第4話 【第一章/秋 ぬけがらさえ、残せずに】④

《秋/遠藤 幸 『指輪』》


 家に帰ると、見覚えのない靴があった。靴自体を見たことがなくても、その乱雑な脱ぎ方で誰だかわかってしまう。右足だけひっくり返って転がったスニーカー。佑介だ。

 緊張と、不安と、ごめんなさい、という気持ちが一気に襲ってきて、頭が真っ白になった。

 大丈夫。さっさと自分の部屋に行こう。

自室に入り、コンビニ弁当を古い学習机で食べ始めた。

今日もきっと、晩御飯を潤兄が作ってくれているだろう。でも、あたしはいつからかそれを食べることが気詰まりでならなかった。

その料理を見るたび、自分が本当に潤兄の負担になっているとはっきり意識させられた。

せっかく作ってくれているのだから、本当はそっちを食べた方がいいのはわかっている。なのに、同じ食卓を囲むことすら気後れしてしまう。

考えを遮るように、扉がノックされる。潤兄が、顔が半分見えるくらいに細くドアを開けた。

「幸。おかえり……」

 潤兄は言いかけ、一瞬沈黙する。その視線はあたしの手元を捉えていたが、こちらが嫌な顔をすると、すぐに目を逸らした。

 あたしは昔から正しく箸を持つのが苦手だった。

持ちやすいようにやると、薬指と小指が余ってしまう。潤兄はよく指摘してくれたし、直るように辛抱強く教えてくれたけど、あたしは耳を傾けなかった。

 億劫だったし、幼い子ども扱いされているようだったから。

 潤兄も言わないよう心掛けてはくれているんだろうけど、気になってつい見てしまうようだ。

「お箸でしょ。わかってるから」

 声は抑えたけど、ヒステリックになってしまったと後悔する。

「もしおなか減ったら、お味噌汁あるからね」

潤兄は静かに戸を閉めた。その直前、わずかな隙間から、潤兄の手元にケーキが乗っているのが見えた。

そういえば今日は佑介の誕生日だ。潤兄がリビングに戻ると、談笑する二人の話し声がぼんやり聞こえる。壁越しに聞いていると、胸が締まるように痛んだ。自分から勝手に出て行ったのに、強い疎外感があった。

 佑介と潤兄と三人で話したのなんて、いつだろう。

 こういうとき、必ず頭に浮かぶのはあの三年前の夏の試合帰り。

 セミがけたたましく鳴き続けるなか、三人で匂坂市民球場のすぐそばを歩いていた。

 あたしは潤兄のファインプレーで試合に勝ったこと、これから始まる夏の昂揚感でひどく上機嫌だった。

そうだ、潤兄と。

佑介と過ごす、夏を想って。

「音痴だなー、お前」

 鼻歌を口ずさむあたしに、呆れたように佑介が茶々を入れてくる。

いつも決まって口をつくのは、誰しもが知っている結婚式の定番ソング。むしろ、もう誰も結婚式では流さないだろうというくらいの、ありふれた曲だ。

「っさいな!」

「いや、心配になるレベルだよ」

「あんたになんか心配される筋合いないから! 佑介だって下手じゃん!」

「は? おい、潤。さすがにおれ、ここまでじゃないよな?」

 佑介に尋ねられた潤兄はしばらく頭をひねり、「引き分けかな」と笑った。

「えー、変な気遣わないでよ、潤兄! 佑介の方が壊滅的だから!」

「そこまで言うなら、今からカラオケ行くぞ! いいよな、潤」

「カラオケかぁ……」

 潤兄は明らかに気乗りしないようだ。

「え、カラオケよくない?」

佑介と歌のレベルが一緒というのは納得いかなかったけど、カラオケ自体はちょうど行きたかった。高揚に任せて、大声で歌いたい気分だった。

「今日、幸の誕生日でしょ。プレゼント、買いに行きたいなって」

「いらない!」

「え?」

 あたしが欲しいものを探すことなんかより、三人でワイワイ遊べたらそれでいい。

 というか、それが何より楽しいから。

「さっきのダイビングキャッチがプレゼントだよ!」

 あたしはおどけて潤兄の腕にしがみついた。汗の浮かんだ肌が、夏のドキドキをもっと高めてくれた。

「ちょっと、暑いって」

「夏はバカみたいに暑いからいーんじゃん! 甲子園のあとでも海とか花火行けるかなー……潤兄、浴衣だしてよね!」

「浴衣はもちろんだけど……甲子園はちょっと無理かなぁ……」と潤兄は苦笑いする。

「そんなんじゃ負けちゃうよ、みんな応援してるんだから! 佑介なんか、さっき……」

「うるせぇな!」

 泣いていることを言われるのが恥ずかしいのか、早足であたしたちから離れる佑介。

潤兄は佑介を追いかけ、軽く耳打ちをする。「プレゼント……」というところまでは聞き取れたけど、その後は風に消えてしまった。

「誰が――」と案の定、顔をしかめる佑介だが、「あ」と何かに気づき、急にしゃがみこんだ。

「どしたの?」

 あたしは何を企んでいるのだろうと気になり、佑介に駆け寄る。

「ほれ」

「!」

佑介は、あたしの左手をそっと取った。咄嗟に手を握られ、頭の芯まで熱くなるのを感じた。

「え、ちょ、何!?」

「潤が指輪でも渡せっていうからよ」

「指輪……?」

 あたしは自分の左手に視線を落とす。

「わっ! なっ!」

焦って手をぶんぶんと振り回す。

薬指に乗っていたのは、セミのぬけがらだった。

ぬけがらは宙を舞って、そのまま地面に転がった。

「何すんの!」

「相変わらずビビリだな!」

佑介にしては珍しく大きな口を開けて、ゲラゲラと笑った。

「あと、お化けと台風と暗いのも克服できてないもんなぁ……」

やれやれという様子で、あたしの弱点を付け足していく潤兄。

「潤兄、佑介に余計なこと言わないで! 言ってるでしょ、プレゼントなんか別に……」

あたしは転がったセミのぬけがらに一瞬目をやるが、すぐに逸らした。

本当は嬉しかったけど、そんなところを見せたくなかった。

今なら、自分の心のうちがはっきりわかる。

恋心は今の楽しい時間の邪魔になってしまうかもしれないと思って、頭から追い出そうとしていたんだ。

「なんてーかね、夏だ! ってだけでもう十分なの。この暑さとかさ、夏だってだけで楽しいっていうか」

 あたしは青空を仰ぐ。セミの鳴き声がして、土と緑の香りがして。

 大好きな人と、この夏は何をしよう?

 それだけで、顔がにやけてしまった。

「すげー馬鹿っぽい意見だな」

「佑介には、夏の匂いの良さとか、そういうのわかんないでしょ?」

「……いや、わかるよ」

 佑介はぽつりと、共感するように呟いた。心の底からそう思った様子にハッとさせられた。

 佑介も、本当に夏が好きなんだ。

「ま、もらっといてあげるから」

 先を歩く二人には聞こえないくらいに、そっと呟く。おっかなびっくりではあったけどセミのぬけがらを掴み、空になった飲み口の広いペットボトルに、潰れないように入れた。

 もちろん、佑介に気づかれないように。

 そのぬけがらは、今でも部屋の引き出しにしまっている。

佑介に対してどう接していいのかわからない今でも、それだけは手放すことができない。


「……ん?」

リビングからガタガタとテーブルを動かしたり、椅子を引いたりする大きな物音がした。

こんなタイミングで、何やってるんだろ。

あたしは咄嗟にイラっとし、妙に気持ちが毛羽立ってしまう。

 迷ったが、立ち上がった。

 佑介には申し訳ないけど、もう帰って欲しい。潤兄は、あたしといるよりも佑介といる方が楽しそうだから。これ以上、佑介にドロドロした感情を抱くこと自体が辛かった。

重い気持ちのまま部屋を出ると、ふと足元に何か落ちていることに気づく。

 ポラロイドの写真?

しかもこれ、あたし……?

 そんはなずない。そこに映っている場所は見たこともないところだった。

怪訝に思ってよく見ると、それは女の子の格好をした潤兄だった。

「……もしかして、佑介が撮ったの? なんでこんな写真」

 佑介か、さっき部屋にきたときに潤兄が落としていったのだろうか。

 それを見ていると心が落ち着かなくなった。

 映っている潤兄は、あたしにあまりに似ていた。

そっくりなあたしが、あたしができないような笑顔を浮かべている。くすぐったくてはにかんだような表情を見ると、その違和感で写真の優しい笑顔にはそぐわないざわめきを感じた。

 あたしは恐れているのだ。潤兄が、佑介に向かってこんな笑顔を浮かべていること。

そういえば潤兄が女の子を好きになった話なんか、聞いたことない……。

 わかってるんだ。ちょっと考えれば、勘ぐりすぎだって。

だけど今のあたしは、そんな『ちょっと考えれば』なんか構っていられないくらい、頭が熱くなっていた。

悪い想像は飛躍し、加速して、佑介への憎悪に変わっていってしまった。

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