーん」
あたしは立ち上がる。ここにいたら、いつこの二人に当たり散らしてしまうかさえ、わからない。
潤兄の顔が見たい。
佑介がいるけど……最近は少しずつ、話せるようになってきたもんな。
うん、大丈夫、行ったらどうにかなる。
「あの、えー……」
「妹ちゃん?」
あたしはろくに言い訳も思いつかず、しどろもどろのまま唸り、立ち上がって布団を抱える。
二人が声をかけてくれているけど、無視して足でドアを開け、部屋を出てしまう。
せめて何か言えばよかったと後悔しながらも、一階下の潤兄たちの部屋に向かった。
「潤兄は?」
部屋には、仰向けに寝転がった佑介だけがいた。
こっちを見ずに、蛍光灯を見つめていた。
あたしもたまにそうする。目の中の光の虫みたいなのがうろうろとして、それを見つめているとなぜだかホッとした。その虫はこの世界の虫じゃなくて、どこか別の世界の虫で。間違っても、誘蛾灯なんかで命が絶えたりしない。
そんな空想を、佑介なら共感してくれるかも、なんて。
「潤なら風呂だぞ。おれが行かないって言ったら、ひとりで大浴場に行ってくるって」
「……そ」
確かに、佑介は大浴場にはいかなさそうだ。
でも、潤兄も大勢で入るお風呂が好きなイメージはない。少なくとも佑介を置いてひとりで行くなら、部屋のバスルームで済ませそうな気がする。
「なんだよ、布団なんか持ってきて」
佑介に言われ、自分があの部屋から逃げ出したくて必死だったことにハッとする。
「潤兄に何かしないか、見張りにきた。……さてとぉ!」
佑介に素直にSOSを出すことはできなかった。
ただ、あたしが潤兄との関係を怪しんでいると思ってくれているくらいがちょうどいい。
それがだんだん冗談みたいになって、いつかまた、普通に話せたり……。
佑介と、近づきたい。
あたしが佑介を避け続けた三年はあまりに長かった。よく考えれば、佑介とは付き合っていたわけじゃないし、片想いをしていただけのような気がする。
そんな関係のあたしたちには、三年間離れていたことは致命的だった。わだかまりが少し解けたからって、仲良くおしゃべりししましょうというのは無理がある。
さっき、佑介から提案して写真を撮ってくれた。佑介だって、ぎくしゃくした部分を解きほぐそうとしてくれている。
結果、それは冗談めかして撮ったピンボケした写真で、ちょっと寂しくはあったけど。
近づけるんじゃないか。
そんな予感に満ちていて、いつもまでも悲しんでいたら、死ぬまでこのままだと思った。
あたしは腰をひねり、その反動で布団を佑介に向かってぶん投げた。
「うべっ」
「玲子さんの部屋行ってきたら? 一人部屋なんでしょ?」
顔にかかった布団を剥がし、佑介が不満そうにする。
「別に。ここの方が気楽だからな」
「行った方がいいって。まだ一回もしてないんでしょ?」
仲良くしたいのに、追い出そうとしている。矛盾しているようだけど、していないはず。
「はぁ? なんでお前がそんなこと」
これは、潤兄と佑介が電話をしていたのをこっそり聞いたときに知ったことだ。
どうやら、佑介は玲子さんと未だにセックスをしていないようだった。
……ていうか、佑介って今までにしたことあるのかな?
女の子と付き合ってるって話、玲子さん以外に聞いたことない。他の子と仲良くしているところや、想いを通わせているところなんか想像したくもなかった。
「合宿なんてチャンスじゃん?」
それでも、佑介に玲子さんと別れてほしいとか、玲子さんから佑介を奪おうなんて思えなかった。佑介にそれまで冷たく当たってきたあたしが求めてもいいのは、佑介と潤兄の妹として、仲良く話せるレベルまで。
潤兄も自分が独占して、佑介と付き合うなんて都合がよすぎる。何より、自分の望みをかなえるために誰かを傷つけるのは怖い。
だったら、あたしはあたしを大切にしてくれるに違いない潤兄を選んで、佑介には誰かとしあわせになってもらいたい。
きっと、そうしたほうがいいって、何度も自分に言い聞かせ続けた。
「うるせぇって、ほっとけ」
「あーもう、わかんないの? あたしは潤兄と二人がいいの!」
こんな風にしか、背中を押せなくてごめんね。
三年前だったら、違う方法があったと思うけど。
佑介はこういうとき、大体根を上げて試合放棄をする。きっと『お前がそれで納得すんなら行ってやる』なんて拗ねるに違いない。
自分からそそのかしたはずなのに、胸がきゅっと痛くなった。佑介が玲子さんと、いや、誰かとセックスをすることなんか嫌だって、はっきりわかってしまう。
「あたしもお風呂入るから。ほら、出てって」
「あ、いやな、この部屋の風呂、壊れてるんだよ」
「……」
「嘘じゃねーって」
「別に嘘だって言ってないでしょ」
「……」
佑介はかたくなに部屋を出ていこうとはしなかった。寝返りを打ち、あたしに背を向ける。
どうしてだろう?
なんか怪しい。
……佑介、そんなに玲子さんとうまくいってないのかな。
静まった部屋に、ガタ、ガタ、と吹雪が窓を強く打ちつける音が響く。
昔、お母さんが亡くなったのは飛行機が嵐に巻き込まれた事故だという。物心つく前の出来事だし、実際そこに居合わせたわけでもない。
でも、台風や嵐が来るたび、大切な人がいなくなっちゃうんじゃないかって怖くなって。
そうだ、目の前が。
「!」
突然、真っ暗になる。
……違う。あたしの意識じゃない、実際に明かりが落ちたのだ。
停電?
「幸?」
佑介の声。遠く、ぼんやりと膜を張ったように聞こえる。
足がすくむ。
「潤兄……」
小さく、ごく小さく、お守りを握りしめるみたいに潤兄を呼んだ。
佑介が立ち上がる気配がする。
懐中電灯だろう、パッと天井が丸く照らされ、その灯りがすうっとあたしに下りてくる。
「幸。大丈夫か?」
佑介が不安そうに尋ねた。
屈んで震えているところを見られてしまったのだろう。
「……あ、大丈夫に決まってんじゃん!」
本当は、佑介に縋りたかった。だけど、ここで佑介を頼るのは勇気がいる。
もうちょっと、段階を踏みながら。
「玲子さんとこ行ってきて」
「あいつはそれこそ大丈夫だろ。それより、お前」
「あたしの心配なんかしなくていい! 玲子さんも、暗所恐怖症なんだって」
出まかせもいいところだ。
だが、人のいい佑介はすぐに信じたのか、「そうか」と呟いた。
あたしはどうにか立ち上がり、足元に気をつけながら彼の後ろに回る。
佑介の背を押し、無理やり部屋の入口へと連れて行く。
「わかったよ、押すなって、あぶねぇだろ」
あたしは佑介のお尻を蹴り、部屋から無理やり追い出し、手探りで鍵を閉める。
ここまでされたら、佑介だって玲子さんの方に行くに違いないと思いきや、ドアノブをひねる音がする。数秒続き、遠ざかる足音が聞こえた。佑介が部屋に戻ろうとして、鍵がかかっているのに気付いて諦めたらしい。
佑介はあたしのことを心配してくれていたんだろうけど、あたしの意思が固いと思い、やむなく去って行ったのだろう。玲子さんの部屋に向かったはずだ。どの道、今できることはないわけだし、当然の反応だった。
静まり返った部屋で、窓ガラスを打ち破りそうな勢いで、風が窓を打ちつけた。
「……ひぁっ」
思わず声が漏れる。
暗闇が圧縮されて、押しつぶされてしまうような息苦しさを感じる。
酸欠になったときみたいに、鼻の奥が痛んで、頭がくらくらとした。
叫びだしたくなったけど、唇を強く結んだ。
いつだって、困ったときには潤兄の名前を呼んだ。
子どものときからずっと。
でも、それじゃ何も変われない。
こんなことくらいで大騒ぎしていたら、この先あたし、生きていけないよ。
大丈夫。
自分に言い聞かせる。
潤兄にも佑介にも、迷惑をかけちゃいけない。
あたしは佑介と話をするたび、そんな考え方に変わっていった。
大丈夫。大丈夫。心を落ち着ける方法だって、わかってきている。
仰向けになって、目を閉じるんだ。
すると、すぐにあそこに跳ぶことができる。
あの、しあわせだった日に行くことができるんだ。
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