第2話
―10年前。
目の前に落ちた古ぼけたぬいぐるみを拾い上げ持ち主の少女へ手渡した。
少女は何の感情も映らない菫色の瞳で私をまじまじと見つめると向こうへ走っていった。あんな風に両手で抱えているのだからきっと大事なものに違いないのだろう。
“神の寛容は貴様ら罪人にすら使命を与え給うたのだ”
薄暗い広間。疲れ切った顔で薄汚れたローブを身に纏う大人たちの中に混じり孤児の私は神父様の説教をぼんやりと聞いていた。
手の中にはさっきまでスープの入っていた空のお皿。具の少ないぬるいスープは皿の隅々まで嘗め回して跡形もない。
神父様の口から繰り返されるヒステリックなリフレインは子供ながらに恐ろしかった。
“
神様がどういうものか私は良く知らなかった。ただその時与えられた一杯のスープと引き換えに私は自らの人生を売り飛ばした。それだけのことだった。
それからの3年間は地獄だった。
最初の1年間は何も持たないままに広大な荒れ野に放り出され、本能を頼りに生き延びるだけという訓練とも呼べないような日々を送った。私は訳も分からないまま昼は食物を探して歩き回り、夜は疲労と孤独で声を殺して泣き、やがて眠りに落ちる。夜の孤独と心細さに耐えられるようにはなってもそれに慣れることは終ぞなかった。
その次の1年間は密室で目隠しをされたままあらゆる方向から木の棒で殴打され続けるという、これもまた訓練と呼ぶには余りにも悲惨なものだった。身体中にミミズ腫れが出来て、その上から殴打されると皮膚が破れそうに痛く失神することも多かった。これ以上殴打すると死ぬと判断されればようやく数日は放置される。数日が経過するとそれはまるで気まぐれのように再開された。
夜になると自分と似た境遇の子供たちがそこかしこですすり泣く声が聞こえた。それぐらいであればまだいい方で、孤独と恐怖で発狂し泣き喚き失禁した末に夜中どこかへ連れ去られていく子供も何人もいた。
痛みは恐ろしかった。その先にある死もまた恐ろしかった。
死にたくなかった。何が何でも生き延びなければならなかった。文字通り死に物狂いになった。人間以下の獣になってもいい。尊厳なんていう贅沢品は最初から望むべくもないのだ。
思えばその時から私は一つずつ人として何かを捨て、引き換えに生の権利を得るという理を身に着けたのかも知れない。
暗闇の中、木の棒の振るわれる空気の音、人の息遣いや衣擦れの音が聞き分けられるようになってからは打撲傷で夜眠れなくなることはなくなった。
その次の年からは実践だ。
初めて与えられたナイフで殺したのは年若い司祭だった。
仕事の失敗はほぼ死と同義。それにも関わらず私は最初の刺突で背中から血を噴き出すその様を見て震えが止まらず躊躇っていたところ、傍にあった濃度の高い塩素の入った瓶を顔面に投げ付けられた。
痛みと込み上げる嘔吐感に咽び前後不覚になりながら私は音と気配だけで標的を必死に探り当てナイフを持った手を突き出した。
手にゆっくりと伝わる肉が裂ける感触。ゴツゴツとした骨に当たる感触。やがて手には血の滴りが伝わる。
男は血反吐と共に罵詈雑言を投げかけてきた。おそらく口汚いスラングか何かで意味はよく分からなかった。神の代理人の最後は呆気なかった。
私にとっての地獄は少しずつそれ自体が日常へと変わっていく。
如何にスムーズ且つ迅速に異教徒を殺せるかが自分の生きる価値だった。
こんな私でも神に仕えている時は頭がすっと澄み切っていく。
私にとって仕事はすべてを忘れさせてくれる。そんな理由で私は自分の仕事が嫌いではなかったのだ。
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