第13話 老獪の魔術師
勇者――イクフェス・イシュノルアの帰りを出迎えたのは、小人の魔術師アジルヒム・コルトレツィスであった。
「俺は何も救えなかった。仲間も、世界も……俺は、勇者などではなかった……」
哀しみに打ち拉がれ、慟哭に四肢を震わせつつ孤島での顛末を叫ぶイクフェスへ、アジーは優しく諭し掛ける。
「イクフェスよ。お主はそれでも勇者であらねばならぬ。たとえそれが嘘で塗り固められた仮初の偶像だとしても、この世界には縋るべき勇者が必要じゃ」
俗世との関わりを拒み、円環大陸の外端にひっそりと隠居していたアジルヒム・コルトレツィスの住処を、イクフェス達、魔王封印を志す一行が訪れて、既に一週間が経過していた。
ある現象を断片的に自覚していたアジーは、当時、その日の到来を諦観の面持ちで待っていた。しかし、滅びを待つ彼の前に、イクフェスは現れて「俺がこの世界を救う」と豪語したのだ。言葉の示す意味がややずれていようとも、アジーは彼に、ひいては変化を齎した彼の仲間達に一縷の希望を見出せずにはいられなかった。
だが、結果は……。今、シュラーフの結界の境界線より少し離れた場所で彼等の帰還を待ち望んでいたアジーの元へ、一人になって戻ってきたイクフェスの、その悲痛な表情は、彼が語るよりも先立って、望まなかった結末をなにより雄弁に語っていた。
魔王封印と銘打った旅路の果てに、イクフェスの手元に残されたのは、シスが魔術を練り込んだラムスプリンガと、同じく彼女が結界の遮断にと託した聖蓮の紋章と、そして、シューサが身に付けていた翡翠の指輪だけ。
いかな結末であろうと、それでも世界は平和を享受し、時代は巡りゆく。
やがて、イクフェスが勇者として持て囃される風潮も静まって、ようやくの帰郷を果たした数日後。
当時はまだ、その名も公知されていなかったアジルヒム・コルトレツィスは、宵闇に紛れて、イクフェスの元を訪れた。
「アジー……すまない。こんなことを頼めるのはお前しかいなかった」
コレンツィヒの外れ。暗天の下の密会に等しき再会。暗闇に同化する外套に全身を覆いしアジーは、唯一覗く皺まみれの双眸を僅かに見開いて答えた。
「もうよいのじゃ。ラムスプリンガはわしに任せい。それよりも……お主の“子供達”はどうするんじゃ?」
「あの子達は――」
イクフェスは、故郷の方角を。背後へと微かに視線を泳がせた。その口から語られる決意は、夜風を知るアジーにだけ届く。
「そうか……辛い運命じゃのぅ」
「これは教皇も知らない。そして、これから先も知られてはならない」
「わしらは共犯者じゃな」
「……本当にすまない」
深く頭を下げるイクフェス。対するアジーは、彼が仲間と共に自分の住処を訪れた際の一礼と重ねて見ていた。あの頃と大して変わらない筈の姿、その輪郭線がどうしてもぶれて映った。
「折角生き永らえた命じゃ。神の光が再臨するまで、わしなりに余生を謳歌するわい」
「ラムスプリンガの
「ほっほ、似とるとええのぉ」
「ははっ、どうだろうな。娘の方は、既にほとんど俺と似ていない」
実景とは異なる、失われた日々を懐かしむような、遠い目を薄闇に向けて、イクフェスは呟いた。
「……残るのは、後悔ばかりだ」
「そう自棄になるな。術は確かに残っておる。お主の願いも、然るべくして後世に紡がれていく筈じゃ」
「そうだな……そうであってほしいと切に願う」
「その指輪、やはり手放さぬのか」
イクフェスの右人差し指の根には、翡翠の指輪が通っていた。しかし、アジーの位置からは死角となっている。とはいえ、そもそもアジーも、その指輪を見ずとも感知している素振りであった。
「大切な仲間の遺品……という事になっているからな。それに……」
先を言い淀むイクフェス。
「それに?」
幾拍かの沈黙を挟んで、彼は頭を小さく横に振った。
「いや、なんでもない」
「ふむ、まぁよいが。あまり憎悪をあてるなよ。ものにも邪念は宿る」
「あぁ」
コレンツィヒの夜空は、こころなしかイエナバッハやバンヘーゼンよりも澄んで見えた。アジーが星屑の煌きを仰いでいると、会話の途切れを頃合いとみたのか、イクフェスは一振りの細剣をアジーに手渡した。それこそは聖剣……後に聖遺剣ラムスプリンガと伝承される刺突剣であり、
「アジー……どうか俺を許してくれ」
従来の生真面目さがたたってか、あの日を境にして、イクフェスの言動や表情には、悲観の影が色濃く滲み出るようになってしまっていた。それこそが、かつての彼と輪郭線をずらす要因なんじゃろうな。アジーは内心、彼の変化を寂しく受け止めつつ
「お主も大概しつこいのぉ。よいか? わしのことはもう忘れてしまえ。なに、魔術の研究に没頭しとれば、時の流れなど、あってないようなものじゃて」と、陽気に振る舞ってみたが、相手の表情を覗うに、効果は薄そうだった。
「忘れないさ。夢の続きを託せる――たったひとりの友よ。願わくば、もう二度と……勇者など必要とされない時代が来ることを」
「この先、お主はどうするつもりなんじゃ?」
「残りの人生は、妻と子供に尽くすつもりだ」使命とでも言いたげに、薄闇を鋭く見据えるイクフェス。
「あまり意固地になるなよ。お主はもう充分頑張ったんじゃ。後生ぐらい好きに生きても許されるだろうて」
「だが、俺だけ……」
「お疲れじゃったな」彼の訴えを遮って、アジーは強引に、今までの旅路を労った。
「…………」
喉を詰まらせたかの如く、口を開きながらも声一つ発しないイクフェス。
「おぉ、そうじゃった。お主、ちゃんとアジルヒム・コルトレツィスについて、一策を講じてくれたかの?」
「アジルヒム・コルトレツィスの名は個人ではなく役割――世襲制だと、教皇には伝えておいた」
「ふむ。まぁ、元より小人族は長寿じゃし、容貌もごまかしやすいからの。変に詮索されることもないじゃろ」
「……そう遠くない筈だ」
イクフェスは訥々と、友人へ警告するかの真剣さを孕みつつ、声音を響かせた。
「なんじゃ唐突に」
「口ではうまく説明できないが、この平穏が途切れる日は、そう遠くないと思う」
――私にはな、あっちの世界にもう一人の弟子がいるんだ。弟子というか、元は私が無理やり連れ出したんだけどな。大人しいやつだが、身近の不幸を病的に怖がる奴でね。あんまりのんびりしてると、どこからか嗅ぎつけて追っかけてきそうなんだよ。
イクフェスはかつての仲間の……魔王と伝承せしものを封じる為の犠牲となった仲間の言葉を思い出していた。彼女は、自分の弟子が、この世界に干渉してくる可能性を懸念していた。
「なら、ひょっとするとひょっとして、お主が再び勇者として旅立つ日が訪れるかもしれんのぉ」
アジーは、イクフェスの「そう遠くない」との言動を受けて、できるだけ重荷にならぬよう、おどけた口調で返してみせた。
「願ったりだ」
「……そうかの」
長居は好ましくなかった。惜しむべき今生の別れも、宵闇が手助けしてか、どこか実感に遠かった。
「では、イクフェスよ。達者でな」
「あぁ」
外套の裾を翻して、細剣を片手に持ちて、友へと背を向けるアジー。
「アジー!!」
イクフェスは遠ざかる影へ、叫んだ。
「…………」
アジーは足を止め、無言で、続きを待った。
「……俺の子供達を頼む」
「ほっほ、任せておけ。その時がくれば、必ず力になると約束するわい」
その日、アジルヒム・コルトレツィスはラムスプリンガを守護する役目を背負った。やがて、彼の存在はルーテン教団やラッセンブルグから世界各地へと、徐々に広まることとなるが、彼の姿を実際に見た者はごく僅かであり、いつしかアジルヒム・コルトレツィスの名は、確かめようのない言い伝えとして、形を変えていった。
だからこそ、アジーはその漏洩を利用して、100年間に渡り、永久凍土と化したアンティクルプに定住し、不老不死の存在と成り果て、孤独と寄り添ってきたのだ。
いつか巡りくる勇者の末裔を待ち望みながら。
「ラムスプリンガが奪われた……!?」
勇者の末裔――イクサ・イシュノルアはラッセンブルグにて、もはや前回とは比較もままならない。まったく異なる形で、アジーとの合流を遂げていた。
集いし仲間はこれで四人。勢揃いだ。
「ど、どどどっどうしまほっ……」怒涛の擬音を口ずさんで、しまいには軽く舌を噛んでしまって涙目になっているのは、神託の聖少女――ウルメ・メイヒェン。
「聖遺剣はどうしても必要なのかい? あ、あの子可愛いね。ちょっと話しかけてく、おっふ!!」飄々と、道脇の演奏団を眺めて、可愛い女の子を吟味していたのは、天賦の双剣士――オーマ・ローゼで。
「申し訳ありません。元はと言えば私の……」俯き、猫耳をへにょんと垂らしながらも、しっかりとオーマの脇腹を小突いて戒めているのは獣人の武闘家――エリィ・ブルーメだ。
そして「すまぬ。このアジルヒム・コルトレツィス一生の不覚ですじゃ。さすれば、老いぼれの命一つで償えるとも思えませぬが、いかな罰でも甘んじて受け入れる所存」と縮こまった矮躯を更に丸め、彼独自の受けの姿勢を見せている小人こそが、老獪の魔術師――アジルヒム・コルトレツィスだった。
「ちょっと、それ、僕とキャラ被るよ」呻きつつも、すかさず反論するオーマ。
「オーマは黙っていてください」
エリィに冷たく一蹴されるが、その態度にすら恍惚としているので、やはり、生粋のものだ。神は、彼に剣の才のみならず、痛みをも力と変える屈強なる精神をも与えたのだ。イクサはそう思うようにしていた。
とにかく無事に合流を果たしたアジーは、いの一番に自らの失態を吐露した。彼の話す人物像が、結界を解く古書を強奪した子供達と一致したエリィも、重ねて頭を下げている。二人の謝罪を受けて、イクサの頭の中は酷く混乱していた。
その子供達の目的はなんだ? なぜ、前回は起きなかった……遭遇すらしなかった子供達に、ここまで状況を掻き乱されているのか。
「ラムスプリンガの痕跡を辿るしかないか……アジー、できるか?」
「無論じゃ」
「よし、すぐに出発するぞ」なかば無意識に、前回の終盤にてようやく型にはまりつつあった勇ましい口調になっていた。が、そんなイクサの変化を気に留める者は一人もいなく、
「は、はい」「りょーかいだよ」「かしこまりました」「すまぬ、すまぬ……」と、各々なりの返答をみせた。
そうして、イクサ達はそそくさとラッセンブルグを後にした。
「なにか……大切なことを。いえ、そう大したことではないなにかを忘れている気がします。ほんとに……大したことではないと思いますが」
エリィがふともらした一言を裏付けるかのように。
「うぐぐっ、どいつもこいつも……この俺を置き去りにしやがって。覚えてやがれぇ!!」
遠くからイクサ達の動向を探っていた獅子君ことレオンは、軽度の火傷を負った尻を擦りながら、怒りを露わに、青い空へ「うがぁ!!」と遠吠えを上げていた。
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