第2話 【第一章/秋 ぬけがらさえ、残せずに】②

《秋/遠藤 さち 『安息の場所で』》


 こんな天気がいい日は、何もしたくない。

 雨の日は何もするべきじゃない。

 そんな風に、いつも言い訳を探している。

 何もしていないときほど、嫌なことを思い出す。今度は何かをする気がなくなってしまう。そんな循環の中で、あたしは生きている。

 平日のデパートの屋上は、今日も人けがない。

 せせこましくみんなが生きている中で、ここは時間が止まってしまったよう。現実みもなく、社会から断絶されているように感じる。

 ここだけが、唯一あたしがいてもいい場所な気がする。逆に言えば、世界にはここしかあたしの居場所はないし、社会にどう入っていけばいいのか最早わからない。

 そうなってしまうのは当然なんだ。みんなと、大切な人と笑いあったりする権利なんかありはしない。

 だって、


 あたしがまだ、高校二年生だったとき。秋も深まろうかとしているのに汗が噴き出るくらい暑くて、セミが狂ったように鳴いていたのを覚えている。

 生きながらえてしまったけど、いつ死ぬのかわからない命の集まり。

 今のが最期の一鳴きかもしれない。断末魔の連続みたいに聞こえた。

「幸。どうしたの、そわそわして」

 落ち着かないあたしを、トモは挑発的に笑った。

「ん。ここ、人こないかな」

 脚をくすぐる蜘蛛の巣。校内の埃臭い階段下の用具置き場で、あたしとトモは身をひそめて内緒話をしていた。今日はたまたまここだというだけで、場所を決めずに、放課後にはいつも二人の居場所を探していた。

 トモいわく、あたしたちは「ノマド的な関係」だった。

 一つの場所に拘らず、定住しない存在。こうあるべき、という関係に囚われないあり方。

 トモは自由でありたいと願い、縛られたくないと望み、あたしをそのパートナーに選んだんだと語った。

「幸は可愛いね。誰かに見つかるの、怖いの?」

「……」

 あたしが返答に迷うと、トモはじれったそうに首筋にキスをしてきた。

 最初は身が竦んでしまったけど、今はもうむず痒いだけだった。

「見つかって何が悪いの。幸さえ良ければ、こんなところに隠れたくないんだよ」

 あたしとトモは、付き合っていた。互いに確認し合ったわけではないけれど、トモがあたしを特別な存在だと思ってくれていたのは確かだ。

「幸は、きれいだね。胸が苦しくなるくらいだ」

 トモとは最初は普通のクラスメイトで、仲のいい友達くらいのつもりだった。

 けれど、そんな軽い気持ちだったこちらとは違い、トモはあたしに興味を抱き、付き合うつもりで関係を縮めていたのだろう。

 あたしと出会う前から、トモは性のアイデンティティに疑問を感じていたという。

 彼女はその葛藤を感じさせない。どうやって乗り越えたのかは知らないけど、一六歳にして自分自身をはっきりと同性愛者だと規定している女の子だった。

 彼女のお眼鏡に適ったのはどういうこところなのか、間違ってもあたしが綺麗な存在なんて思えない。彼女はそう信じているようだった。

「そんなきれいな目、しないで。笑っちゃうから」

 トモはあたしの怯えた目を綺麗だと表現した。よく、『透き通っている』『純粋な』なんて言葉であたしを度々からかった。でも、彼女はあたしを本当にそんな風に思っていたように感じる。冗談めかせばめかすほど、トモの純粋さが伝わってきてめまいがした。

「幸はね、どこまでもきれいなんだよ」

「いや、そう言われても困るんだって。あたし、欲まみれだから」

「その欲すらきれいなんだよ。動物に欲があっても、きたなくないのと同じで。……あたしには、幸しかいない」

 彼女は、あたしが周囲と違う特別な人間だと何度も繰り返す。あたしに刷り込むように。(それとも、自分に言い聞かせるように?)

 こちらから言えば、トモの方がよっぽど「きれい」だ。

 あたしを純粋な存在だと信じて疑わず、あたしとトモだけの二人が、特別な人間だと本気で思っているようだったから。

 あたしはこの関係が辛かった。トモはどんどんクラスから孤立して、完全に腫れ物になってしまっている。もっとも、そんなことを気にも留めていない様子だった。

 クラスにおいて、あたしは唯一彼女の理解者という立場で、それを放棄することはできなかった。トモに何か連絡があるときは、必ずあたしを介していた。

 それが煩わしいし、あたしだってほかのみんなと喋ったり遊んだりしたい。あたしとトモはセットの扱いで、クラスメイトからは明らかな距離を感じる。

 それでもトモの純粋さを踏みにじることはできなかった。

 潤兄と佑介が卒業した後で、その当時トモのことを二人に知られていなかったのが、せめてもの救いだ。

「……トモ。上から誰か来た」

「静かに、って?」

「声、大きいから」

 あたしは焦り、トモの肩を掴む。

 トモの余裕の表情にあたしは苛ついてしまう。感情の揺れ動きを愉しむような目だった。

「幸の方が声大きいじゃん」

 そう言って、もう一度あたしにキスをしようとした。

 今度は唇。

 あたしは顔をよじって避ける。その拍子に、足元のモップを蹴り倒してしまった。

 物音で気づかれたのだろう、上から降りてきた数学の先生が「油売ってないで。さっさと帰れよー」と声をかけてきた。

「見られた?」

 血の気が引き、歯の根っこが寒くなる感覚に襲われる。

「あんなオッサンだもん、どうせふざけ合っているとしか思ってないよ。だってさ、『油売ってないで』なんて言い回ししてる時点で、想像力もないだろうし、何かずれてる」

 そんな一言で、そこまでいわれる先生も気の毒だ。

 トモは直感で判断し、独善的にあらゆるものを切り捨てる。

 彼女と最初に友達になったとき、どんな子だったのかさえ、もう忘れてしまった。

「ここ、見つかりやすいってわかってたんじゃないの」

 あたしはトモに不信感を抱いていた。この秘密を、秘密とも思っていないのではないかと。

「え。そうかもね」

「もう、こういうのやめようよ」

「幸?」

 あたしのシリアスな様子に勘付いたのか、トモはヘラヘラとしながらも声を落とした。

「拒んだら、トモが傷つくと思って言えなかったけど……やっぱり、よくない」

「よくないっていうのは本当に幸自身の意見?」

「わからないよ、そんなの! いちいち世の中と比べてないから!」

 トモは驚いた顔をした。今まで、トモに対して声を荒らげたことはなかった。

「幸。ごめん」

 トモは表情が一変し、途端に幼い子供みたいな不安そうな顔をした。あたしが拒むなんて、夢にも思っていなかったのだろうか。

 それも純粋すぎる。

「あたしだってトモのこと好きだよ。自由に生きるっていうのもすごく憧れる。でも、性別にとらわれて、そこから逃れるために自由に生きたいっていうなら……それは、あたしにとっては何か違う」

「……」

「ごめん、自分でも何言ってるか、わかんなくなってきた」

 すごく後悔している。

 拒むにしたって、どうして彼女の心の芯をほじくりかえすようなことを言ってしまったんだろう。しかも、その場の怒りに任せて。

 今ならわかる。あたしはトモの言動が、ずっと鼻についていたんだろう。

 自由を謳っているけど、それは結局、自己肯定のための言い訳なんじゃないかって。

 本当は、誰よりも怯えているんじゃないかって。

 だからこそ、あたしはこんな態度を取るべきじゃなかった。

 トモに対して素直でありたい、彼女のことを想っているからこそ、なんていうのはただの詭弁で。結局あたしは自分の不満をぶちまけたい気持ちと、世間からどう思われるのかが怖いという臆病さに、とりつかれていたのだ。

 トモは泣かなかった。怒らなかった。

「幸はいつだって、私じゃない誰かのことを考えてるんだよ」

 ただ、抑揚なくそう言った。

 トモじゃない誰か。

 そうだ。

 佑介。

 あたしにとって一番怖かったのは、佑介にどう思われるか、トモといたらあいつと結ばれることはないという事実だった。

「誰? お兄さん? 好きなんだっけ」

 トモはまた、あたしをからかうような顔をしたけど、目の奥は笑っていなかった。

「好きって、そういう好きじゃない」

「知ってる」

「じゃあ、なんでそんなこと言うの?」

「私は別に、幸と恋愛ごっこがしたいわけじゃないから。ただ、幸は私といるべきなんだよ。お兄さんだろうと、幸にとって大切な人はみんな敵」

「やめてよ! き」

 言いかけて、ブレーキをかける。けれど、止まらなかった。

「気持ち悪い」

「……そこまで幸に強い感情を抱いてもらえて、光栄だね」

 最後に見た、トモの笑顔。どうして笑ったんだろう。

 あたしはそのとき、本当にトモが気味悪く思えて、言葉を続けられずに逃げ出してしまった。

 翌日。トモは学校を休んだ。そのまま一週間、欠席は続いた。

 あたしは後悔をしながらも、休みだとわかるとホッとしていた。このまま距離を置いてほしい。そんな願いは、本当に叶ってしまったのだ。

 彼女は翌週の月曜の朝、交通事故で亡くなった。朝に家を出て、学校に向かおうとしていたところだったいう。

 残された言葉もない。ただの事故。

 クラスの変わり者が事故で死んだ。そんな風に学校中に伝わった。同性愛、レズなんて単語もちらほらと出ていたが、信憑性のない噂程度の扱いだった。

 あたしにはどうしても自殺にしか思えなかった。死んでほしいとは願わずとも、彼女がクラスから消えてほしいなんて考えが過ったせいで、そうなったんじゃないかと本気で信じてしまった。

 彼女が死んでから、あたしの中にはあたしを責める誰かが生まれた。

 トモでもない、誰か。

 顔も名前も声もないのに、あたしに語りかける。

――トモは、お前が殺した。

 眠っていても、あたしをその声で起こす。責任の取りようもない、懺悔も償いも存在しない罪。あたしの存在をただこの世界から排除しようとする声だった。

 あたしも自殺するべきなんだろうか。

 そう考えたことも何度もあったけど、できなかった。少なくとも、あたしが死んだら悲しむ人間がひとりだけはいてくれる。

 潤兄。

 あたしは自分を護る殻を探した。部屋にひとりでいるのが怖いのに、外で人に囲まれているのも怖い。そんな八方ふさがりの状態だった。

 必死に安らげる場所を探した。

 そして、たどり着いた。

 泣きはらした目で見た、このデパートの屋上は美しかった。幼い頃に家族で訪れた屋上だけは、思い出の中でも汚れていなかった。

 平日の昼間ということもあり、人のいない屋上でベンチの下に潜り込んでみた。幼い頃、そうしたように。

 ベンチの裏には、マジックで『おにいちゃん』といびつな幼い字で書かれている。

 あたしが子供の頃にした落書きだ。

 見ていると、気持ちの中の暗い部分が膨れ上がるのをやめた。

 そこから、あたしは度々屋上を訪れるようになったのだ。


 マジックで書いたその文字を見るたび、子どもの頃、ベンチの下に潜り込んで潤兄を驚かすのが好きだったのを思い出す。

 しあわせだったころを思い出すと、逆に辛くなることもある。

 その頃はまだ何も怖くなくて、誰かが自分を責めることもなく、自分の中にあたしを追い詰める声もなかった。

 潤兄は、『友達を失ったショックで少し脅迫的になっているだけだよ』と優しく言ってくれた。『今は、幸にとって辛いことや苦しいことをしなくてもいい』と。

 思えば、そこが第一のつまずきだったように思う。

 自分の心を護るため。トモを見殺しにしてしまった自分に、これ以上負担をかけないため。

 あたしは、潤兄の言ってくれたことを都合よく受け取って、自堕落に何もしないことを選んだ。先生の協力もあり、高校だけはどうにか卒業したものの、受験は一切しなかった。潤兄はそれでも、『一浪なんてよくあることだよ』といつもと変わらない様子だった。

 いつも通り接することで、支えようとしてくれていたのが伝わってくる。

 単身赴任している父親にも、潤兄から話を誤魔化しながら伝えてくれると言った。

 幼い頃にお母さんは死んでいて、あたしには父親しかいない。医師である父は、おじいちゃんの面倒を見るために実家の長野で勤めている。

 東京に残っているのは、あたしとお兄ちゃんだけ。保護者がいないという立場も、あたしが自堕落を許してしまった、その甘えを生んだ理由かもしれない。

 金銭的に支えてくれている父には申し訳ないけど、家族と思えるのも、あたしの心を支えてくれるのも、潤兄だけだった。少なくとも、心情的に親と繋がりがないのは事実だ。

 あたしは高校卒業後、この世界から一年間、離れた。みんなと違うサイクルで、誰からも縛られず生活した。

 誰かが何を言うわけではなくても、歩いている人間が言うのだ。

――お前がトモを殺した。人殺しのくせに、今度は兄貴に迷惑をかけるのか?

 その声は学校に通っているよりも強く聞こえるようになった。

 自分の気持ちをコントロールする術を掴みかけたところで、結局小さなことをきっかけに爆発する。

 潤兄があたしにかけてくれる注意が、その瞬間にだけ異様に疎ましく感じ、突き放してしまう。必ず後で気づくのに。あれはあたしのためを思っていってくれたのに、って。

 あたしは何も悪くない。そういう風にずっと思っているよりも、ずっとつらいことだ。わかっていても傷つけてしまう。あたしがあたしじゃなくなる。自分でもきっかけはわからない。

 あたし、病気なのかな?

 その問いに、潤兄は懸命に首を横に振ってくれる。

 あたし、死んだ方がいいよね?

 潤兄は必ず怒ってくれる。

 大抵、そうして自ら追い詰められ、過呼吸になってしまう。うまく息が吸えなくなって、鼻の奥がつんと痛む。潤兄は「発作」と呼んでいた。あたしの意識が遠のく中、必ず潤兄が紙袋を口に当ててくれて、背中を撫でてくれるのだ。『幸、死んだら許さないからね』と、誰よりも優しく、微笑みかけながら。

 自分から死ぬのは怖いと思うと同時に、もう死んでしまってもいいや、という気持ちもどこかにずっとある。それでも、そうすることはできない。

 思い残すことがあるとしたら、なんだろう。

 潤兄。

 もちろんそうだ。

 だけどもうひとり、あたしがこのまま死にたくない、と思わせてくれる人がいる。

 佑介。

 トモが死んでから、うまく話ができない。

 佑介はトモのことを知ってるんだろうか?

 潤兄は、佑介に絶対にそのことを言わないと約束してくれた。

 だけどこんな気持ちを抱えながらじゃ、自然に話をするなんてできなかった。

 佑介には、玲子さんという恋人がいるそうだ。潤兄はあたしにそれをどうにか隠そうとしていたけど、結局は吐露した。

 隠し事はいいけど、嘘は言わない。兄の中の厳密なルールらしい。

 玲子さんは美人で成績優秀、ちょっと変わり者らしいけど、佑介の写真を誰よりも評価している人だと聞いている。

 きっとそれは、佑介にとって誰よりも大切な存在になる人だろう。

 潤兄はさすがにそこまでは言わなかったけど、あたしはそんな風に感じた。

 だから、あたしが抱いている曖昧な気持ちなんて、佑介に伝えること自体がお門違いだ。

 トモへの負い目以外でも、佑介とうまく話ができない理由があった。

 潤兄は、なんだかんだ言って佑介をすごく信用しているように思える。潤兄にとって一番気の置けない存在という立場すら、あたしにとっては危うい。

 兄までいなくなったら、あたしは本当にひとりぼっちだ。

 だから、あたしは佑介に冷たく当たってしまう。

 でも、これでいいんだ。

 佑介はあたしのことが好きじゃないから玲子さんと付き合っているんだし、玲子さんと付き合って、結婚でもした方がしあわせに決まっている。

 だから、潤兄だけは。

 お兄ちゃんだけは。

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