第5話 【第一章/秋 ぬけがらさえ、残せずに】⑤

《秋/臼井 佑介 『誘蛾灯』》


 部屋に戻ってきた潤が持ってきたのは、ロールケーキにろうそくが立てられた奇妙なバースデーケーキだった。

「おめでとう!」と、満面の笑みを浮かべる潤。

「誕生日にロールケーキってなんか違くね?」

「え、しょうがないでしょ。玲子さんと一緒に過ごすとばかり思っていたから」

「……」

 さっき帰ってきたのは幸に違いない。そのことが気にはなりつつも、言及するべきではないだろうと黙っていた。どこかでおれは都合のいい期待をしていたのかもしれない。傷口をいじくらずに待っていれば、幸とのわだかまりが勝手に解けて、元に戻れるんじゃないかなんて。

 そんな考えに頼りたくなり、ポケットに手を突っ込み、写真を触ろうとすると。

「あれ」

「どうしたの、佑介?」

「写真がねぇ」

「え? 落としたの? ちょ、えぇー」

 いつもは冷静な潤が珍しく取り乱し、焦って立ち上がる。

「佑介も探して。落ちてるかも」

 おれは潤に言われるがまま立ち上がり、ソファの下を覗いてみる。その間に、潤は部屋の外に出て行ったようだ。

 だがすぐに帰ってきたようで、扉が閉まる音がする。

「潤? この部屋にはなさそうだぞ。ていうか、別になくしたって大丈夫……」

 ふと振り返り、おれは言葉に詰まる。

 そこにいたのは幸だった。

 疎ましそうな表情を隠そうともせず、後ろ手でドアを乱暴に閉めた。

「帰って」

 素っ気ない一言。

 おれの都合のいい願いは今日も叶わないんだ。幸は相変わらず、おれに対して冷淡で、突き放すような態度しかとらない。軽口をたたき合っていた頃とは違う、棘のある口調だった。

「なんだよ、その態度。今日おれ誕生日だぞ。なんかよこせ」

 だから、こんなぼやけた冗談しか返すことができなかった。

「あたしにくれたことあるわけ?」

「セミのぬけがら、やったろ」

「……は? そんなの覚えてない。いーから出てって!」

 その通りだ。そんなこと、既に記憶にないだろう。一つのやりとりをずっと覚え続けていることを期待していること自体、どうかしている。この状況がもどかしくて、何を言っていいのかわからない。口から咄嗟に出たのは、力のない反論だけだった。

「なんでそこまで言われなきゃ……」

「はやく!」

 腹が立つが、幸と言い争いはしたくない。

「わかったよ、出ていけばいいんだろ」

 焦って部屋に戻ってきた潤が、おれと幸の間に割って入り、笑顔を作る。

 いつもこうして笑っているけど、こんな悲しい笑顔をさせてばかりで苦しくなった。

「ちょっと、佑介……。幸も、そこまで言うことないだろ」

「佑介の味方するの?」

「味方っていうか……」

 激しく迫られて戸惑う潤の腕にしがみつき、キッとおれを睨み付ける幸。そのまなざしはおれを排除する激しい苛立ちに満ちていた。

「潤兄はあたしだけのものなの!」

 ここまで言われて、これ以上何を言うことがある?

「携帯も財布も心配だし、やっぱり帰るわ。玲子も人の子だからな」

 おれも潤を真似てぎこちなくも笑顔を作って、部屋を出る。一瞬振り返ると、幸を抱きかかえ、背中をさする潤の姿が窺えた。

「落ち着いて、大丈夫。ずっと一緒にいるよ……」

 無力な自分への悔しさ、幸に対する理不尽さが憤りとなり、思わず奥歯を噛む。

 外に出ると、だいぶ冷え込みが強くなっていた。肩を竦ませながら歩く帰り道も、玲子への憂鬱よりも、幸の笑顔を最後に見たのはいつか、そんなことばかりを考えていた。



「貴方に足りないもの、わかる?」

 家に帰ると、玲子の手によって居心地が悪いくらい部屋が綺麗に整頓されていた。

 それだけならいい。帰ってすぐに玲子から命じられたのは、原始的なトレーニングだった。

「貴方に足りないのはハングリー精神!」

 玲子は腕立て伏せをするおれの背に座り、高らかに宣誓した。

 もちろん抵抗はした。少なくとも写真と筋肉は関係ない、と。

 それでも、玲子は腑に落ちない理屈を並べ続ける。やれ、『カメラも体の一部。操るための筋力が不足している』だの、『最終的に裏切らないのは筋肉だけ』だの。

 おれは徐々に、刃向かうより従う方が楽だと気付いてしまう。能率的な方法を選んだだけ。

 恋人である玲子にすら、まともにぶつかることを恐れている自分をそう納得させた。

「ハングリー……。そういうの、一番嫌いなんだけどな」

 息が詰まる。玲子がおれの背に座ったまま、踵で横っ腹に蹴りを入れたのだ。

 湯を沸かすケトルの細い唸りが、おれの気持ちを代弁する。その弱々しい蒸気が、おれのエネルギーの少なさそのものだ。トレーニングが終わったらハーブティーでも、なんて微笑んでいた玲子の涼しい顔を思い出すだけでも憎たらしい。

「何も蹴ることはないだろ」

 見上げると、タイトなニット姿の玲子が『何が悪いの』と言わんばかりに鼻を鳴らす。その豊満な膨らみに息を呑む。

 今時どこの大学生が、結婚するまで肉体関係なしに付き合うんだろう。

 おれが玲子に交際を申し込んだとき、彼女はこちらに一つの提案をした。

『興味深い写真を撮るし、臼井君なら構わないわ。だけど、結婚するまではセックスをしないと約束できる?』

 堅物で高嶺の花の玲子だったから、セックスという単語が出たこと自体が驚きだった。こっちの決意を試すブラフにすぎないと、おれは安請け合いする形で、交際することになった。だが、付き合っていくうちに、玲子が間違えても嘘やはったりを言わないと気付いた。

 まさか、彼女は本気でおれを結婚相手として考え、試しているのだろうか。

 自分の未来さえわからないのに、他人と生きていくビジョンなど湧くはずもなかった。

「ねぇ、朝からずっと考えてたんだけど」

「なんだよ?」と、おれは悲鳴を上げる腕に力を込め、息を切らしながらどうにか答える。

「卒業したら、結婚しましょう!」

「……はぁ!?」

 腕の力が緩み、玲子を背に乗せたまま体勢が崩れ、下敷きになる。おれはうつ伏せになりながらも首をねじり、玲子を見上げた。跨った玲子はこちらの頭に手をやった。

「カワイイ表情するじゃない……。よしよし……」

 玲子は犬でも撫でるように、おれの髪がぐちゃぐちゃに乱れるまでかき回した。

「……やめろ」

「遠藤君から聞いたんだけど、臼井君のご実家って匂坂市内なのよね? 今度、ご挨拶に……」

「勝手に話進めようとしてんじゃねぇよ」

 ただ付き合っているだけで、親に紹介なんて冗談じゃない。

 特別揉めているわけでもないが、おれは両親との関係をはかりかねていた。

 激しく衝突するわけではないし、学費も出してもらっているから文句は言えないが、個人的な話をすることはあまりなかった。害はないが、気の合わない他人と暮らしているに近かった。

 両親ともに、定時制高校の教師をしており、日々仕事に追われていた。家にいるときも、仕事の話ばかりで、おれの興味を抱くような素振りはなかった。おれがカメラに興味を持ったきっかけは、親父の気を引きたかったからかもしれない。(ただ、振り向いてもらえるのは本当にその一瞬だけだった)

 通学圏内だった実家から出て、大学のそばにアパートを借りたのも、そんな両親といるのが息苦しかったからだ。両親もおれに同様の感情を抱いていたのかもしれない。

「あ、ちょっと待って。お湯、湧いたわよ」

 ケトルから激しく沸騰する音がして、玲子はおれに背を向けてコンロへ向かった。蒸気の熱がたまらなくおれを不安定にさせる。

「馬鹿にしてんのか? ちゃんと話聞けよ」

「ハーブティーでも飲みながら、結婚の算段についてゆっくり話しましょう?」

 話は通じない、行動は身勝手。そんな彼女の態度に、おれはたまらなく苛立っていた。

「おれはお前の犬じゃないんだよ」

「臼井君? えっ」

 思わず語気が強くなり、玲子を組み伏せてしまう。そんな衝動的な行動に自分でも驚く。

 玲子に怯えた様子は微塵もなかった。

 ひりついた空気にそぐわない、愛でるような表情。おれにとって侮蔑でしかなかった。

「……玲子?」

 彼女は一瞬緩んだおれの手をすり抜け、台所に向かい、今までのことが何もなかったかのようにハーブティーを淹れ始めた。

「まだ、よ。結婚するまでは駄目。ゆっくり関係を育みたいの」

 おれの中で、がぷつんと切れた感覚がした。

 怒りじゃない。これ以上、玲子とは一緒にいられないという限界を感じた音だった。

「今回の引っ越しだってそうだ。全部お前の都合じゃねーか。なんでも言うこときくって思ってんだろ? おれのこと見下してるから、そんな態度……」

「見下してなんかいないわ!」

 口ではどうとでも言える。もう付き合っていられない。

 彼女は、こちらの気持ちなどお構いなしにこう続けた。

「私、臼井君の写真、本当に見込んでるのよ?」

 玲子は壁に貼った写真を一枚取る。潤の写真だ。

「これ、すごくいいもの! 今度は、コンクールを視野に入れた作品を撮りましょうよ!」

「おれにコンクールなんて無理だよ。誰かに見せるために撮りたいわけじゃないんだ」

「やってみないとわからないじゃない! 臼井君なら、カメラマンだって夢じゃないわ」

 何もかもが違う。コンクールの受賞も、職業としてのカメラマンも興味はない。

 誰かに評価されるために写真を撮るなんて、考えたこともなかった。

「……そうでしょ、臼井君?」

 興味ない? 本当にそうか?

「お前の自己満につきあわせるのはやめてくれ!」

 玲子が疎ましくてしょうがないのに、写真を褒められるたびに足を止めてしまう。自分の現金でずるいところが嫌になる。

「おれの写真なんて……。いや、写真なんて、そもそもが抜け殻なんだよ」

 口から出るのは、否定的な意見ばかりだった。

 真剣になって、何者にもなれなかったらと思うと怖くてたまらなかった。

「映してるのは輪郭だけだよ。そこにあった熱もにおいも、もうそこにはない」

 玲子は目を伏せた。彼女から視線を外すところなんて、見たことがなかった。

 おれにとっては見当違いでも、彼女は必ずこちらの目を見て真剣に話をしていたから。

「私、貴方のことを誤解していたのかもしれない」

 おれはずるい。こうして自暴自棄になりながらも、どこかで玲子の都合のいい言葉を待ってしまっていたのだから。

 そうだよな。写真はおれだけのものじゃない。

 玲子が情熱を注ぐ写真自体を、あんなふうに否定したんだ。失望されて当然じゃないか。

 部屋を出て、階段を降りる足取りが覚束ないくらい、自分の言葉を後悔していた。

 だけど、同時にどこかで安堵していた。

 自分にはそぐわない、重い期待から解放されたからだ。

 行くあてもなく歩いていると、あの夏の予選大会が行われた球場にたどり着いていた。ぼうっと夜の街を彷徨っているうち、気づいたら大抵ここにきてしまっている。

 スタンドの脇の道路で、車線の拡張工事が行われていた。

 カメラ。一瞬そう思ったけど、今はいい。

 頭を揺さぶる騒音の中、おれはその光景にただただ魅入っていた。

「……だいぶ進んだな、この工事」

 この世界が動き、進み、自分が置いてきぼりにされていることを強く実感する。

 おれの日常だけが停滞する。これからもきっと何も変わらないし、おれに変える力もない。

 そう思えば思うほど、自分がみじめなほど、働く人々が尊く思えた。

 立ち上る砂煙、それを工事用のライトと、誘蛾灯が照らして。

 そこで働く男は、光の中で黙々と作業をしていた。彼は、自分が輝いていることを知らない。彼がたとえどんな人間であろうと、どんな死を遂げようと、生きていた証拠はここに残るのだ。

 おれは誘蛾灯に吸い寄せられる、名前もない羽虫に過ぎない。

 茫洋と漂い、人知れず焼き切れる。

 この世界に、ぬけがらさえ残せずに。

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