第8話 【第二章/冬 桜のにおいを、待つ季節に】②
《冬/臼井 佑介 『ピンボケ』》(後)
大雪と渋滞の中、バスで宿に向かい、ようやく到着したのは夕方だった。
スキーの疲れに加え、本来三〇分程度でたどり着くはずの道のりに二時間以上費やし、部員たちは疲弊していた。着くなり、言葉少なに各々の部屋に向かった。
おれも慣れない疲労も相まって体が重く、宿の食事だけとったらさっさと眠ってしまいたかった。和室の二人部屋に潤とさっさと布団を敷くなり、おれは立ち上がった。
「とりあえず、風呂入ってくるわ」
「あれ、もう行くの」
「一回寝たらもう起き上れる気がしねぇんだ。体が冷えちまって」
「大浴場あるよ?」
部屋に備え付けの風呂に入ろうとするおれに、潤が釘をさした。
「知ってんだろ。好きじゃないんだよ、あぁいうの」
乱暴に言い捨てると、潤はくすくすと笑い始めた。さっきから妙に上機嫌だ。
「なんかおかしいぞ、潤」
「そう?」
口こそはさんでこなかったが、潤はさっきのおれと幸とのやり取りを見ていたようだった。
潤のことだ、『二人が仲直りをしたのを見たら安心したよ』などと言いたいのかもしれない。
幸の仲を応援しているように肌では感じていたが、彼自身が明言することはなかった。おれが玲子と付き合うと言ったときも、驚きはしたようだけど落胆は見られなかった。
おせっかいをするのではなく、あくまでおれと幸の二人に任せたいということだろう。
よくもまぁ、そんな自分のことみたいに喜べるものだ。
浴室の戸を閉め、服を脱ぐと、ようやく一息つけたような気がした。
今まで合宿を避けていたのは、単に面倒だったからじゃない。四六時中誰かといて、ひとりでゆっくりできないのは気詰まりだった。
潤と二人部屋なのはまだ救いだが、それはそれで幸の反感を買いそうな気がする。
あいつ、まだ潤とおれの仲を疑って……。
思考を遮るように、どんどん、と荒っぽいノックが響く。
「佑介?」
戸を一枚隔て、くぐもった声が聞こえた。
潤の声じゃない。
じゃあ、幸か?
焦って鍵を閉めようとするが、その前に扉を開けられてしまう。
服を着るタイミングもなく、おれは咄嗟に電気を消した。
廊下からの薄明かりでぼんやりとしているが、そこには、ホテルの浴衣を着た幸が立っているのがわかった。サイズが合っていないのか、裾が余って引きずりそうだった。
上気したような熱っぽい頬。耳まで染まっていた。
急いで戸を閉めようとしたが、幸が脚をはさむ。
潤と二人だと思って油断していた。
おれは洗面所のタオルを手に取り、股にあてがった。
「なんだよ、勝手に開けんな!」
また潤とおれの仲を疑って押しかけてきたんだろう。
「いい加減にしろよ、お前が思うようなことはなにも……」
思わずたじろぎ、言葉を飲み込んでしまう。
幸が何も言わぬまま、ずいとおれに迫ったのだ。
息がかかるような距離まで詰め寄ってきた。こんな近くで幸の顔を見たことはない。
怒りを浮かべるでもなく、品定めをする、醒めた獣じみた目つきだ。今まで、幸に性的なにおいを感じたことはない。だからこそ、この緊張感は皮膚を突き破らんばかりだった。
「なんだよ」
そうして言葉で短く突き放すのが精いっぱいだった。
「……」
幸は視線でおれの目を捉えたまま、すっと両手をおれの背中へ回す。
幸の透き通る潤んだ瞳に、思わず吸い込まれそうになる。
「ちょ、おい」
幸は背伸びをして、おれの肩に顎を乗せる。
卵も割れないような、やさしい抱擁。払いのけるわけにもいかず、だからといって抱きしめ返すわけにもいかない。
八方ふさがりとなり、おれはたまらず居間の潤に助けを求める。
「潤! 幸が!」
……ん?
というか、風呂場に幸が入って行ったらさすがに潤が止めに入るんじゃ?
「く」
幸が息を漏らす。高くてハスキーだが、その響きは女のそれではなかった。
「潤」
おれは幸……いや、潤を突き放す。勢い余って、潤はぺたんと座り込んだ。おれは見下ろし、露骨に呆れたため息を吐いた。
「お前、タチ悪いんだよ。いつもこういうのやらないくせに、思い出したようにやりやがって」
「その方が引っ掛かるでしょ?」
尻もちをついたまま、潤はおれを見上げて笑った。
声を聞き、緊張が解けるはずだった。
なぜだろうか、潤だと正体がわかったはずで、身構える必要もないのに妙な冷や汗が滲んでくる。緊張の名残だろうか。
「ったくよ、なんでこんなことを」
潤はこうして、おれをからかうためにドッキリのようなことを仕掛けてくる。しかし、驚かせて楽しみたいという単純な理由ではないだろう。はっきりとした意図が存在するはずだ。
「なんでって? なんでだろうね」
「しらばっくれんな。あれだろ、幸に対しておれがどう思うか確かめようとか、そんなのだろ?」
「どう、かな」
潤は立ち上がり、斜め上を向いて呟いた。
冗談めかして話をぼやかそうとしているのとも違う。言いたいことがあるけど、それをこちらに言わせようとしている、そんな駆け引きじみたやりとり。
罠を張って待っている。誘いに乗ったら終わりだ。
今まで気のせいだと片づけていた、潤からの瞬くようなシグナル。
彼の些細な仕草によって、その信号がおれの思い違いではないと確信させた。
潤が幸に扮していた、あの文化祭の日だって。
もしかしたら、おれの目を潤に向かせるためだったのかもしれない。
何かを踏み外す準備をしていたのかもしれない。
おれは何度も、その「何か」の正体を探ることを避け、見逃してきた。
いつも、シグナルは瞬きながらいずれ消えていく。それを完全に点灯させてしまうと、潤との関係すべてが崩れてしまいそうだったから。
「それ以外の理由、ないだろ。お前はいつも幸のことばっかり気にしてるから」
「たぶん、佑介が思っているほど僕はきれいじゃないよ」
「きれいだとか、そういうのじゃねぇよ。実際お前はなんでもかんでも幸のために……」
「誰かのためだけには、生きられない」
潤は。
おれを黙らせるために、唇にキスをした。
の、だろうか。
わからない。
一瞬の出来事に頭が真っ白だった。
ドッキリなんて範疇、超えている。
「違うか。幸なら、こういう風にはしないだろうね」
「お前は、間違えたんだよな」
「ん?」
「今のは忘れる。お前は幸になりきろうとして、でもやりすぎたんだ」
「……かな」
潤は幸とおれをくっつけるために幸に扮し、キスをした。
そう思いたい。でも、潤は言った。『誰かのためだけには、生きられない』と。
その『誰か』は、間違いなく幸のことだ。
あいつのことを大切にしたい気持ちと、幸にだけすべてを捧げ、譲ることはまた別物だ。
もし、おれが潤から受けた気持ちが正しいとしたら。
今、おれは感じてはいけない潤への高鳴りと、それ以上に妙な怒りを感じていた。
なのに、その怒りの正体がわからなくて、潤に対する初めての違和感を覚えた。
笑みをこぼし切なく目を伏せる潤は、幸の分身なんかじゃない。
間違いなく、惑う潤そのものだった。
おれは、これ以上どんな言葉をかけたらいいのかわからずにいた。
いや、その先を深堀りするのが怖かった。
潤がおれに対して、いつからこんな感情を抱いていたんだろう、とか。
彼と過ごした瞬間ごとに、おれが友達として接していた感情と、違う類の想いを抱いていたのだとしたら。
言葉を探して息をつくと、部屋の外から激しい足音が近づいてくることに気づく。
すぐさま、部屋のチャイムが鳴った。
「幸かな。佑介、ちょっとうまく追い返して」
「隠す方が怪しまれるだろ」
「さすがにこんな姿見られたらまずい。幸は、僕らのこと……」
それを潤の口から言わせたくなくて、おれは言葉を遮った。
「あー、わかったわかった。適当にはぐらかしておく。お前は化粧落としておけ」
隠し事は得意じゃない。
でも、たしかに幸にこの状態を見せるとややこしいことこの上ないな。
洗面所を出ると、すぐに内側から施錠する音が聞こえた。
おれは部屋の鍵を開け、「勝手に入れよ」とだけ幸に言ってベッドに寝転がる。
彼女は部屋に入ってくるなり、無言で潤の姿を探すように見回した。
おれは何でもない様子で布団に寝転がり、幸をさも気にしていないふりをして天井を見た。
不安定に光る蛍光灯を見ていると、ピントがずれてきて、視界がぼやけてくる。
後ろめたさの中で、おれは誰の味方をしているのかさえ、わからなかった。
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