第7話 【第二章/冬 桜のにおいを、待つ季節に】①
《冬/臼井 佑介 『ピンボケ』》(前)
朝から空は白んでいて、ゲレンデの景色との境界線がぼやけている。
滑れもしないのにスキー合宿なんて憂鬱でしかない。
玲子や潤に誘われるも、あいつらは上級者コース組。
初心者コースをボーゲンでおっかなびっくり降りてくるのが馬鹿馬鹿しくなって、どうにか離脱できないかと、ひとり写真部から抜けてきた。
どこかゆっくりできるいい場所はないかと探していると、二つあるリフトのうち、整備中のリフト側にたどり着く。当然、人はほとんどいない。
単なる休憩場所扱いのつもりだったが、そこで、額に汗を浮かべてワイヤーのチェックをしている痩せぎすの男が目に留まった。張り出した眉弓が厳めしく、武骨な雰囲気。
距離は一〇メートルも離れていないが、こちらには気づいていないようだ。作業に集中しているのだろう。
誰からか見られているという意識などないはずなのに、彼は真摯に点検を行っていた。『仕事なんだから真面目にやるのが当たり前だ』と思うやつもいるかもしれない。
でも、おれにとって彼のストイックさ、人の目を気にしていないからこそできる、愛想を削ぎ落とした鋭い表情に魅入られた。
「やっぱり、佑介ってホモなの?」
「!」
おれは急に背後から大声をかけられ、焦って振り向いた。
スノボを巧みに操り、幸が雪を颯爽と削りながら滑ってきた。
なんでいつも虚をついてくるんだよ。
幸はおれの目の前で体を斜にし、ブレーキをかけてターンをする。雪が跳ね上がり、おれの顔にかかった。
「なにすんだよ!」
「いつもオッサンばっかり撮ってて面白いの?」
「別にオッサンだから撮ってるわけじゃねーよ」
「……若い男も撮るもんね」
こっちから『撮る対象はこうだ』と説明するのも気が引けるので、話題を逸らすことにする。
「お前、何しにきたんだ?」
「潤兄が、佑介が遭難してるかもしれないから探そうって。ま、笑いながら言ってたからそこまで心配はしてないと思うけど」
どうにも今回の合宿の居心地が悪かったのは、幸が参加しているからに他ならない。
本人はもちろん、潤からも知らされていなかった。
あの雨の日から、おれたちは積極的に関わることはなかった。
けれど、前とは何かが違う気がする。楽しくとはとても言えないが、こうして事務的な会話くらいはできるだけでも進歩だ。以前だったら、話しかけても返事すらろくにせず避けられてしまっていたから。
「いや、そうじゃねぇよ。なんでお前が合宿にきてんだよ」
「あんたのこと、見張りにきた」
「……見張るって?」
「潤兄に変なことしないかどうか!」
「ってぇ!」
幸は振りかぶると、おれの背中を強く叩いた。
叩かれた衝撃で、自分の意思に背き、スキー板が滑り始めてしまう。
「ちょ、幸、ふざけんなよ!」
覚えたてのボーゲンでどうにかブレーキをかけようとするが、むしろどんどん加速していく。抵抗するもむなしく、コース脇のネットが目の前に迫る。
「!」
機敏な方向転換などできるはずもなく、おれはネットに突っ込み、もみくちゃになる。
スキー靴が脱げ、襟口から背に入った雪で身震いがした。
「ダッサ」
幸は涼しい表情のまま、わざと遠回りしておれの目の前を通過し、本コースに戻っていった。
幸が戻っていく先に、白いスキーウェア姿の玲子の姿が見える。今の事故で見つかってしまったらしく、玲子がこちらに大声で叫ぶ。
「私が鍛え直してあげるから!」
……あの日、おれは玲子と言い争いをして家を飛び出た。
幸と別れ、球場から帰ってくると玲子はいなかった。かわりに、テーブル上に女性ものの薄いラベンダー色の下着が丁寧に上下セットで置かれていた。
『誕生日おめでとうございます。追伸・ぬぎたて』
妙な達筆で一筆箋が添えてあった。
「ぬぎたて……」
どうしようもなく不器用だけど、彼女なりに仲直りをしようということなんだろう。
玲子は、翌日には変わらぬ態度で接してきた。おれがひねたことを言うことに慣れているからあまり気にしていないのか、あえていつも通り振る舞っているのか判断しかねた。
どちらにせよ深く言及する必要はない、と自分を納得させた。
卑怯なのはわかっている。ややこしいことは避けたいという気持ちもそうだし、何より誰かから嫌われることを厭わない度胸を持てない。
ずるずると関係を引きずってしまう。何かを捨てないと、本当に欲しいものは手に入らないと知っているのに、それはできなかった。
徐々に天候が崩れ始めたので、少し早く引き上げることになった。部員たちがラウンジで昼食をとる中、おれは食事を後回しに、午前中に撮った写真の確認をしていた。
「潤兄ばっか撮ってない?」
箸を持ったままの幸がやってきて、おれの写真を後ろからのぞき見た。
「っせーな、撮ってねぇよ」
「……へー」
どんな文句を言われるのかと警戒していたが、幸が漏らした声には否定の雰囲気はなかった。
「なんだよ」
「マジメな写真撮ってんだなって」
「真面目?」
「べっつに。かわいい女の子の写真とかも撮ったらいいのに」
「性別で選んでるわけじゃねーから」
「……あ、そ」
幸はつまらなさそうに呟き、席に戻ろうとする。
潤のことを突かれかねないとつい、素っ気ない態度を取ってしまったが、これじゃあ駄目だ。
「幸。お前、痩せたな」
「……?」
「三キロ痩せたら撮るって、約束したよな」
約束か。幸は覚えちゃいないだろう。でもおれはあの試合の日、確か幸にそんなことを言ったはずだ。
おれは幸にレンズを向けると、彼女が構える前にさっとシャッターを切った。
「ちょっと」
幸は明らかな不満を浮かべた。
身構える暇もなくいきなり写真を撮られたんだ、そんなリアクションにもなるか。
幸の写真を撮りたいとは思ったけど、やっぱりあらたまって撮影というのは雰囲気的にできなかった。
「ほら。可愛く撮ってやったぞ」
おれは、像が浮かび上がったフィルムを幸に渡した。幸は呆気にとられながらも、照れ臭そうに俯いた。
「……ありがと」
幸は写真を見て、ぽかんとする。
無理もない。
写真は、激しくピンボケしている。もちろん意図してのことだ。
素直になれなかったのもあるけど、なにより幸が笑ってくれるんじゃないかって。
「……わざとでしょ!」
「可愛く撮るにはこれしかないと思ってな」
「一瞬でも喜んで損した! 最低!」
幸は箸でおれを指した。
喜んで、と幸が思わず言ったことにすごく嬉しくなる。けれど、そこを突くとまたこじれるような気がして、触れなかった。
「相変わらず、すげー箸の持ち方だな」
こんなやり取りをしているうちに、いつか昔みたいになれるかもしれない。
「みんな、食事は終わった?」
先に食事を終え、係員に説明を受けていた玲子が戻ってきた。
「午後は、リフトが動かなくて閉場だそうよ。みんな、荷物をまとめてホテルに戻る準備して」
部員全体に言っていたけど、視線はおれと幸を捉えていたように思えた。
まずいな、あまり幸と話しているところを見られるとややこしい。
幸にまで迷惑をかけるかもしれないな。
「潤。幸にちゃんと箸の持ち方教えてやれ」
おれは適当に言い捨て、幸から離れる。
もし、幸と関係が修復できたら、おれは玲子を捨てることになるのか?
そんな都合のいいこと、許されるはずもない。
もう何もかもが遅かったんだろうか?
いや。
いいじゃないか、幸とは付き合うとか関係なく、また自然に話せさえすれば。
そのためには、知らなくちゃいけない。
幸が何を考え、何を望んでいるのか……。
強くガラスを叩く吹雪を見ながら、まとまらないそんな考えをこねくりまわしていた。
今はこの不穏さがむしろ心地いい。
その荒々しさに、自分のざわめきを紛れさせてしまえそうだったから。
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