第12話 獣人の武闘家
エリィ・ブルーメは呆然自失と、眼前に広がる牧草地を眺めていた。
茜の落日。夜の帳が下り始め、色調の移ろいが彼女の瞳に映り込んでいる。
盗人一味と対峙するまでの過程に問題はなかった筈だ。彼女の目論見通り、聖遺剣の強奪を企む連中と、それを手引きする内通者は焙り出せたし、古書も難なく奪還できる自信があった。
しかし、その結果が――これなのだ。驕りと非難されれば返す言葉も見つからない。内通者の存在を危惧して、誰の手も借りなかったのが裏目に出てしまっていた。
「まさか、あのような子供が転送魔法陣を展開するとは……」
かつて、勇者イクフェス・イシュノルアの仲間の一人が転送魔法陣を展開できたらしい。だが、それ以降は誰一人として、その深淵に辿り着けていないとされていた。現存する魔術師の中で最高位に属するアジルヒム・コルトレツィスでさえ、お互いの声を転送させるので限界だ。
己の傲慢により招かれた失態。茨の鞭のように刺々しく、鋭い痛みを伴って彼女の胸を締め付けるは悔いのみ。
「……あのような崇高な魔術を私欲を満たす為に利用するとは、理解しかねます。私でしたら、もっと上手に、そう、例えば盗撮「もおおおぉぉぉぉ!!!」
エリィの独自を絶妙なタイミングで掻き消す牧牛。しかし、当のエリィは無表情のまま微動だにしない。
「失礼、間違っておりました。あれさえあれば……ばれずに寝込みを襲「めえええぇぇぇぇ!!!」
彼女の如実なる吐露は、次なる刺客……牧羊に阻まれた。が、エリィはあくまで表情を変えず、淡々と繰り返す。
「レオンも放置していますし、一刻も早くラッセンブルグに戻りたいのですが……ここはどこでしょうか?」
緩やかな丘陵地帯。牧草を食べる動物達が疎らに見受けられるが、それ以外にめぼしいものは発見できない。
ぽつん。とメイド服で佇むエリィだけが、明らかに景観から浮いていた。
「アジルヒム・コルトレツィス様にも早急にお伝えしたいことですし、距離次第ではイエナバッハに向かった方がよさそうですね」
彼女は訥々と、独り言を紡ぐ。
「ただ……あそこは亜人禁制の街」
エリィの猫耳がひこひこと痙攣していた。
「イエナバッハの風習の根幹にあるのが差別ではないと理解していますが、一人の獣人としては残念で仕方がありません。私のような獣人であれば、耳や尻尾が性感帯「もおおおぉぉぉぉ」ですし、それに発情期であれば、すぐ股を「めええぇぇぇ」というのに」
やはり的確に咆哮を被せてくる動物達をエリィはきっと睨みつけた。
距離は充分に開いている筈だが、危機感からか、草を食べるのも中断して、そそくさと移動を始める動物達。
「……ふむ」
そして、エリィは懲りずに今一度、口を開く。
「特異点と見なすべきは、転送魔法陣そのものではなく、その結果に導いたあの少年でしょうか。発情期だと侮っていましたが、よくよく考えてみると性欲ほど潜在解放を促すトリガーとして最適なものもありませんね。ロリコン恐るべしといった所です。つるぺたなんて、なめ「もおぉぉぉ!!」「めえぇぇぇ!!」
離れていった筈の動物達がいつの間にやらエリィを取り囲んでおり、一斉に騒ぎ出していた。奇跡的にもちょっと卑猥っぽく聞こえたことに対して微笑をもらすエリィ。
彼女は暴れ狂う動物達を満足げに見つめていた。
「それでは、イクサ、ウル。気を付けてな」
「えぇ」「が、がんばります」「任せてくれたまえ」名前を呼ばれてすらないオーマも得意げな面持ちだ。
ローレンツ教皇は勇者一行を見回して(オーマは視界の隅にだけ映して)力強く頷いた。
「ウルよ、くれぐれも粗相のないようにな」
「が、がんばります……」
呪文のように先程と同じ言葉を繰り返すウル。極度の緊張感からか、いつもは鈴を転がしたかのように綺麗な声も、語尾が震えて形を成していなかった。
「ウルちゃん、大丈夫だよ。僕が君を守る!!」オーマはガッツポーズ。
「勇者様。よ、よろしくお願いします」
極めて自然に無視されたオーマは、それでもめげずに「いつでも頼ってね。僕は可愛い子の味方さ。特に君のような……」などと撫でるような蜜語を囁いていたが、直後、円環大陸の南東を統べる不死の王にも匹敵するであろう怖ろしい形相をしたシャルロに首根を掴まれて、一頻り怒鳴られていた。
神託の聖少女ウルメ・メイヒェンがイクサ達の旅に同行する理由は大きく分けて二つあった。
一つは神託そのものの価値である。そもそも神託とは、神聖魔術の一端として広義されている。神聖魔術は生まれ持った才、或いは血統に依存する類であり、資格無き者が幾ら努力を重ねても決して辿り着けない領域であった。これまで、古くよりルーテン教団に属するメイヒェンの血統のごく一部。それも女性に断定して神聖魔術は芽吹いてきた。
その神聖魔術を扱える人物は、現状、ウルメ・メイヒェン唯一人だった。
魔王が目覚めるとの神託を受けたウル当人が、再び、世界の均衡を脅かす神託を受ける可能性は否めない。その懸念を考慮した場合。世界の希望となる勇者の末裔━━イクサ・イシュノルアの身近にお供させる事が最も理想的だと、ローレンツ教皇が判断したのだ。
次に、これもまたルーテン教団に古くから伝わる言われだが、最南の地バンヘーゼンより魔王が眠る孤島『トロイメライ』へ到達する為には、かつての勇者の仲間が残した結界の解除が必要不可欠とされていた。
かつて魔王封印の旅路において、勇者の行く手を阻むべく孤島『トロイメライ』には膨大な数の魔物が集結した。熾烈を極めた戦いにおいて、イクフェス達は一点突破を果たし、魔王の封印を成し遂げたのだ。そして、士気の欠けた魔物の隙を破って、辛くもバンヘーゼンまで帰還したのである。
無論、彼等を執拗に追う魔物達もいたが、それこそが、あらかじめ張っておいた結界により阻まれた。
バンヘーゼンと『トロイメライ』とを繋ぐ懸け橋『シュラーフ』。そこの結界を解くには、聖蓮を模った紋章が求められる。
そして、紋章の現継承者こそがウルメ・メイヒェンであった。平和であれば、その紋章は光を宿すこともなく、次なる世代へ引き継がれる事となっただろう。しかし、ウルメ・メイヒェンは己の神託により、花を散らせる運命を背負ってしまったのだ。
旅立ちの時は、ローレンツ教皇の思惑通り(粋な計らい?)イエナバッハの住人達の温情溢れる声援に背を押される形で迎えた。
イクサ達が初めに達すべき目的は聖遺剣『ラムスプリンガ』の入手となる。その為には、アンティクルプの結界を破る為に必要となる古書をラッセンブルグまで受け取りに行かねばならなかった。
ラッセンブルグまでは、ひたすらになだらかな地形が続く。濃緑の大地が果てまで延びており、遠くには丘陵の起伏が波立って望めた。
雲一つない満天の青空の下、イクサの『勇者』としての冒険が――再び、始まる。
日の輪が崖海へ落ちる頃。イクサ達は、餌を撒いて牧羊の群れを先導する羊飼いの少年と遭遇した。
目尻の垂れ下った両目を薄っすらと開いて、イクサ達へ黙然と一礼する羊飼いの少年。
「わぁ、羊さんがいっぱいです」
寄り添う羊達は、一見すると巨大な綿雲に見えなくもない。もこもこと蠢く群れに、星屑の光彩を輝かすウル。
もし、神託の一件がなければイエナバッハを出ることも叶わなかったであろう聖少女様からすると、どんな光景も新鮮さに満ち溢れているようだった。
「ウル。羊は臆病だから、あまり驚かしては駄目だぞ」
オーマが馴れ馴れしくも、気さくに「ウルちゃん」と呼ぶ手前、イクサも自然に「ウル」と呼べた。これは前回と同じだ。ただ、彼女の名前を口に出す時に、ちょっとだけ鼓動が乱れるのを、イクサは確かに感じていた。
「あぅ」
慌てて立ち止まろうとしたウルは、なにもない平地であっても、爪先を引っかけて派手に転ぶ芸当を見せた。
「ウルちゃん!! 大丈夫かい?」
率先して駆け出すオーマ。だが、なぜか……彼からウルを守るかのように羊の大群が立ち塞がる。
「なんでっ!?」
振り返って、羊飼いの少年へ助けを求めるオーマ。羊飼いの少年は餌を撒いて誘導を試みるが、牧羊達の標的はオーマから逸れないどころか、遂には次々と体当たりを始めてしまう。
神聖魔術による恩恵なのか、不思議と万物に愛されるウル。一方で、絶望的に動物から敵視されるオーマの体質とが相乗効果を生み、事態は凄惨さを増していた。
イクサは傍観に徹しつつ、羊飼いの少年を慰めていた。
それにしても……。
「どうやら魔の血を引く羊も混ざっているみたいだな。好戦的な気が伝染している」
「ちょっとイクサ!! 冷静に分析してないで助け、あ、らめぇぇぇ「んめぇぇぇぇ!!」
オーマの悲鳴と牧羊達の鳴き声とが重なり合う中、イクサはやや離れた所で腰を抜かしているウルの元へ近寄り、手を差し伸ばした。
「ほら、大丈夫か?」
「あ、ありがとうございます。勇者様」
日々の狩猟などで皮が剥けたり、豆が潰れたりと荒みきったイクサの手と、生まれたての赤子のように柔らかいままのウルの手とが触れる。
高鳴る鼓動などおくびにも出さず、ウルを立ち上がらせる。
「あの……」
しばらく無言で羊達の暴動を見守っていた羊飼いの少年が、ぼそりと小声をもらした。その声を受けて、ばっと繋いでいた手を離すイクサ。心なしかウルの頬もほんのりと染まっていた気がしたが、希望的観測に過ぎないと言い聞かせ、イクサは羊飼いの少年を見遣る。
「あれ……」
ん? と羊飼いの少年が指差す方角を追えば、その先には。
「……羊さんのメイドさん。です」
よくわからない感想を呟いているウルを隣に、イクサは声を失っていた。
(――なぜ彼女がここに?)
それは決して羊の群れにメイドが紛れていたという奇怪な場面からくる動揺などではなく、前回であればラッセンブルグで合流する筈であった“彼女”が、なぜ今この場に居るのか? イクサの中で、起こり得ない筈の状況が起きていた故の戸惑いだった。
血気盛んな羊達に紛れて、ちゃっかりオーマを折檻する獣人のメイド。いや、獣人の武闘家。
「な、なにがなんだか……」
羊飼いの少年も状況がのみ込めず、口をあんぐりと開いたまま立ち尽くしていた。
「あ、ちょっと!! 君は、ぶふぅ!! 誰だい!? どうして、おふっ!! 僕を殴っているの、かな!? よくわからないけど、うっ!! ありがとうございますっ!!」
雪崩の如くイメージを崩していくオーマと、そんな彼を一心不乱に殴り続けるエリィ。
「勇者様、はやく、その。オーマさんを助けないと……」
「いや、あれは大丈夫だろう」
前回、ラッセンブルグにて出会い頭にオーマが殴られてしまった時は、反射的に仲裁へ入ったが、二度目の彼は学んでいた。
エリィ・ブルーメは獣人だ。つまり、オーマの体質が彼女にも作用しているのだろう。それにしてはなんだか……前回よりも欝憤が溜まっているように見えなくもない過激な連打を放っていた。あの二人の利害が一致してる間は傍観していよう。イクサには他に考えるべき事があった。
なぜ、先の展開にここまでの違いが生じているのか? すべて自分に原因があるのか? それとも、まさか……
「俺以外にも……いるのか?」
その声は、不意に吹き抜けた一陣の風に運ばれて、どこか遠くへと消えていった。
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