第10話 神託の聖少女
「……イクサっ……」
ウルメ・メイヒェンが、今にも泣き出してしまいそうな表情で、彼の名を呼んでいた。
彼女の縋るような眼差しを断ち切るため、後ろ髪引かれる思いで背を向けるイクサ。
オーマも、エリィも、アジーも。みな等しく大切な仲間だ。
だが、ウルの存在だけ、イクサの中で一際輝いていたのもまた事実だった。
ウルに特別な感情を抱いていたのか?と問われれば、きっと自分は頷いてしまうだろう。
その想いにだけは、嘘をつきたくなかった。
イクサの名を呼ぶ、彼女の声が、川のせせらぎのように遠く、小さく離れていく。
眼前には『神の光』に包まれし魔王の姿があった。
魔王もまた「勇者よ」と、イクサの賭した覚悟を揺さぶるような、とても魔王とは思えない優しい声音を出して微笑んでいた。
そして『神の光』の挟間にて、彼にひとつの奇跡を与え、ひとつの希望を託していった。
勇者の使命。とは何なのだろうか? 前回の彼は旅を続けていく内に、困惑が膿のように膨れ上がるのを自覚していた。
魔王が再び目覚めるから封印しろ。と彼はこれからイエナバッハにて命じられる事となる。だが、魔王はまだ何もしていない。目覚めてすらいない。
確かに、100年前。イクフェス・イシュノルアが魔王を封ずるまで、円環大陸は血気盛んな魔物が蔓延しており、人間は常に畏怖と隣り合わせの生活を余儀なくされてきた。と語り継がれてはいる。
だが、今となっては、それも文献でのみ残る、過去からの言いつけに過ぎない。無論、過去の教訓は、生き抜く為に欠かせないものだ。
それでも、イクサは躊躇いを、罪の外に追い出せないでいた。目覚めた魔王と意思疎通を図って、それから最終的な判断に踏み切ってもいいのではないだろうか?
果たして前回の旅路の末に、彼の判断は間違っていなかったのだと証明された。だからこそ、イクサは、今、ここにいる。
「起きるんだ。イクサ・イシュノルア」
咽び泣くウルの鼻声とは違う、感情に乏しく冷めた響きが、彼の鼓膜を叩いた。
頭部をどこかに預けている感触を覚え、イクサは、はたと両目を見開く。
正面には、コレンツィヒで会った時より目の下の隈を濃くさせたシャロルが座っている。
自分が馬車の中でうたた寝に沈んでいたのだと分かると、イクサはしばらく茫然自失と、定まらない焦点を床に彷徨わせていた。
束の間の夢の余韻に浸るイクサへ、シャロルがぼそりと呟く。
「随分とうなされていたようだが」
「済まない」
コレンツィヒからイエナバッハまでは、一夜を掛けていた。
イクサも夜明けまでは眠気を堪えていたのだが、朝方には霞みかけていた思考ごと、イクサの意識は、眠りに落ちた。
「気にするな。私は住み慣れた寝室でなければ眠れない性格でな」
ふん、と鼻を鳴らして、窓の外へ視線を逸らすシャロル。
「俺は、何か言っていたか?」
「……いや。それよりも、もう門は越えたぞ。外を見るといい」
どうだ、美しいものだろ。と誇るシャロルに促されるまま、イクサは小さな窓から覗けるイエナバッハを一望した。
二度目となる旅路では、新鮮な感動も得られないが、イクサはかつての憧憬に思いを馳せて、ぼんやりと窓の外を見つめていた。
イエナバッハは古くより『ルーテン教団』の総本山として、円環大陸の中で、最も安全な地であることを貫いてきた。
共存共栄を公約に掲げるラッセンブルグとは、根本的に意趣の相反せし亜族禁制の街。それがイエナバッハだ。
徹底された『純白』の景色。イクサの故郷コレンツィヒの住処とは比べ物にならない豪華で丈夫な造りの住居は、屋根から外壁、基礎までの全てが白く塗装されている。
真っ白い石畳の街道は、のんびりと交差する荷馬車や、荷を紐で括り付けられた従牛。そして、混じりのない人間でのみ形成された雑踏に溢れていた。
イエナバッハの特色を語る上で外せないのが『聖蓮』と呼ばれる巨大な光る花である。
建物を避けるように花弁を広げる聖蓮。厳密には聖蓮の咲き誇る丘を、いつからか人々は聖地と崇め、安寧を求め移住してきたとされている。
渦巻いて広がる純白の花弁は、常に淡い光を灯しており、街中に漂う仄かな蜜の香りは、魔のものが嫌うものなのだとか。
白い人工物に、光る巨大花。執念じみた『白』への追及により、イエナバッハは雪が降らずとも、まるで雪景色に迷い込んだかの錯覚をみせてくれた。
「観光したい気持ちは汲み取りたいのだが、君にはそのまま教団本部まで足を運んでもらう」
「構わないさ」
イクサの薄い反応をどこでどう齟齬したのか、シャロルは憐れみのこもった物言いで、先の行動を制約した。
ルーテン教団の本部は、元は小高い丘だったとされている地を削って建てられている。その為、イエナバッハの街中であれば、どこに居ようとその白き棺桶を目に出来た。
周囲に比べて飾り気なく、ただ長方形の杭を大地に打ち込んだかのような、シンプル故の圧倒的存在感。
真っ白な巨鎧にぽつぽつと空く丸みを帯びた穴は、この世界とはまったく異なる文化から齎された楽器のようでもある。
人間賛歌に興じる神々がうっかり大地に落としてしまった笛なのだと喩える民謡も、前回の旅では聞いたことがあった。
あのような奇怪な建造物を如何にして築き上げたのか。疑問は尽きないが、イクサの心惹くものは、その建造物の中にこそある。
門扉もなく、ただ刳り抜かれただけの出入り口を進み、ほどなくして胃液をひっくり返すような馬車の酷い揺れも収まった。
行動を起こすのであれば、いつだろうか。イクサは無言で、考えを巡らせていた。
「さ、降りるぞ」
一足先に外へ這い出るシャロル。イクサは彼の後を追うように、腰を屈め、馬車の外へ足をつく。
ルーテン教団本部。白き棺桶の内部は、想像通りの白い塗装に一面覆われていた。
ここの内部構造も外観に劣らず斬新な様式を採用しており、長方形の部屋が整然と続く様は、図面に起こせば、きっと焼き立てで型に嵌ったままのプルマンブレッドが並ぶ様に似ているに違いない。
イクサは前の旅の時にラッセンブルグで食べたプルマンブレッドを甚く気に入っていた。また食べられるのだと思うと、旅の先に光明を得るような気分でさえある。
アジーなんかは「数十年ぶりのパンですのじゃ、ふぉ、うまっ」などと涙ぐみながら咽ていたぐらいだ。
ジグザグと上へ伸びる階段。教皇との謁見の間は最上階にあるため、この行程を数度繰り返すことになる。
だが、イクサが今回、目指すべきは最上階ではない。彼は祖先であるイクフェス・イシュノルアの遺骨が眠る霊安室への侵入を企んでいた。
イクフェス・イシュノルアの遺骨がルーテン教団本部に納められた経緯には、幾つかの理由がある。
まず第一に、ルーテン教団は、統治下にある全ての人間の遺骨を本部にて一括して管理すると取り決めていた。
ラッセンブルグは独自体制を取っているし、バンヘーゼンも施設の存在意義上、不干渉とされているから除外されるが、それ以外の円環大陸北側に位置するほとんどの集落は、イエナバッハに遺骨を納めるのである。
権威の横暴にも近い定めだが、拒んでも処刑されるわけでもないし、なにより、古来から霊魂を安らかに眠らせる事ができるのは唯一、教団本部。すなわち白き棺桶だけだとする風説が浸透していたから、どちらにせよ人々は望んで、納骨を申し出ていたのだ。
次に、イクフェス・イシュノルアは魔王封印の旅に出るにあたって、ルーテン教団から援助を受けていたとされている。
その結果、英霊の眠る場所として、教団本部を支持する層が厚かったのだ。
そして、最後の理由こそが、イクサの決意を後押しした最大の要因でもある。
イクフェス・イシュノルアは死の間際にて、ある遺言を残していた。
それは共に魔王封印を成し遂げた仲間達との絆の証を、自分の骨と一緒に、教団本部に納めて欲しいとの事だった。
公けには知られていない。イシュノルアの血筋にのみ語り継がれてきたものだ。
数多の遺骨を供養する霊安室は、巨大な地下空間に造られている筈だった。
「ついてきたまえ」
シャロルが毅然と言い放ち、階段を先導する。
イクサは彼の背へ、真っ直ぐに右腕を伸ばすと、小声で魔術を唱えた。
油断しきっていたシャロルが、いともたやすく拘束魔術の餌食となる。
両腕両足の付け根を、光輝く十字が貫き、身動きが封じられる。
「何のつもりだ?」
シャロルの怒声には答えず、イクサは続け様に、後ろを追従していた教団の二人へ同時に、シャロルに唱えたものと同じ拘束魔術を向けた。
「安心してくれ。危害を加えるつもりはない……」
「そういう意味で尋ねているのではない。何故、我々を拘束したのかと問うているのだっ!! イクサ・イシュノルア!!」
「どうしても、寄っておきたい場所がある」
「ならば、素直にそう話せばいいだろう」
「話しても理解を得られないと知っているから、俺はこうしているんだ」
イクサは彼等を置き去りにして、来た道を戻る。死者の眠りを妨げるようなシャロルの金切り声が、棺桶の中に響き渡っていた。
これでは、どちらにしろ猶予はあまりないな。
急がねば。と自らに言い聞かせて、イクサはその場で空間把握魔術を展開させていく。
元はアジーから教わったものだ。彼曰く「風に知る」というものらしい。
地下に広大な空間を感じ取る。地上と繋がる通り道の方角も、風が教えてくれた。
「こっちか……」
立ち塞がる教団の人間を尽く無力化しつつ、難なく地下への入り口に辿り着くイクサ。
しかし、彼は薄闇に沈む階段を見据えて、僅かに歩みを止めた。
「誰かいるのか」
目指す先に、人の気配を感じた。微力ながら魔力の残滓も漂っている。
一呼吸の逡巡を挟んで、姿を見られる前に気絶させることを結論付け、イクサは霊安室へと急ぐ。
霊安室は一切の間仕切りもなく、空間は白き棺桶よりも遙かに広い。
遠く離れた壁面にぽつぽつと光源が滲んでおり、目を凝らせば、壁には水瓶程の大きさをした空洞が等間隔に配されていた。
暗闇の奥で、誰かが歌っていた。
鈴の音のように澄んだ歌声が耳朶を揺すり、脳髄に沁み込んでいく。
ルーテン教団に伝わる聖歌だ。
暗順応に膨らむ瞳孔が、聖歌の主を浮かび上がらせていく。
口ずさんでいた詠唱が途切れる。
(――ウル)
イクサは声にならない吐息を小さくもらした。
聖蓮から抽出した蜜の色を想起させる琥珀色の頭髪。天使の羽のように軽やかで、背丈を包み隠す程に長い彼女の髪は、旅の道中にて、よく枝葉を絡ませていた。
自ら梳かすことも儘ならない長髪をエリィに梳いて貰いながら、彼女はいつも不便だと嘆いていた。
遅れて人の気配を察した少女が、イクサへと振り返る。
「あぅ、お聞きでしたか?」は、恥ずかしいです。と両頬を手で覆う少女。
「……いや」イクサはかろうじて、頭を横に振った。
「あの、霊安室は立ち入り禁止、なのです。えと、そのぉ……」まるで造り物のように美しい唇をもごもごさせて口籠る少女。
前回は、シャロルに従うまま教皇と謁見し、その後、彼女を紹介された。
僅かな時間の差が、出会いを早めてしまったのか。
無意味な考察に黙すイクサの目つきが鋭かったのか、少女は脅えた様子でか細い声に喉を震わせた。
「……ま、まいごですか?」
思考がずれてるのは変わらないな。イクサは内心、懐かしさから苦笑をもらしていた。
イエナバッハの住民からは、この世のあらゆる「蒼」よりも鮮やかだと神聖視される瞳が、イクサを上目遣いに見つめている。
頭の隅で、幾つもの過去が明滅し、言い表せない感情の激流が心をのみ込もうとしていた。
イクサは奥の歯の根を噛み締めて、彼女の純真さを利用することを決めた。
「イクフェス・イシュノルアの遺骨が納められた場所を探している」
「勇者様の……ですか?」
「俺は、イクサ・イシュノルアという。……どうしても、先祖様に一目会っておきたいんだ」
速やかに疑いを払拭すべく、彼は先手を打った。
「あ、あわわ。勇者様の子孫様でしたか。わ、わたしは、ウルメ・メイヒェンと申します。そ、その、はじめまして。です」
ややずれた言葉遣いと言動とが、いかにも彼女らしかった。
そういえば、最初は『勇者様』だったな。イクサは、目の前の少女が、自分や他の仲間達を呼び捨てにしてくれるまでに割いた苦労を思い返していた。
女好きのオーマらしいスキンシップはエリィに殴り飛ばされ、されど、オーマと大して変わらないエリィのセクハラは、アジーにくどくどと説教をされ、で、アジーが「自信作ですじゃ」と断言した渾身の一発芸は、誰一人笑わず。
イクサも機嫌取りは好きじゃないと断わっておきながら、食事で釣るような真似をしていた。結局、彼女が自分を「イクサ」と呼んでくれたのは、長いようで短い旅も終盤になるバンヘーゼンでの出来事だった。
あの時は、その先があると頑なに信じていたものだ。だから、それ以上を求めたいとは思わなかった。
だけど、今ならどうだろうか。イクサは本心であれば、今すぐにも彼女の華奢な身体を自らの両腕に抱き締めたかった。
「気にしなくていい。それよりも、案内を頼んでもいいか?」
「は、はいっ!! こっちです!!」
慄くように全身を弾ませ、慌てて踏み出そうとするウル。
「きゅぅ」
しかし、床に引き擦るほど長いローブの裾を踏み付けて派手に転んで見せた。お約束だ。
小動物のような鳴き声が恥ずかしかったのか、頬を紅潮させて笑うウルへ、イクサはそっと右手を伸ばす。
二度目となる神託の聖少女ウルメ・メイヒェンとの出会い。
イクサは、彼女の砂まみれの笑顔をしっかりと網膜に焼き付けておいた。
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