第6話 【第一章/秋 ぬけがらさえ、残せずに】⑥

《秋/遠藤 幸 『笑顔』》


 一息つき、潤兄が女装したポラロイド写真を見ると、妙な気分になった。

 あたしにそっくりなのに、あたしじゃない誰かがあたしの代わりに笑っている。

 どこか寂しいけど、目の前の人が大切で愛おしいんだって笑顔だ。

 大切だから、愁いがあるのだろう。その人が目の前にいなければ辛いのはもちろん、一緒にいたっていつかくる別れを想ってしまう。

 その人が大切であれば、あるほど。

 写真を見ていると、自分が最近ろくに笑っていなかったことに気づいた。

 あたしだってこんな風に笑いたい。

 さっきは感情的になって苛立ちや焦りばかりに苛まれてしまったけど、その笑顔はあたしを強く惹きつけた。自分の中にある表情だとは思えない。

 潤兄は、佑介にそんな一面を引き出されたのだ。

 やっぱり佑介の写真はすごい。

 潤兄のダイビングキャッチの写真だってそう。あたしにとってはあの夏を一番熱く、写し取った一枚だ。どんなプロのカメラマンが撮ったものよりも、きっと。

 だけど、この女装の写真を見ていると同時に不安にもなる。

 潤兄、どうしてこんな顔できるの?

 いつもずっと佑介といるし。

 まさか、佑介のこと……。

 冗談半分にまさかとしか思わなかったその考えも、ひとりで抱え込んでいると妙なリアリティをもってしまう。本当に二人の間に恋心があるとはもちろんまだ思っていないけど、あたしの存在が潤兄の中で薄らいでしまっているように思えて。

 結局、佑介に八つ当たりするだけで、写真のことは潤兄に訊けなかった。

 いつまでも佑介を曖昧に避け続けているわけにはいかない。

 このままじゃ、あたしの居場所はどこにもなくなってしまう。

 佑介に、ちゃんと言おう。

 ……あたしから潤兄を奪わないで、と。


 佑介の家を訪れると、ちょうど彼が出ていくところを遠くから捉えた。

 外食に出かける様子ではなく、覇気なくとぼとぼと歩いている。

 後ろをついていく。佑介が向かっていく先は見当がついた。

 案の定、市民球場の脇のベンチに腰掛け、ぼうっと工事現場を眺めていた。

 そういえば、昔はよく夜に一緒にご飯を食べて、帰りに散歩をしていた。そのたび、佑介に付き合わされて、工事現場をよく見てたっけ。

 最終的には、『退屈だからもういい!』と引っ張って帰ったのをよく覚えている。

 いつもはぼうっとしている佑介だけど、そのときだけはやたらと頑固に抵抗してたな。

 ……駄目だ。そんな風に振り返ってばかりいると、また迷ってしまう。

 懐かしさに負けちゃいけない。懐かしさに殺されちゃいけない。

 自分を護るんだ。

「佑介? お兄ちゃんに変な気起こさないでよ」

 どう話しかけていいのかわからなくて、ためらった挙句、いきなり本題から入ってしまった。

 いいんだ、自然に世間話からなんてできるはずない。

「……幸?」

 佑介は明らかに動揺していた。こちらに一瞬目を向けたけど、すぐに誘蛾灯に視線を戻した。

「これ。どういうつもりなの?」

 あたしが潤兄の写真を見せると、佑介は焦ってポケットを探る。

 しばらくして諦めて、取り澄ました様子であたしに毒づく。

「馬鹿か、文化祭で撮っただけだよ。男相手にそんなこと考えるわけねーだろ」

「どーだか。昔からお兄ちゃんに付きまとってさ」

「付きまとう?」

 佑介は戸惑っているようだった。

 そんな顔しないでよ。

 わかってる。おかしいのはあたしのほうだ。

 佑介からしたらきっと、友達と一緒にいるってだけなんだろう。

 でも、わかってよ。わからなくてもいいからわかって。

 あたしを独りにさせないでよ。

「……はっきり言ってさ。潤兄、迷惑してるから」

 それまではただ怪訝そうにしていた佑介が、初めて露骨に顔をしかめた。

 佑介とはよく軽口を叩きあったり、喧嘩をしたりしたけど、こんなはっきりとした怒りを向けられたのは初めてだった。

 怖い。怒っているからじゃない。

 本当に、あたしのことを嫌いになっちゃうんじゃないかって。

 でもそれを怖がっていたら、なんのためにこの三年間、佑介を避けてきたかわからなくなる。

「迷惑かけてるのはお前だろ」

 佑介が言い放った、冷たくあたしを突き刺す言葉。

 迷惑をかけているのはあたし?

 あたしは、求めている。どんな迷惑をかけても、あたしを絶対に嫌いにならない潤兄を。

「そら日頃、親がいなくて辛いのはわかるけどよ……潤に甘えすぎじゃねーか?」

「知った口きかないでよ! 今大切なのは、潤兄だけ!」

「……」

 佑介は怒りをどうにか抑え込もうとしているように思えた。こっちの熱につられないよう、どうにか落ち着いて話をしようと、そんな風に見えた。

 佑介はグラウンドを一瞬見て、深く息をついた。

「大切ならもっと考えてやれよ。潤が野球やめたのだって、幸のせいだろ。お前のために医者になるって……」

「あんたは関係ないでしょ。うちの事情に首突っ込まないで。潤兄は、あたしだけのものなの!」

「……お前のもの? 甘えるなよ、そりゃ……」

 佑介は言いかけて、それを無理やり飲み込んだ。

 何を続けようとしたんだろう。

 まさか?

 佑介は次の言葉を探すように、険しい顔で宙を見上げた。

 視線の先には誘蛾灯。

 灯に誘われた虫が、「ジッ」と焼け焦げる音をたてて死に、墜落する。

 トモ。

 彼女のイメージが頭に浮かび上がる。

 好きでいてくれたのに、突き放したせいで死んでしまったトモ。

 あたしが殺したトモ。

 ごめんなさい。ごめんなさい。

 ごめん、なさい。

 もっとトモの気持ちをわかってあげられていたら。

 もし、出会わなければ。

 あたしが生まれてなんか来なかったら。

「ごめんなさい……!」

 あたしはうずくまることしかできなかった。

「幸?」

 佑介がしゃがみこみ、あたしの肩を不安そうに叩いた。そのちょっとの振動で、あたしの頭はさらにかき乱される。

「許して、トモ!」

 佑介の手を払って、あたしは走る。

 足がもつれ、靴ずれが痛くて、でも、どうしていいのかわからなくて、走る、走るしかない。

「おい!」

 呼び止める佑介の声がする。一瞬後ろを気にした瞬間、あたしは道路の段差に躓いて転んでしまう。すぐに立ち上がろうとしたけど、強く打った膝がずきずきと痛んだ。

「大丈夫か? 血が」

 追いついた佑介があたしの傷口に顔を寄せ、暗がりの中で心配そうにしている。

「あたし、女の子と付き合ってた。トモって、子」

「……」

 佑介は何も言わなかった。だけど、さっきみたいに困惑した様子ではなく、あたしの次の言葉を待っていた。

「トモは、自殺した。あたしが殺した……! あたしが」

 佑介は首を横に振る。

「もう、話さなくていい」

 佑介は冷静だった。

 もしかしたら、事情を知っているのだろうか。

 潤兄から聞いたに違いない。

 雨がポツポツ降り出した。頬を濡らす雨粒が、妙に鋭くて痛く感じた。

「あんたには知られたくなかった。トモを見捨ててのうのうと生きて……」

 佑介は、あたしとトモのことを知っていたんだ。失望したに違いない。

 終わった。いや、もう終わってたんだ。

 こっちから避けるまでもなく、佑介はあたしのことを軽蔑していただろう。

「は、は、はは」

 変な笑いがこみあげてくる。

 人間は楽しいときだけじゃなくて、苦しいときも笑ってしまう。

 自分を護るために笑うんだって、聞いたことがある。

 もう、あたしにはそんな風にしか笑えないんだ。

「トモのこと知ったら、生きてる価値ないって思うでしょ?」

「……」

「ねぇ」

 息が苦しい。鼻の奥が痛い。

 過呼吸の前兆だ。

「そんなこと思うわけねぇだろ!」

 あたしは佑介の怒鳴り声に息を呑む。

 彼はさっきよりも強い怒気をあたしにぶつけた。

「佑介……」

 その怒りが怖くなかったのは、それが拒絶じゃないとはっきり感じたからだろう。

「おれはただ、昔みたいに三人でいられたらいいって思っただけなんだ」

 降り始めた雨が大降りになっていく。

 佑介は、髪から雫が滴るのを拭おうとせず、呟いた。

「……お前は、生きてるんだ。笑ってくれよ」

 佑介はトモの事件を知っていたけど、元々あたしを嫌っていなかった?

 どうしてそんな風に思ってくれるんだろう。なんとも思わなかったわけはない。

 それでも、あたしに変わらず接してくれようとしていたんだ。

 今まで、何をやっていたんだろう。

「……」

 ここで、今までのことを謝ることはできなかった。

 佑介もそれを求めているのかわからなかった。

 簡単にはリセットはできないくらい、佑介と離れていた三年間は長かった。

 絡まった糸をほどくのには、どうしたって時間がかかってしまう。

「帰るぞ」

 佑介は咄嗟にあたしの手を取った。本当に咄嗟に、という感じで、本人さえ戸惑っているようだった。あたしはその手をぼんやりと握ったまま、その手を振りほどくこともできないまま。

 言葉を交わさずに、佑介に付き添われて家まで帰った。

 無言で手を振る彼の後ろ姿に、あたしは何か言わなきゃと思ったけど、頭がごちゃごちゃしてまとまらなかった。

 今、自分自身が佑介に対してどう思っているのか、わからない。

 部屋に戻った後、あたしは携帯の画面をずっと見つめていた。

 三年ぶりに、佑介へのメールを打とうとしていた。

 懐かしい。昔はよく、佑介とメールをしていた。

 楽しくやりとりをしていたというより、機械に弱い佑介の練習に付き合っていたのだ。

 周囲が携帯を持っているのが当たり前のなか、佑介は『面倒だ』と嫌っていた。

 潤兄と約束を取り付けるために、家電に連絡がきたのをよく覚えている。

 あたしと潤兄で、佑介に携帯電話を持つようにせっつき続け、どうにか買わせたのだ。

 短い返事ばかりで、『もうちょい気の利いた返事ないの?』なんてからかっていた。

 あたしは内心、どんな返事でも嬉しかった。

『お前の言ってること、なんとなくわかるよ』なんて些細な文章でさえ、携帯とにらめっこしながら打っている姿を想像すると、思わず顔が緩んでしまったものだ。

 ……そうだよ。あたしは、佑介のことが本当に好きだったんだ。

《あたし、笑ってもいいの?》

 たった一文、絞り出した言葉だった。

 佑介は言ってくれた。

『笑ってくれよ』と。

 過去を引きずるなとか、そういうことじゃない。ただ、あたしに笑ってくれと言った。

 それはどんな言葉よりも、あたしの胸に迫ってきた。

 最近、いつ笑ったかな。

 あたしは鏡に向かって、すごく久しぶりに微笑んでみた。

 けれど、どう見たって心から笑っているように見えなかった。

 あたしは結局、そのメールを送ることはできなかった。

――甘えたら、迷惑になるよね。

 落ち着かず、ひとりで部屋を歩き回ってしまう。

 そこでふと思い立ち、机の引き出しを開けた。

 いつもは使っていないのでほとんど空の引き出しの端っこ。

 ずっとセミのぬけがらを大切にとってあった。

『16才の誕生日 佑介から』とメモを添えて。

 セミのぬけがらをもらったその晩にメモを書き、ひとりで「もっと気の利いたプレゼントないのかよ」と、佑介の仏頂面を思い出してクスクス笑っていた自分が他人のように思えた。

 関係がこじれても、これだけは捨てることができなかった。

 佑介から初めてもらったプレゼント。

 指輪の代わりと思うのは気恥ずかしくて、あまり深くは考えないようにしているけど。

 見るたび、嬉しいときはもっと胸がドキドキして、悲しいときはざわめきが静かになった。

 そうだ、三年前までは、引き出しを開けてはよく見ていた。

 じゃあ今、あたしはどうして引き出しを開けたんだろう。

 佑介本人には依りかかれないけど、あたしは結局、頼りたくなったんだと思う。

 もう一度、ちゃんと話したい。

 佑介だって取りつくしまのないあたしに、どうにか近づこうとしてくれたんだから。

 彼の言うとおり、昔みたいに戻れる日は来るんだろうか。

 また、佑介と笑いあえる日なんてくるのかな。

 好きとか付き合うなんて、言わない。

 前に進みたいなんて贅沢は言わないから、神様。


【第一章・終】

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