夏のぬけがらを、抱きしめて

肯界隈

第1話 【第一章/秋 ぬけがらさえ、残せずに】①

《秋/臼井 佑介 『一瞬の煌めき』》


 気付いたらいつも、遠藤潤をファインダーで追いかけていた。

 それが自分でも不思議でならない。おれが日頃から被写体に選ぶのは、スマートで穏やかな物腰の彼とはかけ離れたものばかりだった。

 汗にまみれた工事現場の労働者や、海岸沿いに投げ打たれている漁師が使うロープの山。赤瀬川源平に影響され、深夜に徘徊しては、マンホールばかりを撮影していたこともある。

 写真だけではなく、小説一冊選ぶにしても基準は変わらない。労働者階級を描いたプロレタリア文学や、デカダンな世界観を持つ村上龍などの現代文学、荒廃した世界を描いた海外SFなんかを自然と手に取っていた。

 人物であれ物であれ、惹かれるものに共通しているのは、泥臭さの中にある煌めきだった。

 中流の、平凡で食うには困らない家に生まれたことへの後ろめたさと、日々を『生きるために生きる』人々への憧れかもしれない。

 だから、女と見紛うようなをもち、いつも涼しげな潤に向かってシャッターを切るたび、ハッと我にかえるのだ。おれは潤の中に何を見ているのだろう、と。

 壁に張った潤を捉えたポラロイド写真を見るたびに、高三の夏を思い出す。高校野球の予選大会の熱が蘇るのだ。三年前とは思えないくらい、その光景を克明に覚えている。

 おれの家からほど近い、匂坂市の市民球場だ。

 9回の裏。2アウトで、ランナー2、3塁で一打逆転のピンチ。二遊間を抜けようとする強烈なライナーに、セカンドを守っている潤が飛びついた、その瞬間。

 夢中でシャッターを切った。試合の内容など忘れ、その潤の姿を捉えたい一心だった。

「マジ!? 潤兄、やった!」

 潤のファインプレーで、緊迫した試合が終了する。

 生徒の有志が集まってできた小さな応援団、そのスタンドの中で誰よりも屈託のない大きな歓声を送り続けていたのは、潤の妹のさちだった。潤がいるところには、必ずと言っていいほど笑顔の幸の姿があった気がする。

 華奢で背の高い幸が立ち上がると、細く長い影が伸びた。その頼りない影が嘘みたいに思えるくらい、彼女はエネルギーに満ちていた。

「潤兄、ナイスプレー!」

 制服のスカートを揺らし、フェンスに手をかけてダイヤモンド上の潤を呼び続けている。

 潤は一度幸を振り返ったが、すぐにナインに囲まれてもみくちゃにされた。

「佑介! カメラなんかいいから見なよって!」

 幸はおれの肩を揺らす。その細い腕によくそんな力があるものだ。

 おれはカメラを落としそうになりながら、咄嗟に取り澄ましてしまう。

「揺らすなって。大げさなんだよ」

 大げさだと言ったのは、あながちただの虚勢ではない。

 振り返ると幸以外の客はそこまでの歓喜の様子は見せず、座ったまま拍手をしているだけ。

 これは地方予選の初戦だ。

 もちろん、万年一回戦負けの野球部にとっては大金星には変わりないのだが。

「は? ふざけんな! 今日のために、潤兄がどれだけ……」

 言いかけて、幸は黙ってしまった。

 人は強い想いを受けたとき、無意識に目頭を熱くさせられることがある。

 おれは潤が見せた一瞬の輝きにあてられ、いつのまにか一筋の涙を流していた。

「泣いてんの? うわー、ひくわぁ。一回戦だよ?」

 幸は鼻を啜るおれに馬鹿にしたような笑みを浮かべ、おれの鼻をつまんできた。

「うるせぇ! 馬鹿みたいに喜んでたのお前の方だろ!」

 おれは彼女の華奢な鼻先をつまみ返す。

 幸は「ちょ、やめ」とおれの手を払い、グラウンドの歓喜に包まれたナインを背にする。

「ね、記念に撮ってよ!」

「フィルムがもったいねぇ。高いんだよ」

「ポラだから高いんでしょ! てかさ、写真好きなら一眼くらい買いなよ」

「うるせぇな」

 おれがいつも使っているのは、父親からプレゼントされたポラロイドカメラだった。

『安価だしボディは簡易的な作りだが、レンズの描写力は確かだ。奥行きのある写真を撮るための被写界深度も申し分ない……』などと親父はつらつらと御託を並べていたが、おれには意味も、良し悪しもわかっていなかった。(親父だってわかっているか怪しい)

 いや、そんなこと関係ない。刹那的に光景を切り取るポラロイドカメラに夢中だった。

 初めて手にしたカメラということもあり、擦り込みみたいなものだ。ズームも望遠もできるこの一台で事足りていた。

 だが、幸の言うことはもっともだ。

 高性能のレンズがついたカメラとは、表現できる幅は到底比べ物にならないだろう。静物ならともかく、スポーツなど激しく動く人物を捉えるとなると尚更。

 それでも、おれはこのカメラに全てをかけていた。

「お前はわかってねぇ。ポラでしか本当の一瞬は切り取れないんだよ」

 この理屈は、誰に言っても理解されることはなかった。

 おれは過去を振り返るために写真を撮ることはしたくない。デジタルで加工をすることはもちろん、いわゆる銀塩写真もおれのやりたいニュアンスには合わなかった。

 一瞬の煌めきを、ポラロイドのフィルムに閉じ込めたかった。そこにある熱を写し取り、その画が浮かび上がってくるその光景は、炎で輝きを炙り出しているみたいだった。

「あーもうわかったわかった! それよりはやく! みんないなくなっちゃうから!」

 幸は後ろを二度三度と振り返り、おれを急かす。

「しょうがねぇな……」

 ファインダーを覗き、ピントを合わせたころには、彼女は呆れ笑いになっていた。

 幸の笑顔。

 無邪気に細めたおれを馬鹿にしたような目や、丸みを帯びた瑞々しい頬のゆるみ。

 見慣れているはずの幸の顔が、一瞬、ほんの一瞬だけど。

 たまらなく遠く感じるくらい、愛おしく感じてしまった。

「……どしたの?」

 おれはカメラをベンチに置いた。おれは幸の写真を撮ったことがなく、結局これ以降も撮ることはなかった。

 いや、今思えば、あの笑顔はあのときにしか撮れなかったもののはずだ。

 写真はいつだって、目の前の瞬間だけを映すものだから。

 だけど、そんなのは強がりかもしれない。

 おれは幸の笑顔を撮れる唯一の機会を逃したのを後悔している。

「最近太ったんじゃねーの? あと三キロ痩せたら撮ってやるよ」

「ウッソ、最悪!」

 そんな照れ隠しをすることでしか、幸と喋ることができなかった。

 幸に対しておれが抱いている気持ちはなんだろう。

 恋とか、そういうのともなんだか違う、むず痒いけど、どこか気後れがある関係。

 幸にとっておれは、慕っている兄貴の友人でしかない。

 その事実が、関係を縮めることを妨げた。

 彼女の一番になることはどうせできないのだという想いから、おれは自分の気持ちに名前を付けず、頭の中に靄がかかったまま毎日を過ごしていた。



 けたたましく響き渡る、トラックの『バックします』というアナウンス。

 強制的に記憶の泡がはじける。あの大会があった日から、もう三年も経つのか。

 あの日のことを何度も反芻していたから、おれは眠ってその夢を見ていたのか、ただそのときを思い出しているのかさえ、混濁していた。

 トラックに対してイラつくより早く、部屋のチャイムが連打される。

 咄嗟に時計を見ると、まだ朝の七時だった。

 このタイミングでの来客には思い当たる節がなかった。

 引っ越しか?

 こんなボロアパートによく住む気になったもんだ。

 それにしたって、こんな時間に挨拶もないだろう。

 部屋に上がってくることはないだろうが、一応、万年床を起こす。

 その間も不躾にチャイムは連打され続けていた。

「なんすか?」

 ドアの小窓を覗くのも面倒で、『お前は非常識だ』とはっきりと示すような声で応対する。

 そこには、腕組みをし、冷淡な表情を浮かべた清水玲子が立っていた。目線はおれの方が高いはずなのに、不思議と見下ろされている気がする。

 彼女はおれが所属する大学の写真部の部長だ。撮影合宿やイベントをさぼりがちなおれに、いつも発破をかけにくる。特に文化祭が迫っていた今週は、度々連絡をよこしてきていた。

 今日はその当日で、おれは午後から写真部の展示の呼び込みをすることになっている。

 早い時間に無理やり起こされ、玲子への不満を隠せずにいた。

「玲子? 文化祭の当番なら午後からだろ?」

「はい、ちょっとどいて」

 玲子はおれを押しのけ、部屋にずかずかと上り込んだ。許可も得ず、壁に貼ってあるおれが撮った写真を物色し始めた。

「これ、と、これかな」

 玲子は許可も得ずに写真を数枚選んではがし取っていく。

「おい、勝手に触るなよ。何の用かちゃんと言え」

「これは……遠藤君?」

 マイペースにことを進める彼女。いつも通りだからもう諦め気味だが、こっちの話を全く聞こうとしない。例の潤の写真が目に留まったようだ。

「二人、いつも一緒にいるなとは思ったけれど……」

「ちげぇから!」

「これ、特にいい写真ね。やっぱり愛の力……。これだけは見逃してあげる」

「……もう、なんでもいいよ」

 彼女は潤の写真には手を付けず、そのほかの写真をファイルに収めた。

「これくらいできるんだから、日頃ももっと精を出して撮りなさい」

「うちの写真部なんて、元々お遊びだろ。わざわざ写真回収しに来たのかよ。遠路はるばる、ご苦労なこったな」

「何を言ってるの?」

「……?」

「ふつつかものですが、よろしくお願いします」

「は?」

 お願いしますと言いながら、その高圧的な態度は一切変わっていなかった。

 それ以前に。

 いつものことではあるが、彼女との会話は基本的にかみ合っていない。

 一般的に、『ふつつかものですが』とくれば、嫁入りをイメージする。しかし、この状況で彼女は何を言いたいのだろうか。

 大学に入り、彼女と付き合い始めてから二年が経つが。

 いまだに彼女の考えの輪郭すら掴めていないような気がする。

「見たらわかるわ」

 玲子は扉を開け放った。

 何事かと外に飛び出すと、引っ越し業者がおれの隣の部屋に、段ボール箱を次々と運び込んでいくところだった。

「もう、遠路はるばるなんかじゃないのよ。今日からお隣さん」

「はぁ?」

 玲子は、ここから徒歩一時間以上離れた、この部屋の家賃の三倍は下らない高級マンションに住んでいる。

 どうしてこんな安アパートに彼女が引っ越してくるのか、理解できなかった。

「昨日聞いたんだけど。臼井君、大学留年寸前らしいじゃない?」

「……」

 なんで玲子がそれを知ってるんだ?

 知られたら絶対にまずいと思って、黙っていたのに。

「遠藤君から聞き出したの」

「潤のやつ……。余計なお世話だよ、いいだろ、別におれが留年したって」

「心配いらないわ。一から叩き直してあげる! 臼井君はやればできる子だから!」

「だから、そうじゃなくて」

「私はね、臼井君の写真、本気で見込んでいるから」

「……」

 おれは多分、玲子が美人だから付き合っているというだけではないと思う。

 心が玲子から離れかけた瞬間、グッと掴まれる。段々手繰り寄せられてしまう。

 おれは玲子が好きなはずなんだよ。

 そう言い聞かせる。

 いいんだ。幸はおれのことなんか好きじゃない。おれだって、いつまでも可能性のない関係に拘り続けるほど馬鹿じゃない。

 だから、おれは玲子に告白をし、付き合うことにした。幸を諦めるためなんて、最低だってのはわかっているんだけど。

 周りからは美人だから飛び付いたと思われているし、否定はできないけど、どこかで本気でこう思っている。

 こいつなら、おれが写真でやりたいことを理解してくれるんじゃないかって。

「もう少し寝かせてくれよ」

 それにしたって、こんな朝っぱらから写真への夢とか、そんな話をする気にもならない。

 写真のことも、幸のことも。

 色んなことに蓋をして、何の努力もしないで何者にもなれるわけないだろう。

 そんな不安さえ煙に巻いてしまいたくて、また眠るのだ。

「駄目よ。健康な生活が、健康な心を作るの」

 玲子は容赦なくカーテンを開ける。眩しい陽に思わず顔をしかめるが、そういうえばカーテンなんかもう何か月空けていないかわからない。

 なんだ、いい天気じゃないか。気分は悪くない。

 こんな日だからこそ、もやもやしたことをすべて忘れたくならないか?

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